桃園川支流を歩く その41 ”小淀川”を追え!③
珍しく”名前”から入った桃園川支流さんぽ、小淀川シリーズ。答えが出ぬまま、資料集めにといったん時間を取っていましたが、見たり、聞いたりしながらだいたいの場所を掴むに至りました。imaさん、HONDAさんはじめ、ヒントをくださった方々、どうもありがとうございました。ほんとうは自分的にはもうひと段階残ってるのですが、それはまたしばらく後にしようと思います。
というわけで、小淀川を追え!、仕上げ編に入ります。
ただし、その前に、前回小淀川跡候補に挙げていた、小淀東通りの歴史について、触れたいと思います。
結論から言えば、小淀東通りは小淀川跡ではありませんでした。しかし、ここはここで特徴的な場所で、実はかつては「染物横丁」と呼ばれていた、職人街でした。
この図は昭和5年頃の染物横丁の様子を、中野区歴史民俗資料館でまとめたものです。本当はもう少し見やすいものもあるのですが、汚してしまったのでコッチで;
”青梅街道周辺地域”によれば、江戸期に神田界隈に居た染物職人は、関東大震災や水質汚染により、神田川上流部へと移動してきます。ここ小淀に移ってきたのは大正末~昭和初期のことで、右図のように昭和5年の時点では職人さんのお店が15軒もありました。
糸を布にする「練り屋」から着物を仕立てる「仕立て屋」まで、各工程専用の職人さんのお店があるわけです。こういう細分化、イイ!ここを歩けば、「青梅街道から大久保通りまでに、白い布が仕立てられて着物になった」と言われたほどでした。布たちは神田川と桃園川で洗われ、川岸でひらひらと干されていたそうです。
各店には何人もの職人とお弟子さんがいて、当時この通りはずいぶんと賑わっていたそうです。
しかし、ここが活気に満ちていたのは昭和15年頃まで。川が汚れてきた昭和30年代には、井戸水をくみ上げて作業していたそうです。それでも平成初めには6軒ほど残っていたらしいのですが、現在は殆どが廃業しています。
・・・いまこの通りに残る、何軒かのクリーニング屋さん。かつての「しみ抜き屋」「洗い張り屋」「湯のし屋」などの技術は、現代のクリーニング屋さんに含まれているように思います。もしかすると、染物系の職人さんの子孫、なんて、考えられないでしょうか。
また、幾つかの資料で「いまは大竹湯のし店が残るのみ」とあるのですが、何度行っても見つけられなかったので、現在は大竹湯のし店さえも無くなったのか、なんてしばらく思っていました。
が!ある日、細道の奥に、看板を見つけました。ちょっと、うれしくなりました。
小淀東通り、かつての染物横丁のすぐ東には、神田川が流れ、そして北には桃園川が流れていました。さらに、すぐ西に小淀川が流れていることが今回はっきりしました。染物横丁の布たちは、もしかすると、小淀川でも洗われていたかもしれません・・・。
さ、そういうわけで、小淀川を追うという、本題へ入りましょう。
小淀川を探し始めた当初は、文献もろくに無い!と思っていましたが、あるところには、ある。たとえばここの学区である塔山小学校の記念誌には、かなりあっさりと”小淀川”が載っています。「神田川から塔山地域に引いた農業用水の一つが小淀川と呼ばれていた」、とのこと。つまり、地元ではしっかり小淀川と呼ばれていたようです。
なお、さきほどの染物横丁の図にある崖線の、下がほぼ小淀川の流路です。
脳内さんぽはこのくらいにして・・・、桃園川に架かる、小淀橋。ここから辿ることにしましょう。
と、いっても、もともとの小淀橋は小淀川×青梅街道に架かっていました。”堀江家文書”では板橋、小淀橋御普請所、などとあります。明治末~大正初の回想図でもその位置にありますが、以降しばらく小淀橋は消えてしまいます。
この位置に復活した経緯は、まだわかりません(一応次回も橋については話題にします)。
小淀橋の南にいくと、このように思いっきり急坂宣言をされます。
残念ながら、この道は小淀川跡ではありません。小淀川は、この小淀橋と、その1本下流にある田替橋との間の、現在は道なき場所を通っていたようです。したがって、今回はそこを歩くことは出来ません。
その急坂を上ったところは、かつて小淀山(天狗山)と呼ばれていたらしき地・・・と思うのですが、文献によって記述にブレがあるので、勝手にこの丘を小淀山だと思うことにします。
左側にみえる茂みは、高歩院のものです。高歩院は、かつての山岡鉄舟宅→伏見宮別邸、という歴史を持ちます。今、高歩院はこのように崖下にある、さして大きくはないお寺なのですが・・・
”青梅街道周辺地域”によれば、伏見宮別邸の敷地は二万坪余もあるかなり広いものです。ザリガニや鯉の住む、湧水をつかった瓢箪形の池があり、杉林に囲まれ、この鬱蒼とした場所全体を小淀山や天狗山と呼んでいたようです。”昔をたずねて”には、小淀山には老梅が咲き、庭には小川の水を引いた澄み切った池があり、池のほとりに弁天堂があったと記されています。その弁天堂と碑文が、高歩院に残っているのだそうです。・・・気になるのが、池の水源と流末(資料によっては逆方向)についてズレがあることですが、ちょっと検証できません。
それでは、小淀山(と思っている場所)から、染物横丁(だった場所)を見下ろしてみましょう。
”堀江家文書”等によれば、小淀山には御立場があったといわれます。むかしは、さぞ見晴らしが・・・。現在は小淀と冠した施設がでーんと見えるのみ。
では、崖下へゆき、川跡へ近づきます。
すると、初めて川跡らしき空間を見つけました!
