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2011年2月

中野区白地図探しのたび

以前、中野区の歴史民俗資料館で商店街の展示を見たときに、そこで用いられている白地図に暗渠が描かれていることを発見しました。
杉並区の史跡散歩地図然り、区で発行している史跡地図系には、ひそかに暗渠がうねうねと描かれていることが多いです。ところが、中野区にはそれがなかったので、少し物足りなく思っていた矢先でした。

資料館の職員さんに買えまいか尋ねたところ、その白地図は区役所から提供されたもので、資料館には余分が無い、とのこと。おお、そうか、じゃあ区役所でもらってこよう!・・・ここから、思いもよらぬ白地図探しの長旅が始まりました。

Haku1

まずは中野区役所に、レッツゴー!

「こんにちは、なみすけだよ。おとなり、中野区役所にやってきたよ。」

杉並区にばかり居る、なみすけも一緒に連れて行ってみました。ま、このあと無事わたしの胃におさまるんですがね・・・なみすけ。

Haku2

ちょうどお昼を微妙に過ぎた頃に来たので、地図のまえに腹ごしらえです。区役所内の食堂は、中野満点食堂といいました。

こういう、いかにも社食・学食みたいなところって、ワクワクします!カレーか、ラーメンが食べたいなー。定食も気になりましたが、お昼まっただなかに売り切れてしまったようです。

Haku3

で、コロッケカレーにしました。たしか、450円くらいだったような(結構前なのでちゃんと覚えていない・・・)。
10月だったと思うのですが、時期限定で、”みかんがサービス”されていました。かわいい・・・うれしいw

もう、食堂のカレー!B級グルメ!で、満足しました。

お腹を満たし、受付に戻ります。受付の方に経緯を説明して、白地図を扱っている部署はどこか尋ねると、区役所内では扱っていないということ。なんとなくあっさり門前払いみたいに感じたので、防災や史跡でいいからと地図を扱う部署をたずねました。すると、ぶよお堂という日本橋の地図屋さんに行ってくれ、とのことでした。
うーん・・・資料館で聞いたのと違う・・・。なんだか腑に落ちないものを感じつつ、日を改めてぶよお堂へ行くことにします。

Buyoo

別な日。ぶよお堂に行ってきました。
地図だらけの、実にたのしいお店でした!!いろんな地図があるし、古地図もあるし、関係本もあるし・・・。居るだけでたのしい。
けど主たる目的は中野区の白地図なわけで、それを店員さんに尋ねてみました(とても親切に対応していただきました)。すると、、、お店にあったのは、資料館のものとは違う地図でした。白地図には違いないのだけど。でも暗渠が載ってないのです。

Buyoo2

これで、手がかりが失われたような状態です。

まあ折角八重洲近辺まできたので、まさに紅葉川さんぽの途中でもあったわたしは、”もうひとつの紅葉川”跡にあたる、八重洲地下街でゴハンでも食べるか、ということにしました。

・・・ふーむ。あの白地図は幻ではなく、たしかにあった。なのにこんなに難航するなんて。
後日、もう一度中野区役所にアプローチすることにしました。といっても、受付からは同じ対応をされる気がしたので、今度は電話で尋ねます。
すると、今度は広報に回され、そこで広報の方がとても丁寧に対応してくださいました。広報のKさんが調べてくださったことによれば、該当する白地図は”区の業務で使うなら”と作らせたもので、残念ながら区役所にも資料館にも残部は無い。ただし、図書館(資料庫)にはあるようだ、とのことでした。3段階の大きさがあるので、そのどれかではないか、とのこと。ヤッタ!

White

さらに日を改めて、中野区中央図書館へと向かいます。

電話口ではたしかに 東京地図社 と仰っていたので、検索にかけて確認しようとすると、そもそも東京地図社が引っかからない。ちょっと嫌な予感がしながらも、司書さんに直接尋ねます。・・・すると、司書さんは開架にある白地図しか心当たりが無いよう。
この件に関して、連続してうまくいってないので、もうすぐ心が折れそうです。しかし、がんばって広報の方が仰っていたことを伝え、交渉します。・・・すると、「あ、あれかなあ?」と、奥から持ってきてくださったのが、それっぽい白地図2種。

わー、暗渠がニョロニョロ載ってる!!ヤッター!東京地図社じゃなくって、どっちも昭文社だけど。3種じゃなくて2種だけど。でも、いいや、これが探していたものに一番ちかい!”半分”を丁寧に選んで、コピーさせていただきました。

てなわけで、紆余曲折ありましたが、やっとこ入手した、昭文社の白地図。特に中野区役所広報の方には、とっても感謝しています。以前、中野駅前支流について調べたときも、別な部署の方々がほんとに親切でした。中野区役所の職員さん、ありがとうございます!わたし、杉並区民でごめんなさい!
肝心の白地図の暗渠についてですが、概ね知っているものばかりでした。しかし、小淀川島田軒牧場支流(仮)などが確認できたり、支流のちょっとした支流を見つけられたりと、私的には興奮する内容です。確認してみたい方は、中野区中央図書館へGO!

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軍事クッキング①「高射砲跡焼き」

暗渠率低くてすいません。今回は初挑戦カテゴリ、軍事クッキングです。

あるひ、ツイッター上でMさんから頂いたお言葉が、とても響きました。
「高射砲跡焼きという料理またはお菓子、創作できませんか?」

そういえば、世の中には、ダムカレーみたいなドボクメシがある。それから、給水塔ケーキや、橋脚クッキーなんかも、最近作った御方がいらっしゃるようだ・・・。

とたんに脳内に、パァァァッとたのしげな世界が広がりました。自分の好きな領域である、暗渠や軍事もの、それを自分が好きな料理やお菓子づくりに使えるだなんて!なんで今まで、自分で思いつけなかったのでしょう。・・・そしてその後もあれこれアイディアを出し(&出していただき)、その様子を見て若干不安がる人も居たようではあります。。
でもまあ、いいんです。まずは、うきうきしながら高射砲焼きの創作にとりかかろうと思います。目標は、現物に近いのももちろんだけど、食べて美味しい、見て美味しい、も目指したい!

