桃園川支流を歩く その42”小淀川”を追え!④
小淀川、仕上げ編のつづきです。前回は小淀川を桃園川との合流口のほうからさかのぼり、小淀山の脇あたりまで来ました。
ここは、小淀川シリーズの最初の方でもあやしいと言っていたクネクネ道。ここはおそらく流路であり、手前から向こうへと流れていました。(向こうに見える屋根が高歩院、それとカラフルなマンションの間を通っていたと思われます。その隙間は前回見上げたギザギザの空間です。)
くねくねしています。
・・・以前、imaさんが教えてくださったように、小淀川は絵図や古地図にも登場します。古い方からいくと、堀江家文書(江戸期)に流路が載っています。それから、国土地理院の地形図では、昭和15年までその姿を確認できます。しかし昭和8年発行の中野区全域図には、流路が描かれているのは伏見宮別邸以降の下流部のみ。
また、前回触れたように、昭和8年の中野町誌では小淀川が既に埋められているとあります。つまり、地形図の情報がやや古いものとすれば、昭和8年の少~し前に、小淀川は埋められたものと推測できます。中野区全域図は、埋め立て途中の図なのかもしれません。
さあ、クネクネ道が上り坂になってきます。ここはおそらく流路からずれていて、もう少し左側が川跡のよう。
なぜならその上り坂がすぐ下ってしまい、川跡の地形ではないからです。このマンションの敷地がやや低いので、敷地内が流路だと思います。
小淀川は崖下を進んでいるようなので、次はたぶんここ。
ちなみに小淀川では雨乞いも行われていたようです。中野町誌によれば「(宝仙寺の)蛇骨を白木の箱に入れて、小淀の田用水、今は埋め立てられた伏見宮邸下を流れる小川の中に入り、素裸で”さんげ、さんげ、六根清浄”と唱えながら、白木の箱に水を注いで雨を祈る」のだそうです。・・・こんな話をみると、やはり地元では大事にされていた川っていう気がします。
それから、この駐車場の、端っこが段々になっていて、そこを通っていたようです。ああ、1回目に来たときにもそんなことを思ったのに・・・
ここは段々畑か、と以前書きましたが、明治9-19年の地図を見ると、小淀川の東(神田川寄り)は田、西は畑か茶畑となっています。なのでここも、段差の下には小淀川、そして上段と下段ではやや違う雰囲気だったかもしれません。
青梅街道を渡ります。もう痕跡もないし地形的にもへんだけど(おそらく青梅街道が盛り土っぽい)、今度はこの道が小淀川の上流じゃないかと思います。
青梅街道を渡る、ということは、元祖・小淀橋を渡ったということ。
ここを通って、このまっすぐを突きあたると、
集合住宅があります。この向こうが神田川。ここらへんが取水口だったのではと思います。
いまさかのぼってきたルートを、ピンクで示します(最上流部は略)。ちなみに、以前わたしが挙げた仮説がこの略地図には残ってますが、いやぁ、間違えていましたね、自分。
橋については前回多少触れていますが、今度は名の由来について、少し。「なかのの地名とその伝承」によれば、小淀とは小さな淀橋の意だとされます。”淀の小橋”ともあります。つまり淀橋からきている。
かの有名な淀橋のほうは、何説かあります。「中野の橋あれこれ」によれば、①家光が中野長者伝説由来の「姿見ずの橋」を雅ならずといって、水勢が緩やかで水面がよどんでいたので「よどみ橋」 ②家光が大橋・小橋・水車・小溝があるのを大橋小橋のある山城になぞらえて「淀橋」 ③柏木・角筈・中野・本郷の四村の境なので「四所橋」 ④この地がかつて「餘戸(あまるべ)郷」であったことから「餘戸橋」→「よどばし」、など。
②の小溝とは、この小淀川かもしれない。また、この小橋こそが面影橋(姿見ずの橋とも。①で雅ならずといわれたのは、中野長者が財宝を埋めさせた下男を帰りに殺した伝説があり、そのときに渡った橋であるため。)だという人もあるそうです。