これには結構興奮しました。だって、小淀川をさがしに何度ここへ足を運び、何往復したことか・・・。でも、一度も見つけられなかったのです。
ここと奥の壁の間に、へんな隙間がありますね。物置みたいなのも置いてあるし・・・。
物置は暗渠サインにいれてもいい気がしてきてるのですが・・・。ちなみに、下水道台帳では小淀川の流路には下水道は一部しか走ってはいませんでした。つまりここは、暗渠ではない。桃園川よりもずっと前に埋められてしまった川のようです。
物置のとなりには茂みみたいなのもあって、かなり放っとかれている感じ。
残念ながら、意味深なスキマはここだけでしたが、
その上流も、がんばれば幻視できるような気がします。
マンションと崖の間のジグザグした隙間が川跡、かもしれない。
先にも書いたように、ずいぶん前に埋められてしまったせいか、今の名残を確かめることがとてもむずかしい川です。埋められた背景について、昭和8年の中野町誌には、小淀橋とその下を流れる用水堀のことを、「道路改修の際に埋められて全く形を失ヘリ。」と記しています。道路改修・・・。それが、小淀川全体を埋めてしまう理由になるのでしょうか?なんて、ちょっともやもやが残ります。
もったいぶって、次回も小淀川をさかのぼります。
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コメント
こんばんは。
なるほど、Mapionで見ると、湯のし店の西裏側から南へと、家屋の一律な隙間がありますね(大型マンション等を除けば家のジグザグがほとんどない、というところは水・道・斜面などの名残の場合がけっこうあるのです)。こういうとこは細長く連続した変な土地があるものなので地図で一目で気になります(職業病含む)。
と同時に自分はそういう雑な探し方をついしてしまうので、この記事のような丁寧な調査ができるというのは本当に尊敬します。しかも読みやすい!!
投稿: しかすけ | 2011年1月14日 (金) 22時55分
>しかすけさん
さすが・・・この隙間、一目で気になりますか。わたしはまだまだ修行が足りないようですw
わたしの調査&記事の書き方は、経験も知識もすくないという、暗渠者レベルが低いことが影響していると思います・・・つまりあまり自信もないし、間違っている・穴があること前提であとで直したり埋められるようにしているのですw 上級者の方々がうらやましいですよぅ。
投稿: nama | 2011年1月18日 (火) 13時36分
namaさんこんにちは。お久しぶりです。
謎の小淀川、いよいよ核心に迫ってきましたね。小淀東通りの歴史はとても興味深いです。丁寧に調べられててすごいです。
伏見宮別邸の土地は、その昔には淀橋の伝説で有名な中野長者(鈴木九郎)の土地の一部で、どこかに中野長者の財宝が埋められているという噂を聞いた事があります。昭和はじめ頃(?)に住宅地として分譲され、丘の上の街並みは、分譲の時の区割りが残ってます。
私が近所に住んでいた昭和50~60年以降、一軒家が次々とマンションに変わっていきました。
丘の上のマンションの駐車場にこっそり入って、高層ビルや崖下の景色を眺めたりしたものです。
投稿: 鍵ノ手 | 2011年1月20日 (木) 17時36分
染物職人の細分化と洗濯業の話、すごく興味深いです。
折りしもlotus62さんもテント工場に遭遇しているところですしね。
ところで和服の洗濯にはノリが使われるみたいですけど、「ノリで汚れが落ちるもんかよ」って思いません?
で、フノリっていう海藻から作られたノリで頭を洗ってみたんですよ。昔の人はそうやって洗髪してたようなので。そしたら落ちましたね。シャンプーみたいにスッキリは落ちなかったですけど。でも、一回の洗髪コストが450円にもなっちゃうのでそれっきりやってないです。
・・・暗渠と全然関係なくて失礼しました。
投稿: 俊六 | 2011年1月20日 (木) 19時06分
>鍵ノ手さん
以前の小淀記事にコメントくださった方には特に、とても報告したかったことなので、見に来ていただけて本当に嬉しいです。
たしかに、中野長者は淀橋のコッチ側に埋めるんですよね。それが、ここかもという噂、面白いですね。あの丘に立つときの感覚がまた少し変わりそうです。
昭和50~60年代の、丘からの景色はどんなものだったのでしょう。わたしも今回、駐車場から眺めてみましたが、あたらしい建物が多かったので、きっと以前はまた違う景色だったのだろうと思います。いつもながら地元のお話し、とても貴重で、うれしく拝見しました。
>俊六さん
分業のお話し、本文では端折りましたが、
「練り屋」生糸を反物にし、精錬して柔らかい布にする
「しみ抜き屋」しみなどを落とす
「抜き屋」染め直すときに色を抜いて白くする
「染め屋」色を染める
「無地屋」無地染め。(染め屋の一種、黒の無地染めはまた別に専門が居た)
「型屋」型染め。(染め屋の一種)
「模様師」模様染めの下絵を描く
「型紙屋」型紙に模様を彫る
「糊屋」糊を使って防染する
「洗い張り屋」洗って糊をし、乾かす
「湯のし屋」蒸気で布のしわを伸ばす(蒸して色が抜けないようにする、もある?)
「刺繍屋」刺繍を施す
「紋屋」家紋を入れる
「仕立て屋」着物を仕立てる
こんな感じですよ。おもしろいですよねー!
フノリで頭を・・・www さすが、俊六さんの探究心はすごいオモシロイとこ突いてきますねー!!w いやぁ、楽しそうです。汚れは落ちるのですね。そいで、その後髪の毛バリバリにはならなかったんでしょうか。トリートメント効果は如何に?そんなとこも気になりますw
投稿: nama | 2011年1月21日 (金) 14時47分