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2011年1月

藍染川桜酒マラソンのおしらせ

暗渠酒マラソンの次回について、あれこれ考えておりましたが、なんだか自分が忙殺されるうち、12月も1月も過ぎていってしまいます。そこで、すでにtwitter上で出ていたちょっと先の暗渠飲み案を、酒マラソンとくっつけて企画することにしちゃいました。(Aさん、Lさんはじめアイディア下さった方々、ありがとうございました!)

暗渠酒マラソンについての説明は、以下に前回のをコピペします。
暗渠酒マラソンとは、#1竜閑川焼酎マラソンにて概要を記しましたが、
”暗渠沿いを逸れずに歩きながら、適当な飲み屋を何軒かはしごする。
 メイン走者は、掲げた種類の酒を1杯は必ず飲むこととし、伴走者はそれに限らない。
 つまみは自由。とにかく、目についた雰囲気の良さそうな店に入る。”
という、たんに暗渠で酒を呑みまくるという企画でございます。

そして次回の企画概要はコチラ。

企画名:藍染川桜酒マラソン
概要:藍染川を、水源から不忍池までたどる。たどりながら、うっすらと咲き始めた桜を愛で、そして酒を飲む。桜をみるため(&墓地沿いを通るため)、開始は明るいうちとする。(詳細はこれから詰めます。) *追記*お店を転々とするのが従来のやり方でしたが、この回に限っては”レジャーシート等を持ち歩いて桜の木の下を転々とする”というやり方もありかもしれません・・・アイディアを下さったlotus62さんありがとうございます。

日時:3月後半の土曜(場合によっては日曜)、それ以上細かい日程は桜の状況次第。
メイン走者:未定。希望者を募ります。今回は「桜を見ながらの酒」とし、酒の種類ではとくに縛らない予定なので、通常の酒マラソンよりずっと自由です、チャンスですよw(あくまで予定ですが。*追記*上記レジャーシート形式の場合、”日本酒縛り”にしたくなってしまいますが、、、御意見募集中。

今後の流れ:参加希望の方は、その旨をnamaまでお知らせください。①この記事へのコメント(その際はメールアドレス欄にメールアドレスもお書きください)、②twitterにてヒトコト(わたしのアカウント名はnama_kaeruです)、③twitterのダイレクトメッセージにて、の3種類の方法にてお願いします。
その後、希望者の方々とはメールにて(ALLで)、やり取りと日時や行程についてのご連絡をさせていただきます。

忍川ビールマラソンのさい、人数的に入店できない、というほろ苦い経験もしましたので、もしかすると状況によっては人数制限をさせていただくかもしれません・・・が、そこまで大勢にもなることもないでしょうし、ともかくご興味を持たれましたら、ご連絡くださいませ!!酒酒言っていますが、飲めない方ももちろん大歓迎です。ご質問等がある場合も、上記①~③の方法にてお寄せください。
ではでは、暗渠と、桜と、酒を、春の到来を、皆でたのしみましょう!

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千川上水速報

先日、twitterにて「千川上水工事中、今なら暗渠開渠&工事中を見られる」といった内容の情報をいただきました(tomorimiさん、ありがとうございました)。ちょうどその日の用事に近い場所だったので、予定を滑り込ませて行ってみることにしました。

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千川上水の暗渠と開渠の場所。どうやら伊勢橋のあたりのようです荻窪からバスに乗って、水道端でバスを降ります。

するとばっちり、工事現場がありました。工事の目的は千川上水暗渠の排水管の取替のようで、3月17日までとのこと。

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フェンス越しにのぞきます。おもいっきり工事現場です。わたしはそんなに”工事現場”に興味を示す方じゃなかったのですが、これはもう水路っぽいカタチをしているし、興奮してきます。

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右手が上流、左手が下流。下流側から順次工事しているとのことでした。

排水管のあるところ、つまり暗渠の位置は、人が立ってるとこのようです。この部分は古い排水管の撤去済み、新しい排水管を取り付けるための土台を作っている最中だそうです。
うああ、あそこにわたしも立ちたい!まず無理でしょうけど。。

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素朴に思うのが「排水管にもともと流れていた水はどうなってるの?」なのだけど、それについては、この期間は千川上水の流れは止めて、別の方へ流しているのだそうです。千川上水は善福寺川のはじまりのところにも分水してるので、もしかしていま善福寺川の水量、これのために増えてたりしないでしょうか?