水車という言葉が出たので、少し引っ張ります。ふたたび下流部の話となりますが、中野村絵図のなかには、この小淀川と桃園川の合流部分に”水車取建場所”なんて書いているものもあります。実際に小淀川に水車があると示す史料は少ないですが、江戸名所図会”淀橋”では小淀川の位置に水車があるように取れるし、豊多摩郡誌でも小淀川上流部と思しき位置に水車橋があるとされます。つまり、小淀川は農業用水路かつ水車堀でもあった可能性があります。
淀橋水車屋の大爆発、という有名な話がありますが、これは”柏木”とあるので向こう岸の水車のようです。黒船来航に驚いた幕府が、防備を強化するため台場を築き、そこで使う大砲の火薬の製造をいそぎました。その製造が行われたのが水車小屋で、淀橋水車もそのひとつ・・・想像するだけで恐ろしいことです。1854年、淀橋水車は大爆発を起こすこととなります。(中野区立歴史民族資料館発行の地域教材情報より)
まさか火薬製造を担うことになるなんて、水車たちも思いもよらなかったでしょう。もともとはそば粉などを挽いており、粉作りでは中野は東京の中心だったといわれます。ほか、中野の地場産業といえば味噌・醤油醸造で、これらの店舗が青梅街道沿いには沢山あったそうです。うち、製粉業の浅田家は、ビール醸造までも行っています。この浅田ビールはかなり品質が良かったという話です。・・・以前、鍵ノ手さんと浅田がサイダーを作っていなかったかという話になりました。これについては、中野歴史民俗資料館で収集された浅田ビールの資料をみても記載がなかったこと、中野区史で当時の中野住民の主な飲み物は茶と清酒とあること、等から、残念ながらサイダー製造の可能性は低いと考えています。
ちなみに、今回資料をみていて、中野區史にて神田川のことを「淀橋川」と記しているのが興味深かったです。ほかに(中野の)新橋付近で「新橋川」と呼ぶものも見たことがあり、つまり川の名を橋由来で呼ぶという、おもしろいことが地元では起きることがあるようなのです。桃園川にも、そういうことは、起きてないかなあ?・・・などと、想像ふくらむのですが、とりあえず小淀川の流路がわかったので、小淀川シリーズはこれにておしまい。埋められた時期を考えると、中野駅前掘り下げ工事との関連も考えたくなってしまうので、また小淀川は登場するかもしれませんが。それからほんとは、わたしのなかでもう1課題あるので、たぶん、きっと、もう1度触れることになると思いますが、それはまた、いつか。
| 固定リンク
「1-1 さんぽ:桃園川」カテゴリの記事
- 失われた桃園橋のこと(2021.08.14)
- プチ天保新堀用水ブーム、きたる (1)(2020.06.04)
- 阿佐ヶ谷暗渠マップ作成に協力しました(2020.05.06)
- さらなる天神川のこと(2018.08.03)
- 散歩の達人「中野・高円寺・阿佐ヶ谷」号に寄稿しました(2018.07.03)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
中野には蕎麦屋が多いですね。ご存知でらっしゃるかと思いますが、川本三郎さんのエッセイ集(いろいろあるのでタイトル失念)も興味深いです。
暗渠から流路それますが、中野通りバス停に「十貫坂上(坂下?)」というのがあって、中野長者の財宝と関係ありそうです。そしてさらに横丁にそれますが、青梅街道からの妙法寺道「鍋屋横丁」は昭和7,8年頃(今、手元に用意してなくてすいません)の地図をみると料亭などが多数あって華やいでいた様子がうかがえます。青梅街道沿いに「鍋屋横丁」都電停車場があって、「高円寺にいた頃(1950年代後半~1960年代)、よく鍋横に映画を観に行った」と母が言ってます。