--------まずは、高射砲の説明をば-------

高射砲とは、航空機を攻撃するために地上に設置されたものです。「軍用地と都市・民衆」によれば、日本において高射砲連隊がつくられたのは昭和元年のことで、飛行連隊設置とほぼ同時だったそうです。

Kugayama_2

杉並区においては、荻窪および武蔵野市西窪にあった中島飛行機の工場を防衛するために、昭和18年に松ノ木、西荻北、下井草、久我山の4箇所に高射砲陣地がつくられています(「杉並風土記」より)。

写真は久我山にあった7センチ野戦高射砲(前掲書よりコピー拝借)。これで昭和19年にB29を迎撃したものの、弾は敵機に届かなかったといわれます。
そして、昭和20年には15センチ高射砲(到達高度、命中精度ともに向上)を2門、久我山に設置したところ、同年8月の空襲の際は敵機を2機撃墜できたということです。

この、高射砲の台座は、かつての航空写真からも見ることができます。

Matunoki

gooの昭和22年航空写真から拝借しました、杉並区大宮公園(現・松ノ木中学校校庭)の写真です。ポコポコある丸いものが、高射砲陣地です。

・・・杉並区内の4箇所について、調べているときにふと気付いたことがあります。この、松ノ木のものは善福寺川が目と鼻の先。それから、下井草(現・中瀬中学校校庭)は井草川のすぐ脇、久我山(大蔵省印刷局グランド)は神田川のすぐ脇と、川沿い率が高いのです・・・。後述する、高射砲の性質に関連し、広い土地であることのほか、消火の意味も含めて川沿いに置く必要があったのかな、と推測しています。じつは高射砲も暗渠サインになりうるかも、と勝手に結び付けたいわたしですw

中野区の歴史民俗資料館に、個人が高射砲について書かれた冊子(岩渕文人「高射砲陣地余話」)が寄贈されていました。それによれば、敵機に命中しないしないと言われてもいるけれど、高射砲は直接機体に命中させ撃ち落とすのではなく、破片により被害を与える搾裂弾であったということです。付近にはバラバラと弾が落ちたことでしょう・・・。
また、江古田にも高射砲陣地があって、そこには4門あり(航空写真には8門みえている)、電波探知機による射撃ができたそうです。ちなみに砲数4門の場合の人員を試算すると、”中隊長以下観測10、算定具手16、砲手24、その他の計60名”ほどとなるそうです。

Kousha0

高射砲自体が現存しているというのは聞いたことはありませんが、ときどき、高射砲台座跡が見られることがあります。これは、葛飾区のふつーの駐車場に堂々とあるものです。

葛飾区の白鳥3~4丁目には、上記の松ノ木×3ほども、高射砲が設置されていたようで(4門で60名ならば、ここにはもっと大量の人員が配属されていたことになります)、その一部の跡がこのようにさりげなく保存されています。

Bolt

残念ながら葛飾さんぽの際には見つけられなかったのですが、このようなボルトの見えるタイプの高射砲跡もあるようです。

こんなに大量の高射砲が、葛飾付近のいったい何を守っていたのか、まだ調べられていませんが、気になっているところです・・・。

------続きまして、高射砲跡焼きのレシピを---------

と、いうわけで、高射砲跡焼きをつくりたいと思います。
写真にあったような、円形の台座と、その上に八角形の埋められた跡のあるものと、ボルトの跡が残るものを、菓子にて再現しようというわけです。

Kousha1

まずわたしの頭に浮かんだのは、パンケーキのような、どら焼きのようなものでした。
で、なんとなくどら焼きで固まっていって、できたのがこんなんです。

ボルト跡タイプ。

Kousha2

上に小豆をちょんちょんとのせているだけで、いたってふつうのどら焼きです。

味も、「うん、どら焼きだね」という味がしますw

・・・てか、もはやどら焼き>高射砲跡、になっていますね。ははは・・・。

そんなちょっと自信の足りない仕上がりですが、一応レシピもご紹介。クックパッドのレシピを適当に変えたものです。

<材料> 卵2こ、グラニュー糖スティック11本(※)、はちみつ大さじ1、薄力粉1カップ弱、ベーキングパウダー少々、つぶあん適当

<作り方>
1.卵、砂糖、はちみつをボウルに入れ、じゅうぶんに泡立てる。
2.薄力粉とベーキングパウダーをふるい、1に入れる。水を小さじ2加えて、切るように混ぜる。ここで生地を15分休ませる。
3.水小さじ2をまた加え混ぜ、フライパン(ホットプレートでもよいでしょう)を弱火~中火にかけ、そこに生地を適当に丸く流す。
4.両面焼き、取り出したら濡れぶきんでつつむ。
5.ボルトタイプ→皮2枚につぶあんを薄くはさみ、上に小豆をボルトに見立ててのせる。

※自分は三温糖使用派ですが、年末の職場大掃除で発掘された数年前のグラニュー糖を、勿体ないからと持ち帰って使ってみました。すると、計量しなくてもよいので、アラ便利!おまけに、グラニュー糖って賞味期限がないのだそうで、アラアラ素敵!w
  

Kousha3

八角形の埋め跡がついてるものも、作ってみました。上にのせるのは小さめのどら焼き、とイメージしていましたが、いまいちな仕上がりになってしまったので、あんこで埋め跡をつくりました。