ちなみに、ここには宅地があったのだそうです。道路拡張をおこない、反対側に歩道を作りたいけど、歩道側の買収はまだ済んでいないとか。

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おおっと、土管がありました。これは古いほうでしょうか。
これが長年の千川上水暗渠のパーツだと思うと、ドキドキワクワクですね!!

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・・・こういう土管の置かれ方って、ドラえもん以来な気がします。というか、自分はこういう土管×空き地って未体験かも!

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以前はここにも宅地があったわけですねぇ。工事のおじさんの話だと、暗渠は千川上水緑道と宅地の下とをカーブしながら流れていたそうです。

暗渠がくねくねと、私有地にも入りながら流れていたというのは、新鮮な話でした。

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緑道はここ。去年の夏までは緑が鬱蒼としすぎて暗いぐらいだったそうです。

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暗渠用の土管の残骸でしょうか。こなごなになったコンクリ的なものが積まれています。

ちなみに、ここにいらした工事現場の方に、上記情報の大部分をいただきました。ありがとうございました!

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現場にあった、付け替えの図です。

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下流部も。もともとの流れと、今後の流れが示されていて興奮します。

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さて、ここを境に工事現場がおわります。そこにあったのは、バスターミナルでした!ちょっとよくわかってないけど、青梅街道営業所の一部・・・?

そしてこのバスターミナルに隣接して立野橋がありました。

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おそらくここが立野橋跡。交差点にあります。

この地下に立野橋の橋脚が埋まっていて、それを2月10日頃に撤去し、H鋼を埋めたりするのだそうです。
撤去する時間帯は終バスの終わった夜中23時~5時とのことでした。・・・いくら見たくっても、この時間はちと・・・。

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ふと見上げると、立野橋のところには、地蔵うどん、というお店がありました。
千川上水流域の湧水をつかって打ったうどんを、お地蔵さんに供えたというような風習があるらしいのですが、このお店自体は3年前にできたとのこと。しかも讃岐うどんw おいしそうなので、生麺を買って帰りました。

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さて、かえろう。

引っこ抜かれて並べられた車止めが、いつもとは違う表情をしていました。

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おお・・・この看板、荒玉でいっぱいでてきたやつだ!なんだかなつかしい。。今回はへんな「」が入ってはいませんねw

ここはヘタ地みたいにも見えますが、前述の歩道用に買収した土地が、そのときを待っているのかもしれません。

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工事現場は堪能したので、もうちょっと上流も見てみます。

青梅街道の反対側は、カーブする暗渠。でもここ、数年前の書籍をみると、近年まではカオス気味の開渠だったもようです。

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ちょっとだけさかのぼります。千川上水の水は、なかなかきれい。

おお、コンクリ蓋の橋。しかもたぶん自家用橋。

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さらに上流をみつめると・・・なにこの風景!!!

自然な雰囲気の護岸のあいだを流れる水路、のんびりとした畑、畑、畑・・・

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まさかの板橋まで架かっていました。

ここ、ほんとに23区??

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ここまでくると作り込み感を感じますが、おなじ水路の再生事業にしても、驚愕するようなセンスの地域もあることをおもえば、この雰囲気はとてもありがたいです。脇に設けられた散策路も、自然な土を踏みしめながら歩けて、じつによい感じ。

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吉祥寺通りに出ました。向うは暗渠のようです。すてきな開渠区間、わずかでしたが、工事現場とともにとてもたのしめました。情報をくださった方々、本当にありがとうございました!!

そして用事をすませ、天ぷらを買って帰って、さっそく地蔵うどんを食しました。
もっちもちで太くて、美味なうどんでした。その外見から、「初の武蔵野うどん!」って感動しちゃいましたが、そういえば店内では讃岐うどんって書かれてたのを思い出しました。標準的な讃岐うどんよりは、太く、しこしこ<もちもち、な印象です。でもとにかく、なかなかうまし。千川上水のことを思い浮かべながら食べれば、なおいっそう美味しいと思います。