投稿: orangepeel | 2011年1月24日 (月) 11時14分
たびたび失礼いたします。
図書館から大量に借りている資料の中に、杉本苑子著『姿見ずの橋』(中公文庫)があり、先ほど、たまたま昼食とりながら読みました。青葱冬圃の江戸期随筆集『真佐喜のかつら』にもとづいた短篇小説で、神田上水、淀橋、水車爆発がモチーフになっています。十二社池の茶屋で働く少女が主人公です。身震い!(笑)
投稿: orangepeel | 2011年1月24日 (月) 15時14分
>orangepeelさん
ありがとうございます!お恥ずかしいことに、挙げていただいた御本、どれも知りません。漫画ばっかり読んでいるから、そういう出会いを逃している気がしてきました。川本三郎さんのは、中野ということは林芙美子ものあたり?(←ぐぐった。)十二社の茶屋で働く少女の小説、身震いー!タイトルも直球ですね、読みたいです。
十貫坂には諸説あるようですが、中野長者の説を取るとすると、彼は財宝埋め放題ですねw それから鍋横のその頃?の風景、「地下鉄に乗って」の映画に出ていましたね。ずいぶん栄えていたようで・・・ってお母さま高円寺にお住まいでしたか!なんか最近、orangepeelさんのご家族とまでお話ししたくなってきてますww
投稿: nama | 2011年1月24日 (月) 20時35分
namaさんこんにちは。
コメントが遅くなってすみません。そしてマボロシの小淀川の調査、本当にお疲れ様です。引用の多さから本当に良く調べられたと関心します。
以前のコメントでは確証のない事を書き込み、大変失礼しました。私は、高歩院から南は、住宅地の中を通り流路をたどれず、旧ヒロタのマンション辺りからは小淀東通りを通って青梅街道に出ると勝手な推測をしていました。namaさんが示された流路より数メートル東です。
また、高歩院から南の流路と示された道は、かつてあった池のヘリと考えていました。以前住んでいた時に聞いた記憶がかすかにあるのですが...
青梅街道の確幅や宅地化で崖が崩され、池や川が埋められ、山も川ももう過去のモノですね。
投稿: 鍵ノ手 | 2011年2月 1日 (火) 11時41分
それと、浅田ビールのラムネ製造の可能性も調べて頂きありがとうございます。
江戸時代は神田、玉川上水などが整備されたが、それでも水事情が悪い地域があり、そこに水を運んで売る「水屋」という商売があり、水の運搬の為に船まで利用していたそうです。
明治以降、水屋は神田、玉川上水から新たな上水道が整備される過程で消えて行き、その中から氷屋やラムネ屋が出てきたそうです。
あと、明治期のコレラの流行がラムネが飲まれる要因の一つとの事です。
投稿: 鍵ノ手 | 2011年2月 1日 (火) 15時29分
>鍵ノ手さん
お返事遅くなってしまい、すみません。小淀川、やはり資料が豊富とは言えず、地元の冊子のようなものからほんの1行、2行の記述をあつめてつなげたような、そんな綱渡りの記事です。わたしが示した流路も、まだまだ間違いがあるかもしれません。それに、池のヘリ・・・!なるほど。地元の方の噂はとても気になります。ひきつづき調べて、なにかわかったらすぐ修正したいと思いますw。
また、サイダーじゃなくラムネでしたね、失礼しました。あとで直します。これについても、はっきりしないままで。。鍵ノ手さんの書かれている、水屋→氷屋・ラムネ屋のはなし、たいへん興味深いです!先日紅葉川のちかくで、「飲料水店」というものをみかけ、気になっていたところです。もしかしたら明治以降も店名をかえずに残っている貴重なものだったのでしょうか・・・。ああ、面白いです!!