ちなみに、これを半分に折って、「三笠山」にしても美味しいですよ~。。

ああっこのカタチも作れば良かった・・・!廃墟徒然草さんに載っている、これ。それから、撮ったはずなのにファイルが見つけられない、調布(どんぐり山)の高射砲跡。ここらへんの形を使った、”高射砲跡ケーキ”も、いずれ作りたいと思います。

・・・今後に期待ということで。暗渠メシふくめ、まだまだ他に作りたいものがあります。はっきりいって、なんの情報にもならないシリーズになりそうですがw、生温かい目で見守っていただければ幸いです。

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港区オフィス街湧水群

前回は町田からバスに乗って、相模川沿いの湧水を見ました。おつぎは、東京にだって湧水があるんだぞってのを、お見せしたいと思います。
その情報は、「新東京の自然水」(早川光著)にて得ました。湧水の本はいろいろあれど、この本には知らずにいた都心の湧水の話も多く、興味深かったのです。たとえば、以前書いた魚らん坂近辺にも!まさかあの付近に、とは、当時は思いもよりませんでした。・・・今回はその、知らなかった港区の湧水群を見に行こうと思います。(タイトルは、まつもと城下町湧水群に、敬意を表してますw)

前掲書では高級住宅地と湧水のつながりに言及しています。高級住宅地はかつて大名屋敷だった場合も多く、大名屋敷は飲用や庭園のために水のいい場所につくるもの、と。言われてみれば、という感じです。

Mina1 そこで出てくるのが三田・高輪。泉岳寺でも昔はたくさん水が出ていたそうです。

そして、今も残る湧水たちは・・・。ちなみにこの日、わたしはあろうことか情報をプロットしたマイ地図を忘れてきてしまいました。つまり、曖昧な記憶だけで巡る旅ですw

まずは、魚らん坂にある、薬王寺。薬王寺の裏側はみごとな崖でした。いかにも水が湧きそうではありますが、

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薬王寺にある湧水というのは、この井戸のことでした。”あさがおの井戸”。
立派なつるべ式の井戸ですね。きれいに保たれていますが、江戸期にはここにあさがおが巻きついていて俳句に詠まれ、その名になったようです。

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つぎは、魚らん坂から伊皿子坂へ、登って、下ります。こちら側の崖地帯にも何かあるらしいので、うろうろします。お寺を探すのですが、なかなか見つかりません・・・。
しかし、この伊皿子坂下の空間、初めて来ましたが、なんだか違和感空間です。

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道路のむこうに、ポコっと穴があいているような、そんな感覚。
ふと見ると、丸井戸がありました。なんと、泉岳寺駅のすぐ近くに、住所は高輪なのに、こんな立派な丸井戸が残っているなんて・・・!

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その丸井戸の家の脇から見下ろす景色が、これです。わたしの写真ではほとんど伝わらないのが残念だけれど、みごとな窪地で、異空間なのです。

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思わず、吸い寄せられ・・・。
おそらく、目指すお寺の敷地なのかもしれないのですが、このビル裏に突然あらわれる山というか崖、崩壊した斜面と、お墓たち。お寺とつながった空間ではなく、独立しているのがまた、ふしぎな光景です。

この一帯はむかしむかし、高縄手とよばれる台地で、伊皿子坂の下はもう海だったのだそうです。もしかすると、この周囲の高いところはぐるっと陸で、いま立っているところは海の中だった・・・とか、なのかもしれない??

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周囲を少し迷って、たどりついたのが目指していた道往寺でした。ここにも湧水があったはずなのですが・・・。立派な井戸は、ありました。

家に帰って資料を見たら、どうやら道往寺の”門前の民家の前”に湧水の井戸があり、(麻布の善福寺のような感じで)清涼な水が流れ出ているということでした。

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・・・今回は、その情報なく、お寺ばかり目指してしまいました。ゆえに、その井戸は見つけられませんでした。しかし、本自体が1992年の出版です。もしかすると、今は無いかもしれません(そのうちリベンジしますけどね)。

道往寺の門には、ちかぢか建て替え工事をするようなことが書いてありました。この辺の風景、もしかしたら近いうちに変わってしまうのかもしれません。

道往寺からすこし行ったところに、こんなふうな、よい感じの建物がありました。

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さて、もう少し移動して、今度は第一京浜沿いに歩きます。見わたす限りのオフィス群。そこでビルの間にひっそりと入口をもつ、成覚寺というお寺に行きます。

ここにも、湧水があるという・・・

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お寺の奥へとすすむと、そこにはものすごいコンクリの崖と、その壁に埋められた物体という、妙な光景が待っていました。妙すぎて、これが何なのか、すぐには理解できません。

なんこれが、現役の湧水なのでした!!

樋のようなもので湧水をカバーしているように見えます。・・・住職さんが、怪しい者だと思われたのかw、声をかけてくださいました(良い子のみんな、ここの湧水を見に行くときは、住職さんにお断りしましょう・・・。)

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そしてここの湧水について、あれこれ教えてくださいました。

縦に伸びる大きな樋のようなものは、湧水をあつめる雨樋。そのなかをつたって、この蛇口から出るものと、自然に下に溜まるものとあるようです。

ここの湧水は住職さんが子どもの頃からあったけれど、最も勢いが凄いときは、まるで滝のようにブシャー!!と出ていて、2~3mさきのお墓がずぶ濡れになるほどだったそうです。それではそのお墓があんまりだと思うけれど、壁はお寺のものではないので工事ができず、苦肉の策としてこの雨樋を付けたそうです。

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しかし、近隣のあちこちで建設工事がなされ、水脈が断たれたようで、一度は涸れてしまった。けれどしばらくしたら又、チョロチョロと出始めた!、と、いうことでした。(水みちが、変わった・・・?)