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桃園川支流を歩く その42”小淀川”を追え!④

小淀川、仕上げ編のつづきです。前回は小淀川を桃園川との合流口のほうからさかのぼり、小淀山の脇あたりまで来ました。

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ここは、小淀川シリーズの最初の方でもあやしいと言っていたクネクネ道。ここはおそらく流路であり、手前から向こうへと流れていました。(向こうに見える屋根が高歩院、それとカラフルなマンションの間を通っていたと思われます。その隙間は前回見上げたギザギザの空間です。)

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くねくねしています。
・・・以前、imaさんが教えてくださったように、小淀川は絵図や古地図にも登場します。古い方からいくと、堀江家文書(江戸期)に流路が載っています。それから、国土地理院の地形図では、昭和15年までその姿を確認できます。しかし昭和8年発行の中野区全域図には、流路が描かれているのは伏見宮別邸以降の下流部のみ。

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また、前回触れたように、昭和8年の中野町誌では小淀川が既に埋められているとあります。つまり、地形図の情報がやや古いものとすれば、昭和8年の少~し前に、小淀川は埋められたものと推測できます。中野区全域図は、埋め立て途中の図なのかもしれません。

さあ、クネクネ道が上り坂になってきます。ここはおそらく流路からずれていて、もう少し左側が川跡のよう。

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なぜならその上り坂がすぐ下ってしまい、川跡の地形ではないからです。このマンションの敷地がやや低いので、敷地内が流路だと思います。

Some15 小淀川は崖下を進んでいるようなので、次はたぶんここ。

ちなみに小淀川では雨乞いも行われていたようです。中野町誌によれば「(宝仙寺の)蛇骨を白木の箱に入れて、小淀の田用水、今は埋め立てられた伏見宮邸下を流れる小川の中に入り、素裸で”さんげ、さんげ、六根清浄”と唱えながら、白木の箱に水を注いで雨を祈る」のだそうです。・・・こんな話をみると、やはり地元では大事にされていた川っていう気がします。

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それから、この駐車場の、端っこが段々になっていて、そこを通っていたようです。ああ、1回目に来たときにもそんなことを思ったのに・・・

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ここは段々畑か、と以前書きましたが、明治9-19年の地図を見ると、小淀川の東(神田川寄り)は田、西は畑か茶畑となっています。なのでここも、段差の下には小淀川、そして上段と下段ではやや違う雰囲気だったかもしれません。

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青梅街道を渡ります。もう痕跡もないし地形的にもへんだけど(おそらく青梅街道が盛り土っぽい)、今度はこの道が小淀川の上流じゃないかと思います。

青梅街道を渡る、ということは、元祖・小淀橋を渡ったということ。

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ここを通って、このまっすぐを突きあたると、

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集合住宅があります。この向こうが神田川。ここらへんが取水口だったのではと思います。

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いまさかのぼってきたルートを、ピンクで示します(最上流部は略)。ちなみに、以前わたしが挙げた仮説がこの略地図には残ってますが、いやぁ、間違えていましたね、自分。

橋については前回多少触れていますが、今度は名の由来について、少し。「なかのの地名とその伝承」によれば、小淀とは小さな淀橋の意だとされます。”淀の小橋”ともあります。つまり淀橋からきている。

かの有名な淀橋のほうは、何説かあります。「中野の橋あれこれ」によれば、①家光が中野長者伝説由来の「姿見ずの橋」を雅ならずといって、水勢が緩やかで水面がよどんでいたので「よどみ橋」 ②家光が大橋・小橋・水車・小溝があるのを大橋小橋のある山城になぞらえて「淀橋」 ③柏木・角筈・中野・本郷の四村の境なので「四所橋」 ④この地がかつて「餘戸(あまるべ)郷」であったことから「餘戸橋」→「よどばし」、など。

②の小溝とは、この小淀川かもしれない。また、この小橋こそが面影橋(姿見ずの橋とも。①で雅ならずといわれたのは、中野長者が財宝を埋めさせた下男を帰りに殺した伝説があり、そのときに渡った橋であるため。)だという人もあるそうです。

水車という言葉が出たので、少し引っ張ります。ふたたび下流部の話となりますが、中野村絵図のなかには、この小淀川と桃園川の合流部分に”水車取建場所”なんて書いているものもあります。実際に小淀川に水車があると示す史料は少ないですが、江戸名所図会”淀橋”では小淀川の位置に水車があるように取れるし、豊多摩郡誌でも小淀川上流部と思しき位置に水車橋があるとされます。つまり、小淀川は農業用水路かつ水車堀でもあった可能性があります。