投稿: nama | 2011年2月 4日 (金) 22時26分
私が以前聞いたのは池の話だけで小淀川は出てきません。川も池も時期により形が変わっているでしょうし、池の方が後まで残ってたと考えてます。
昨夏現地を歩いた際、小淀東通りから高歩院に向かう途中に不自然な小さな段差を見つけました。この段差は以前コメントしたゆりの木公園の東側まで宅地の間を縫う様に続いている?ようだったので、こちらの可能性を考えていました。
幾つか古地図も見ましたが、目印となる神田川自体の流路が変わっているし、縮尺も曖昧なので、確証は持てません。
江戸の街の様々な仕事が書かれた本は幾つか見掛けますが、それらが明治以降どのように業態を変えて行ったのかは、現代に近づいてるにもかかわらず情報が少なく感じます。近代化のスピードがあまりに早く、記録を残す事には目が届かなかったのでしょうか…
投稿: 鍵ノ手 | 2011年2月 5日 (土) 23時36分
>鍵ノ手さん
池の鯉を調理してしまったら云々とか、あれこれ言い伝えの残る池ですよね。さぞ立派で、色々な方が関わられた池なのだろうと思います。そもそも自分には”池のヘリ”(の痕跡があるかもしれない)という発想がなかったので、とても参考になります。池の話はあちこちに載っていますが、個人の回想が多いため、(それから仰るようにおそらく時代によって規模や形もちがうのでしょう)なかなか場所の確定が難しいので曖昧にしていました。でもここまできて、小淀川と池の関係、池の位置などちゃんと知りたくなってきました。やはり小淀川シリーズはもう少し続く運命のようですw
あと、浅田氏が自伝を書いているようなので、当時の街並みが少しでも記述されていないかと、現在探し求めているところです。
投稿: nama | 2011年2月 7日 (月) 17時43分
度々失礼致します。
私が地元の方から聞いた内容は、「かつてこの辺りに池があった。だからこの道は池の形に沿って曲がっている」という主旨のものです。池の背後には小淀山の崖があるので、水が湧いて池や小淀川の原型が造られたと想像します。
と、ここまで書いて、ふと思い立って「神田川「まる歩き」しちゃいます!!」さんのブログを見たところ、「伏見橋と鉄舟」の項に昭和22年の航空写真があり、そこには池と小淀川(まる歩きさんの書き込みによる)が載っていました(他の方の資料からの持ち込みで恐縮です。こちらのブログも何度も見たハズなのですが、読み込みが浅く、お恥ずかしい限りです)。
手元の地図と比べると、高歩院の北西の道や丘の上の道、小淀東通りは現代と同じ形と見て取れます。これだとやはり、例の曲がった道は池のヘリか土手でしょうか。
鯉の調理の話は聞いた事がないので良ければぜひ教えて下さい。
投稿: 鍵ノ手 | 2011年2月 9日 (水) 21時35分
>鍵ノ手さん
こんばんは。わたしも神田川まる歩きしちゃいます!!さんは、時々拝見していたはずなんですが、見落としてました。ご紹介ありがとうございます。これ見やすいですね、そして、ほんとですね、池のヘリがくねくねしています!!小淀川のほうは、わりと蛇行してませんね。うーん、なるほど。。貴重な情報、ありがとうございました。地元の方の証言の重要さを、やはり感じます。
鯉の調理については、地元の言い伝えをもとにした文章のなかに、
・池には主がいると言われていたが、大きな鯉が二匹しか見えなかった。町内の魚屋がその鯉を持って行き調理したら死んでしまった。
・六角堂内にあった石碑を持って行った人も死んでしまったと聞いたことがある。
と、いうものがありました。本当がどうかは、もはや検証するすべがありませんが・・・。
投稿: nama | 2011年2月13日 (日) 22時35分
namaさんこんにちは。
池の言い伝え、全く知りませんでした。小淀町は故郷ではありませんが、自分が住んでいた土地に因んだ話題で非常に興味深いものでした。ブログという形で紹介して頂き、改めて感謝致します。
高歩院のHPの中の高歩院縁起によると、池は昭和29年に埋められたようです。その経緯は正確には書かれていませんが、一帯が昭和20年5月の空襲で焼けた後、近隣と紛争があったと読み取れます。
池そのものを埋められた後、何も祟りが無ければ良いのですが。
旧ヒロタ工場から青梅街道までの小淀東通り沿いに、桜の並木がありました。道の西側に10本くらいはあったかと。昭和60年頃、全て伐採されて、駐車場の一部になってしまいました。
投稿: 鍵ノ手 | 2011年2月16日 (水) 16時25分
>鍵ノ手さん
こんにちは。こちらこそ、鍵ノ手さんからいただく情報のかずかずに、どんどん小淀のイメージがふくらみ、さんぽがどんどん楽しくなっています!
高歩院のHPという手がありましたか!と、読んでみるとこの文章自体は以前どこかで読んだことがあるような、しかし肝心の埋め立ての時期など覚えていませんでした。高歩院についての資料をもう少し集めることで、見えてくることもあるかもしれませんね。よーし。
回想図でも、並木がよく描かれています。鍵ノ手さんはそれを見たことがあるのですね。駐車場や大型マンションのあたりですよね・・・なんとも、変わってしまったものです。。
投稿: nama | 2011年2月18日 (金) 18時14分