今現在はまだチョロチョロ、なので、少しでも湧水をあつめようと、このようにタオルを使ったりして、工夫しながら溜めているそうです。

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その、歴史ある湧水は、3つの浴槽と脇の水たまりを年中うるおしています。

浴槽をのぞきこむと、そこには金魚が悠々泳いでいました。浴槽自体は屋外放置で古く、汚れていますが、湛えられた水のなんときれいなこと!透明で、金魚もくっきり見えます。

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脇の水たまりものぞき込みます。

うん、たっぷりと溜まっています。住職さんがここの生きものについて、「金魚とカエルたち」と仰っていたので、ここには季節によってはカエルがいることがうかがえました。今は冬眠中か、卵なのかもしれないけれど。

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もいちど、ヒキで見てみましょう。一度は涸れてしまった湧水が、少しでも戻ってきた、という話は、喜ばしいことのように感じます。因みに、現在の湧水量は、天候や季節によらず、常に一定量だということです。

・・・崖の上の土地がなんなのか、素朴に気になります。いまはNTTデータのようですが、門などは妙にふるく、がっしりしているのです。住職さんいわく、もともとは三井の土地で、戦後接収されてセントメリーという学校となり、その後NTTデータの土地へとなったそうです。(住職さんはセントメリー時代からご存じとのこと。)

感慨深く、何度もながめます。・・・成覚寺の住職さん、本当にどうもありがとうございました。

そして、同じ通り沿いにも湧水があるようなので、さがします。

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御田八幡神社。ここです。
神社は階段の上、つまり崖の上にあるのですが、その階段の脇に、ありましたありました!!龍の口からチョロチョロと出てくる湧水が!!

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龍の口から吐き出された水は、やはりきれいなものでした。
落ち葉や泥がこんなにたまっているのに、水がいたってキレイ。金魚も寒くはなさそうです。赤い色がぽっかり浮かびあがって、とてもあざやか。

今現在、魚らん坂近辺の崖(渋谷川側)からは(直の)湧水は見られないようですが、こちら側(海側)の崖からの直湧水は、水量は減れども、生き残っているということになりますね。

むかしはこのエリア、十~数十年前はあちこちからダクダク出ていたようです。湧水池もいっぱいあったのか?と思って古地図を見てみても、実はそんなには見当たりません。御田八幡神社のやや北東にひとつ、それからもっと北東の浅野邸にひとつ、明治~昭和初期に池を確認することができます。

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・・・御田八幡神社から通りへ出てみると、こんな景色です。港区のオフィス街。平日は、スーツの人たちが大量に闊歩することでしょう。

しかし、このビルの裏側に、すきまに、いまでもひっそりと、チョロチョロと流れる湧水があることを、わたしは知ってしまった・・・。こんな場所でも、いまも生き残る、水脈。せつないような、いや、神々しいような。

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さて、田町の駅から帰ります。コバラが減ったので、おやつにしよう。

駅前の”森永エンゼル街”というのが気になったので入ってみました。すると、その中にベーカリー&カフェがありました。くすんだ内装、椅子の感じやらが、ものすごい昭和です。昭和の日曜日。で、さらに、パン屋さんのゾーンのほかに「売店」みたいな一角があって、そこでは森永商品しか売っていないという!(こういうの大好き!)もちろん売店をしばし堪能しました。

それから、ちびエンゼルパイと、ちびカレーパン、ちびチョコパイで、コーヒー。安くて小さなパンでしたが、なかなか満足しました。 ソフトクリームも食べれば良かったかな。

さてさて、今回はオフィス街にひそむ、湧水たちをちびっとご紹介しました。が、そもそも資料を忘れてきているし、道往寺のほかにもいくつか抜けがあります。残りもいつか、見に行こうと思います。

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田名 水づくしのたび②

田名、水づくしのたびのつづきです。ちなみに、田名の蓋も含め、「蓋コレクション(左サイドバー)」を久々に更新しました。

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前回は新堀(旧烏山用水)を中心に歩きましたが、今回はこの大堀(相模川幹線用水路)へと注ぐ流れに注目です。

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ちいさな樋と、そこから滴るささやかな流れが見えます。

むぅ・・・あの感じ、湧水じゃ?

行こう行こう、向こうは山の斜面みたいな所だけど登っちゃおう!

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樋が続いている、小さな側溝に沿って、軽い山道みたいなところ(小さな道でしたが、旧大山街道というようです)を上ります。すると、雨が降ったわけでもないのに、道が濡れている・・・。

すごいじゃばじゃばしてる・・・

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どこかから湧いてる!これ確実に近くで湧いてる!!

と、興奮してかけのぼり、道を凝視し、落ち葉をかき分けたりしていたら、落ち葉の下から小さなせせらぎが見つかりました。

結構勢い良く流れています。すぐそこに崖があり、あちこちから浸み出しているようです。

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いまの場所もよかったですが、来る途中でバスから見えた、もっとダクダクの湧水も見に行かなければ。

崖を上ります。眼下には、相模川がつくった谷底。けっこう大規模で、すんごい見晴らしです。

登りきって、超鋭角にターンすると、目指す坂道に出ます。

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その坂道には”しろ坂”という標柱がありました。なんとなく”城”をイメージしましたが、由来は城とも”白い岩盤”ともいわれるそうです。

で。しろ坂を下るとまもなく、ここらへんからもう浸み出し始めています。車道にじわじわとあふれているのが見えますでしょうか。

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もすこし下ると、だばだばっとね!!

凄い勢い!