淀橋水車屋の大爆発、という有名な話がありますが、これは”柏木”とあるので向こう岸の水車のようです。黒船来航に驚いた幕府が、防備を強化するため台場を築き、そこで使う大砲の火薬の製造をいそぎました。その製造が行われたのが水車小屋で、淀橋水車もそのひとつ・・・想像するだけで恐ろしいことです。1854年、淀橋水車は大爆発を起こすこととなります。(中野区立歴史民族資料館発行の地域教材情報より)

まさか火薬製造を担うことになるなんて、水車たちも思いもよらなかったでしょう。もともとはそば粉などを挽いており、粉作りでは中野は東京の中心だったといわれます。ほか、中野の地場産業といえば味噌・醤油醸造で、これらの店舗が青梅街道沿いには沢山あったそうです。うち、製粉業の浅田家は、ビール醸造までも行っています。この浅田ビールはかなり品質が良かったという話です。・・・以前、鍵ノ手さんと浅田がサイダーを作っていなかったかという話になりました。これについては、中野歴史民俗資料館で収集された浅田ビールの資料をみても記載がなかったこと、中野区史で当時の中野住民の主な飲み物は茶と清酒とあること、等から、残念ながらサイダー製造の可能性は低いと考えています。

ちなみに、今回資料をみていて、中野區史にて神田川のことを「淀橋川」と記しているのが興味深かったです。ほかに(中野の)新橋付近で「新橋川」と呼ぶものも見たことがあり、つまり川の名を橋由来で呼ぶという、おもしろいことが地元では起きることがあるようなのです。桃園川にも、そういうことは、起きてないかなあ?・・・などと、想像ふくらむのですが、とりあえず小淀川の流路がわかったので、小淀川シリーズはこれにておしまい。埋められた時期を考えると、中野駅前掘り下げ工事との関連も考えたくなってしまうので、また小淀川は登場するかもしれませんが。それからほんとは、わたしのなかでもう1課題あるので、たぶん、きっと、もう1度触れることになると思いますが、それはまた、いつか。

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桃園川支流を歩く その41 ”小淀川”を追え!③

珍しく”名前”から入った桃園川支流さんぽ、小淀川シリーズ。答えが出ぬまま、資料集めにといったん時間を取っていましたが、見たり、聞いたりしながらだいたいの場所を掴むに至りました。imaさん、HONDAさんはじめ、ヒントをくださった方々、どうもありがとうございました。ほんとうは自分的にはもうひと段階残ってるのですが、それはまたしばらく後にしようと思います。

というわけで、小淀川を追え!、仕上げ編に入ります。
ただし、その前に、前回小淀川跡候補に挙げていた、小淀東通りの歴史について、触れたいと思います。
結論から言えば、小淀東通りは小淀川跡ではありませんでした。しかし、ここはここで特徴的な場所で、実はかつては「染物横丁」と呼ばれていた、職人街でした。

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この図は昭和5年頃の染物横丁の様子を、中野区歴史民俗資料館でまとめたものです。本当はもう少し見やすいものもあるのですが、汚してしまったのでコッチで;

”青梅街道周辺地域”によれば、江戸期に神田界隈に居た染物職人は、関東大震災や水質汚染により、神田川上流部へと移動してきます。ここ小淀に移ってきたのは大正末~昭和初期のことで、右図のように昭和5年の時点では職人さんのお店が15軒もありました。

糸を布にする「練り屋」から着物を仕立てる「仕立て屋」まで、各工程専用の職人さんのお店があるわけです。こういう細分化、イイ!ここを歩けば、「青梅街道から大久保通りまでに、白い布が仕立てられて着物になった」と言われたほどでした。布たちは神田川と桃園川で洗われ、川岸でひらひらと干されていたそうです。
各店には何人もの職人とお弟子さんがいて、当時この通りはずいぶんと賑わっていたそうです。

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しかし、ここが活気に満ちていたのは昭和15年頃まで。川が汚れてきた昭和30年代には、井戸水をくみ上げて作業していたそうです。それでも平成初めには6軒ほど残っていたらしいのですが、現在は殆どが廃業しています。