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岩肌を艶めかしく濡らしつつ、絶えることなく、だくだくと。

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もう、さっきからわたしは興奮しっぱなしです。「なにこれー!うわー!うわー!」ってなってます。

しろ坂はこのように歩道なんてないような車道なんですけど、右側の斜面がずっとすごいことになっているので、車の存在を忘れてしまいます。これから見にゆく方は、気をつけてくださいまし。

Tana44

できたての湧水ですから、かなりの透明度です。

ここは側溝ですが、かなりキレイな水がたっぷりと流れていきます。

Tana45

こんなに上からも・・・。

しかしさきほど”白い岩盤”とか書いてあるのを見たわけですが、あんまり白くもないんです。。

Tana46

もうこの岩壁に向かって、何枚写真を撮ったかわかりません。

流れがよどんでいるところでも、落ち葉がどんだけ溜まっていても、この透明度です。

ぴかぴか!

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みてー!みてー!
ここなんて、滝!!ブッシャアー!

滝っすよ!!(滝は2,3個ありました!!)

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何度もいいますがココ、こんな道路っぱたですよ?

うはぁー、すごすぎる、田名。

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水の勢いが凄すぎて、側溝からも滝の如く飛び出しています。さらに、横からあふれています。

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そして、ダクダク地帯が終わったところで暗渠にかわり、このコンクリ蓋の下を通って、かえってゆくのでした。

ふはぁ・・・。相当に興奮した。

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いちおう、大堀まで見届けることにします。これが出口かな?・・・あり、減っているような。

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そしてちょうど良いことに、しろ坂を下ったところにあるのが、相模川ふれあい科学館です。まさに寄ろうと思っていたところ。

券売機の余りスペースを使って、魚の図鑑みたいにしてくれていました。ヤマメ、ニジマス、アユ・・・いやぁー、美味しそうですねー!中にも、これらの魚の水槽があって、個人的にはとても釣りがしたくなりました。

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この日はたまたま、ペンギンのおさんぽ、なるものをやっていました!ペンギンは好きな動物の相当上位です。小学生の頃、自宅でペンギンを飼っているという人の記事を読んで、本気で「飼うにはどうしたらいいか」を考えていました・・・動きがもうヤバいくらい好きなんです。そんなわけで、子ども向けイベントでしたが、しっかり楽しみました。

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ペンギンのおさんぽは時間制でしたが、施設内の池にいくと、なんとカモが。トコトコ寄ってきた・・・!!こんなのはじめて!

この方、アイコさんといって、ここに住みついちゃったようなんです。人に寄ってくるので、こんなふうに接写できます。・・・ぐわぁ~~、わたし鳥類大好きなんです。嬉しすぎてもうだめ。。。
この日以降、すべてのカモはわたしにとって”アイコ”ですw

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前回のビーグルくんといい、アイコといい、なんか自由で気さくな動物の居るまち、田名。

科学館には湧水池とか水車とか書かれたものもありましたが、人工度が高すぎるため割愛。かなり満足して科学館をでると、また暗渠でした。バーコードみたいな、変わった蓋です。色も。

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なかなか楽しかったですが、そろそろ休憩をしたいところです。喫茶店でも定食屋でもいいから、なんか食べられるところは・・・あ、あった、カフェ!

カフェ・・・。という名の、カラオケのようでした。ズコー。前回の観光協会という名のカラオケルームのように、この地ではまずカラオケなのか。。

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仕方がないので、飲食はあきらめます。

さいごに、新堀の辿っていないところを歩こうと思います。木道のはじまりは、ここ。
ちなみに、右手の家の大型犬に吠えまくられるのでちょっとブルブル。

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少し下っただけで、鬱蒼。ここの眺め、けっこう好きです。

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水門跡がありました。よくみると、何箇所もこういった水門の跡があります。田んぼがいっぱいあった時代、どんどんと分水されていたのでしょうね・・・。

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また、谷保っぽくなります。

なんてのどかなんだー。

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ナナメ橋登場。

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鯉もスイスイ。
だけど、ちょいちょい鯉が跳ねるので、そのたびにビクッ!!となってしまうので少しこわい(リアルに飛び上がります。踏み外したらどうしてくれるんだ)・・・。

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そして、前回遡ってきた場所に戻ってくるのでした。

いやぁ、水路脇のみち、満喫しました。

あとはバス停に向かいつつ、暗渠さがしをします。

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すると、用水路暗渠沿いにクリーニング屋さんがありました。
いやいや、良く見てください。ここ、クリーニング屋さんと駄菓子屋さんを兼ねています!1000種類の駄菓子だって、すごいぞ、マミー!さっそく店内に入ってみると、マミーはそのスペースの殆どが駄菓子で、クリーニング屋さんはレジのとこにちょっぴり。そして近所の子どもや若夫婦やらがたのしげに駄菓子を選んでいます。みんな声を掛け合っていて、すごく古き良きニッポンな感じがしました。

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とうぜん自分も駄菓子を買います。山盛り買っても、500円もしないなんて駄菓子ってほんとうに素晴らしい!

マミーはさすがの品ぞろえで、今まで出会ったことのない駄菓子がこんなにありました。バス停のベンチに並べてみましたよ。
この”マギーおばさんのチョコチップクッキー”は、若夫婦の夫が妻に「マギーは買っといて」と言っていたのを見、さぞ美味いんだろうと思っていたら、なかなかのコスパでした。ふぅ・・・面白かった。
後半は、湧水のほかは、カモと駄菓子に感動するという暗渠感のすくない記事となってしまいましたが、田名はひそかに見どころ多し、ということで。あの湧水は、またいつか見に行きたいなぁ・・・。
と、いうところで田名の記事はいったんおしまいですが、次回はうってかわって、都会の湧水群をお目にかけたいと思います。

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田名 水づくしのたび①

昨夏、しかすけさんのサイトで見て、素敵だなあと思った地、田名。水路を覆う、遊歩道のあるまち。行きたい!と言ってからだいぶ時間が経ってしまいましたが、この冬についに味わうことができました。

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町田で降り、バスに乗ります。
町田駅はたまぁぁぁぁにしか来ないので、すでにちょっと観光気分です。JRの線路のところにある看板が手書きで、なんだかカワイイ(”よ”がデカくね?w)

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・・・なんとバスの行き先はこれ。

水郷、ってがっつり付けちゃってます。なんという自信。これぞ水郷。
バスに乗ると、途中まではまあ町中の風景なんですが、いきなり崖を下りはじめ、山肌にだくだくと水が湧いているさまがすぐそこに見えるという、すごい景色になります(「わー!」「きゃー!」ってなります)。そしてまもなく、終点水郷田名。

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その「水郷田名」で降り、バスターミナルからてくてく。ターミナルのそばに飲み屋さんと美容室が一軒ずつ。がらん。

あ、早速用水路暗渠です!ちなみに田名は、わたしの神奈川用地図には入っていないし、ヤフーの地図をプリントアウトして持ってきたけれどかなり心もとない感じで、勘をたよりにするしかない状況です。

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暗渠はガタガタっとした感じで、つづきます。うんうん、これは、もししかすけさんのあの風景にすぐ出会えないとしても、水路がいっぱいある予感。期待できそうです。

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あ、見上げると電灯にも「水郷田名」。

しかし予想以上にしぃんとしていて、商店街らしきものはなく、お店も人もまばらです。(というわけなので、今回食べあるきには期待しないでくださいw)

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さっそく良い感じの開渠です!

ここは、山形の石積み用水路に似たものを感じます。ひっそり、ひっそりと。

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さらさらゆくよ。

なかなか、きれい。

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随所に暗渠もあります。相模川から来ている用水路の暗渠で、

こんなふうに4コマ漫画みたいになってるのもあります。

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あ、よくみると、4コマ漫画蓋暗渠は、ぽつ ぽつ、と連なっていました。
おもしろいw

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ぷらぷらと歩いているだけで、どんどん暗渠開渠に出会います。

この物置みたいなところの下から、ゴォォ・・・と音がします。

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裏に回ると、やはり水路。犬も歩けば、水路にあたる。

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物置の裏、まっすぐに向こうにのびてゆきます。
ここはずいぶん、凛とした開渠ですねえ。

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そしてさきほどの物置へと注いでくるのは、この水路でした。一転して観光地風になります。

ウッドデッキがあって、椅子があって。

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鯉がわしゃわしゃ泳いでいる。

けど、水質はいまひとつです。この場所だと、鯉すらよく見えないくらい;

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ふと横には・・・、水郷パーキング。

水郷パーキングかぁ・・・w。一度は借りてみたいものです。

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さて、ようやっと目的の水路に出ました!!わりと早く出会えて、うれしい!
さらさら流れる水路の、半分を板が覆っていてそこを歩けます(ある意味半渠か)。んんんん~~~、こんなところ歩けるなんて、幸せすぎる。

この、木の板をカコン、カコン・・・と、歩きつつ水路を見ます。

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大きな鯉が優雅にゆらゆらしています。取るなって言われても、これを取る気にはなかなかならないと思うんですが(でかすぎて)・・・

いじめたりしないでください、の文言には愛らしさを感じてしまいます。どうやらここは、新堀と呼ばれているようですね。

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こんなふうに、洗い場もあります。
洗い場自体はもう使われていないようですが、この石積みが実際に地元の生活を密着していたことを、感じさせます。

案内板がありました。それによると、
江戸時代末期に造られた由緒ある新堀用水路も近年の都市化により、往時の面影を失ってきました。
そこで昭和63年度から水路と下水の分離工事を行い合わせて散策路としての木道を設置し、錦鯉も放流され往時の清流が蘇り、平成4年度に全国土地改良事業団体連合会により農村景観百選に選ばれました。この入選は町並に調和した清流を泳ぐ錦鯉、散策路としての木道の景観、地元「新堀用水路を愛する会」による景観の維持・向上の努力などが認められたものです。

そして、平成4年当時と思われる、とても透き通った流れの写真がありました。残念ながら、現在はその頃よりは澱んで見えます。しかし、いまでも随所に地元の方が水路を大切にしているようすがうかがえる気がします。

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「足元に気をつけて歩きましょう」
ほんとに、酔っぱらって歩いたらボチャン!てなりそう。

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なんだか、谷保の水路みたいに、水路と人との距離が近くて、それがうれしくてたまらないのです。
ほら、ここの風景なんて、とても似ている。

ちょうどここにも、案内板があって、それには、
この水路は、烏山用水といって今から約130年ほど前、田名の領主烏山藩が相模川から用水を引いた(山王崖から隧道を掘って)血のにじむ努力 その後改修により新堀とよばれる 久所、望地の水田を潤す水田が無くなって来て、水も汚れてきた そして地元の皆で大改修しうまれかわったのが平成2年
「これからは、みんなで力を合せこの水路を愛し守っていきましょう。」

と、手書きで書いてあるんです。木の板に、手書き。文章も素朴。

ここは新堀用水路(旧烏山用水)、ということみたいです。

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どこまでもつづく・・・。家々の間を縫っていくようすもステキです。

チャンスを逃してしまいましたが、向こうに猫が過ぎりました。

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ほとりに、材木屋さんのある風景。

暗渠沿いによく材木屋さんを見かけ、川を幻視しようとするわけですが、今後この画が幻視の好材料になりそうです。

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水路をカコカコ歩いていると、すぐ脇に観光協会の建物があることに気づきました。冒頭で書いたように、今回はこの地の資料がものすごく乏しい。なにかチラシ1枚でもいいから、ないものか・・・

と、観光協会の建物のあたりをうろうろしたら、

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なんと「観光協会」の実態は、カラオケルーム・・・!自由参加・・・!お気軽に利用っていわれても!
しかも中からうっすら漏れ聞こえる気がする・・・。うろうろしすぎて、参加を促されてもわたしは清野とおる氏のようにはなれないので、退散、退散。