・・・いまこの通りに残る、何軒かのクリーニング屋さん。かつての「しみ抜き屋」「洗い張り屋」「湯のし屋」などの技術は、現代のクリーニング屋さんに含まれているように思います。もしかすると、染物系の職人さんの子孫、なんて、考えられないでしょうか。

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また、幾つかの資料で「いまは大竹湯のし店が残るのみ」とあるのですが、何度行っても見つけられなかったので、現在は大竹湯のし店さえも無くなったのか、なんてしばらく思っていました。

が!ある日、細道の奥に、看板を見つけました。ちょっと、うれしくなりました。

小淀東通り、かつての染物横丁のすぐ東には、神田川が流れ、そして北には桃園川が流れていました。さらに、すぐ西に小淀川が流れていることが今回はっきりしました。染物横丁の布たちは、もしかすると、小淀川でも洗われていたかもしれません・・・。

さ、そういうわけで、小淀川を追うという、本題へ入りましょう。
小淀川を探し始めた当初は、文献もろくに無い!と思っていましたが、あるところには、ある。たとえばここの学区である塔山小学校の記念誌には、かなりあっさりと”小淀川”が載っています。「神田川から塔山地域に引いた農業用水の一つが小淀川と呼ばれていた」、とのこと。つまり、地元ではしっかり小淀川と呼ばれていたようです。
なお、さきほどの染物横丁の図にある崖線の、下がほぼ小淀川の流路です。

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脳内さんぽはこのくらいにして・・・、桃園川に架かる、小淀橋。ここから辿ることにしましょう。
と、いっても、もともとの小淀橋は小淀川×青梅街道に架かっていました。”堀江家文書”では板橋、小淀橋御普請所、などとあります。明治末~大正初の回想図でもその位置にありますが、以降しばらく小淀橋は消えてしまいます。
この位置に復活した経緯は、まだわかりません(一応次回も橋については話題にします)。

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小淀橋の南にいくと、このように思いっきり急坂宣言をされます。

残念ながら、この道は小淀川跡ではありません。小淀川は、この小淀橋と、その1本下流にある田替橋との間の、現在は道なき場所を通っていたようです。したがって、今回はそこを歩くことは出来ません。

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その急坂を上ったところは、かつて小淀山(天狗山)と呼ばれていたらしき地・・・と思うのですが、文献によって記述にブレがあるので、勝手にこの丘を小淀山だと思うことにします。

左側にみえる茂みは、高歩院のものです。高歩院は、かつての山岡鉄舟宅→伏見宮別邸、という歴史を持ちます。今、高歩院はこのように崖下にある、さして大きくはないお寺なのですが・・・
”青梅街道周辺地域”によれば、伏見宮別邸の敷地は二万坪余もあるかなり広いものです。ザリガニや鯉の住む、湧水をつかった瓢箪形の池があり、杉林に囲まれ、この鬱蒼とした場所全体を小淀山や天狗山と呼んでいたようです。”昔をたずねて”には、小淀山には老梅が咲き、庭には小川の水を引いた澄み切った池があり、池のほとりに弁天堂があったと記されています。その弁天堂と碑文が、高歩院に残っているのだそうです。・・・気になるのが、池の水源と流末(資料によっては逆方向)についてズレがあることですが、ちょっと検証できません。

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それでは、小淀山(と思っている場所)から、染物横丁(だった場所)を見下ろしてみましょう。
”堀江家文書”等によれば、小淀山には御立場があったといわれます。むかしは、さぞ見晴らしが・・・。現在は小淀と冠した施設がでーんと見えるのみ。

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では、崖下へゆき、川跡へ近づきます。

すると、初めて川跡らしき空間を見つけました!
これには結構興奮しました。だって、小淀川をさがしに何度ここへ足を運び、何往復したことか・・・。でも、一度も見つけられなかったのです。

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ここと奥の壁の間に、へんな隙間がありますね。物置みたいなのも置いてあるし・・・。

物置は暗渠サインにいれてもいい気がしてきてるのですが・・・。ちなみに、下水道台帳では小淀川の流路には下水道は一部しか走ってはいませんでした。つまりここは、暗渠ではない。桃園川よりもずっと前に埋められてしまった川のようです。

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物置のとなりには茂みみたいなのもあって、かなり放っとかれている感じ。