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またもとの水路に戻ります。

さっきから何回同じような写真撮ってんだよ!って思われるかもしれませんが・・・、ちょこっとず~つ感じが違うのですよ。良い木道だよなぁ。

観光協会のちょっと先でこの遊歩道は終わり、

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町角の水路となって、町を迂回するようでした(※)。

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この用水の取水元、相模川も見に行ってみます。

このビーグル君が、さっきからずっと近くをうろうろ。といってもコッチが興味を示すと逃げてくし、諦めるとそこにいるし・・・、でも首輪つけてるのに全然飼い主らしきひとが居ず、かなり自由に走り回ってるのでした。(この、のびのび動物!が田名の自分的裏名物です。次回参照。)

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あ、鮎供養塔。ここではかつて、鮎漁(しかも鵜飼い)が行われていたそうです。
それから、ここに渡し船もあったようですね。今はずいぶんとしずかな地ですが、明治~昭和初期は歓楽街もあり、かなり栄えていたそうです。立派な用水が張り巡らされた”水郷”は・・・華やかな過去を持つ地だったのでした。

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高田橋という大きな橋のところには、お米屋さんがありました。かつて水車でもあったり、したのでしょうか(確認しませんでしたが新堀沿いに水車が2つ残っていたようです)。

ザ・米・・・。

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相模川の土手の方から見下ろすと、さきほどの迂回する水路(※)の下流部がありました。

鉄骨のはしご式で、U字溝が浮いててへんな感じになってます・・・最後は暗渠となり、追えなくなります。

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今度は別な暗渠から出てきたらしい水路が、突然ありました。

だいぶ廃れちゃった雰囲気ですが、覗いてみると、コッチには小さな魚がいっぱい!鯉を泳がせてるより、ずっと見ごたえがあります。

こういう場所で、いくらでも小さな魚を眺めて過ごせます。たのしい・・・

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防火水槽、二重貼り。

ここらへんは、後からできたらしき団地でした。「水郷田名団地」。

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団地の中を抜けていくと、またも水路がやってくるのがみえました。

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それが、団地唯一の食料品店の脇に出てきて、あとは暗渠になってゆくのでした。

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水郷田名団地の東側を、大堀(相模原幹線用水路)が流れてゆきます(新堀は西側)。今回紹介したいくつかの水路はここに向かって流れているように見え、そして大堀自体はは「弁天へら釣り場」「弁天どぶ」「望地弁天キャンプ場」というやたら弁天の名のつく地を通って相模川に注ぐようでした。

次回は、この大堀に合流する、ありえない湧水!の巻につづきます。・・・かつての、華やか歓楽街、田名。しかし、現在でもなお我ら暗渠・水路ファンにとっては歓楽街!な光景を、お目にかけたいと思います。

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東海道さんぽ、と見せかけて

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前のことになりますが、北品川に行ってきました(書きかけてた日付を見たら去年の4月でしたw)。

めずらしく京急、北品川駅。駅を降りて踏切をわたろうとすると、案内板がありました。
ここには江戸時代、「磯の清水」という名水の出る井戸があった。品川宿内の半数以上の家でこの井戸の水を飲料にし、干魃の折にも涸れることがなかった。このことから、この横丁を清水横丁と呼んでいた。
すぐそこは海だというのに、すばらしい名水っぷりですね。

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北品川から新馬場へと歩きます。そういえば、初めて東海道を歩く気がします。
旧道・街道萌えはないはずなんですが、ちょっとウキウキしました。道端のふるい建物にうっとりしちゃいます。あ、ここ、”散歩もの”で雪駄買ってた店かもなあ、とか。。

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ふと海の方向を見ると、だいぶ低くなっています。このような水路跡っぽいものがありますが、海(運河)へと続く、排水路だったんでしょうか、どうなのでしょうか。

ここらへんから、東海道をそれていきます。目的地はもう少し海の方向にある、台場小学校。

の、前に。ふつうの住宅街のなかの、ふつうの道に、こんなものがありました。

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でかっ!

超特大径マンホール!?
車が乗って回転するやつ!?
パカッてひらいて、下から何か出てくるパターン!?

・・・謎です。

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まもなく台場小学校につきましたが、裏側だったので、表へとまわります。こんな細い道が小学校を囲っていて、あたかも水路跡のようです。学校敷地の周辺をぐるっと囲む暗渠のようなもの、ときどき遭遇する気がします(こういうの)。下水道台帳をみると、この道の下には下水道がはしっています・・・。
けれど、ここはもとは海。埋立後に排水路でもあったのかどうか、それは昭和初期の地図等からは読むことができませんでした。ただの防災用なのかもしれないし(←テキトウ)。

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ともかく小学校周りの道を歩きます。かくっと曲がるところに、お稲荷様がありました。昔の地図にも、今の地図にもみあたらない、ひっそりとしたところ・・・。

台場小学校の記念誌によれば、開校当時(昭和32年)、子どもたちはずいぶんとワイルドな埋立地で遊んでいたようです。このあたりには、”雑草が生い茂り、低い崖、小さな横穴、自然のため池”が広がっていて、ため池にイカダを浮かべてドロドロの水の中で遊んだり・・・。そんな光景がここにはあったようです。

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しかし、潔いまっすぐさですね。
ここは小学校の西側ですが、もう少し先に西門があります。いまじゃ道路ですが、その西門の前には目黒川(改修前)が流れ、造船所まであったそうです。

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さて、今回の目的である御殿山下台場(砲台)跡にたどりつきました!案内板があります。

徳川幕府は江戸の町を守るため、品川沖から深川洲崎にかけて11の台場を作ることにした。第4、第7は中途で工事を中止、第8以下は着工にも至らなかった。その代わり陸続きで五角形の砲台を造ることになった。これが御殿山下台場(砲台)です。明治になると埋め立てられ姿を消しましたが、幸いなことに台場の輪郭は道として残り、今でもその位置と形を知ることができます。跡地に建つ台場小学校の敷地はこの台場の半分ほどの面積を占めています。
台場跡からは石垣が発見され、小学校にはその石垣を使った記念碑が建てられました。石垣の上に立つ灯台は明治3年(1870)、日本で3番目の洋式灯台として第2台場に造られた品川灯台(←現在は愛知県犬山市の博物館明治村に移設)を模したものです。

んー・・・。つまりここは、御殿山下台場の跡地にちがいないけれど、目の前にある碑は、そこらへんに落ちてた石垣の石を集めてくっつけ、なぜか灯台を乗っけちゃったもの、ということなんですね・・・。ま、それはそれ。

黒船に驚いた幕府が、台場を築き、そこで使う大砲の火薬を水車で製造しはじめたことは、小淀川のところで触れました。つまり、以前書いた第3台場も、いま立っている御殿山下台場も、なんと淀橋の水車とつながっているのです!ほか、木材は関東地方の御林、石材は相模・伊豆・駿河、土砂は品川御殿山などからあつめ、かなりの手がかかっています・・・もう少し、お台場の話をつづけます。

「お台場 品川台場の設計・構造・機能」によれば、この御殿山下台場は、海上の台場列を支援する機能を持っていたそうです。もう少しつっこんでいうと、一番台場との間を通過する敵艦に対し、”一番台場と連携しながら、横打・追打の十字砲火を加えること”が主要な役割でした。参考までに、昭和22年の航空写真(gooより)に情報を加えたものを以下に載せます。だいぶ埋立が進んでいますが、江戸時代は御殿山下台場だけが突き出ていて、ここはほぼ海でした。

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御殿山下台場だけが陸続きで、その外形は”バスチオン”(五稜)に分類されるのだそうです。←バスチオンとか、もはや響きがカッコイイから引用してるだけw この築城方式について「品川御殿山下台場の築造と鳥取藩池田家による警衛(※)」から補足すると、御殿山下台場は当初の品川台場11基計画に含まれていなかったため、もとの”レドゥーデン(方形)のリニー(一定の間隔で複数個)”方式が適用されなかったようです。
また、なぜこの場所につくられたかというと、前掲資料(※)によれば、①第4台場の築造が中止(一応試射できるほどではあったいうが)によりできた防衛上の穴を補うため、②御殿山土取場の土出口として丁度この地(目黒川河口)が指定されたこと、という理由が大きいようです。陸続きにすることにより、負担は減るわけです。

また、最終的に台場は6基完成していますが、警衛はそれぞれ川越・会津・忍・鳥取・庄内・松代が最初に命じられ、大名を交代させながら続けられたそうです。なんと、庄内!ここで山形ともつながりました。なお、幕末期の江戸湾防備は、主戦論・平和的拒絶論・許容論・開国論の各立場の藩から選抜されているらしいこと、鳥取藩は本牧の防衛にてペリーの再来航を経験した経緯から御殿山下台場の警衛を命じられたらしいこと、なども、読んでみるとなかなかおもしろい・・・!(←幕末とかあまり興味なかったのに、台場が絡んだら面白くなってきた。)

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と、あちこちと情報がつながってうれしいところですが、旧東海道へと戻りましょう。

ここも運河方向へと下る細い道なのですが、なんだか地面が橋跡っぽいんです。・・・どこだったか、街道のジオラマに(ってか東海道かもしれない;)、街道をわたる小さな排水路がありました。それは石蓋の暗渠で街道を横断し、このような細い隙間をながれ、そして海へと注ぐものでした。
ここも、そのような水路のひとつだったかもしれません。

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ここはたしか、1回目に行ったときには気づかなくて、2回目に夜うろうろしたら見つけた店。

てんぷら、三浦屋の外観にめろめろです!雑誌やらTVやらで、けっこう有名なところだったみたいですが、知りませんでした。この雰囲気、”船宿・天ぷら”という響き・・・ああ、ここの天丼を食べたい!!

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サイドはひそかにもじゃってるし。もうとにかくこの店に入りたい。

・・・しかし、そこからが長い闘いでした。時間外で入れない。ランチ時間に間に合わない。夜も営業しているらしいのに、(正月だから?)たまたまその日はやっていない。などといった負け戦を何度も繰り返し(一部twitterでぼやいたw)、

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ついに入店っ!!

待望のさかな丼です。きす、めごち、穴子が横たわって、彩りのししとう。ビール。

うまぁあぁ・・・・(涙)。これでおいしくなかったら、別な涙を流すところだった。店内の雰囲気ももちろん良いです。なんだかおうちの中で家族並んで食事してる、みたいな。
おいしゅうございました。満足。

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三浦屋のとなりは、古いのだけど、ちょっと気になる建物でした。
花街系の建物を見抜く力を持っていませんが・・・、なんか、ちょっとそれっぽい、ような?
「わが町北品川二丁目」によれば、江戸より受け継がれた品川遊郭は明治20頃には54軒(うち北品川16軒)、売春防止法の昭和33年には42軒だったそうです。いまだ名残をとどめる建物があっても、おかしくはないと思います。

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そして最後は、お風呂屋さん。天神湯であったまって、帰りました。

天神湯は、新馬場の駅近くのお風呂屋さんで、黒湯の温泉もあります。そして建物がすんごい(新しくてジャズが流れてる)です。「ここ、どこだっけ?」ってなります。風呂上がりの、フルーツ牛乳で、パシャリ。

いろんな要素詰め込んじゃった気がしますが、軍事めあての、天丼さんぽでございました。天丼食べるまで記事書かない、って思っていたので、長かったなあ、ここまでw

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