残念ながら、意味深なスキマはここだけでしたが、

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その上流も、がんばれば幻視できるような気がします。
マンションと崖の間のジグザグした隙間が川跡、かもしれない。

先にも書いたように、ずいぶん前に埋められてしまったせいか、今の名残を確かめることがとてもむずかしい川です。埋められた背景について、昭和8年の中野町誌には、小淀橋とその下を流れる用水堀のことを、「道路改修の際に埋められて全く形を失ヘリ。」と記しています。道路改修・・・。それが、小淀川全体を埋めてしまう理由になるのでしょうか?なんて、ちょっともやもやが残ります。

もったいぶって、次回も小淀川をさかのぼります。

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桃園川の、なづけかた

昨年、郷土資料館の関係の方とお話しする機会があり、桃園川の呼び方について気になることを聞きました。

いわく、桃園川という呼称については、いつごろ、だれが使い始めたかが、実は不明だということなのです。

これは、非常に興味をそそるお話でした。わたしたちは、あたりまえのように「桃園川」とか「桃園ちゃん」とか呼んでいるけれど、そのはじまりは、定かではない。
各文献でも、”桃園”についての由来は書いてある(鷹狩りに来ていた吉宗が中野駅周辺に桃の木を植えさせ、桃園と名付けた)けれど、よく考えてみたら、それだけでお茶を濁されている。

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・・・そんなわけで、自分でも桃園川がその名で呼ばれだした経緯について、整理してみたいな、と強く思うようになりました。

今回は、流域である杉並~中野に関する、手持ちの史料で検討してみました。

まずは、比較的頼りにしてきた、”杉並の川と橋”からです。ここでは、桃園の由来については触れられている(pp.39)ものの、川の呼称とは関連付けられないままでした。残念ながら、その他の多くの史料と似たパターンです。

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では、ここからは、ふるい順に見ていきます。

①”堀江家文書”の絵図をみると、江戸期の桃園川はたんなる”悪水流”あつかい、名はありません(まだ中野近辺しか見ていませんが・・・)。

②”武蔵国多摩郡 馬橋村史”は昭和44年の編纂ですが、江戸期のことが書かれています。それによれば、江戸時代の馬橋(現・高円寺)では、桃園川にあたる流れのことを千川用水や阿佐ヶ谷流田用水、と呼んでいたようです

③”東京府 豊多摩郡誌”(大正5年)の中野町の章では、桃園橋は登場するものの、その下を流れる川は善福寺分流という記載でした。川として扱われているのは神田上水のみで、桃園橋は”桃園の細流に架す、昔は石神井橋と呼べるよし”とのみ。桃園の細流、という表現がとても惜しい感じがしますが、まだ桃園川ではありません。
同、杉並村の章では、村内には善福寺川に架す橋がひとつあるのみ、ということなので、橋梁の項はあてにできません。水利の項で、桃園川にあたる流れについては千川用水支流と成宗辡天流として記載されています。なお、千川用水支流については3流あったとされます。また、成宗辡天流は天保新堀用水を指すものと捉えられますが、「末流中野地内にて神田上水渠に落つ」なので、この2つの川は、一部混同して書かれているように見えます。

④”杉並町郷土誌”(昭和5年)でも、桃園川は登場せず、千川用水および辡天川という記述となっています。
「本町の中央に源を発する辡天川」「阿佐ヶ谷を東に流れる千川用水」「川の主なるものは善福寺川と辡天川である」といった表現、さらには、辡天川の地下溝に水は流れていない(灌漑の必要がなくなったので)、(辡天川は)杉並中野町に入る、といった記述から、阿佐ヶ谷南付近までの桃園川を千川用水、天保新堀用水およびそれより下流の桃園川を辡天川、と呼んでいる可能性があります。しかし、③のように混同されている可能性もあります

④”中野區史”(昭和18年)においても、桃園川は出てきません。
ここでは桃園川にあたる流れは、中野川と呼ばれています。

⑤”中野区史”(昭和29年)ではようやく、桃園川という記述が登場します
しかし、河川の説明においては、桃園川のほか、善福寺分流、宮園川、谷戸川といった桃園川本流あるいは支流をさすような名称も同時に出ており、混乱している印象です。
この”中野区史”は、橋梁の項も参考になります。そこには、昭和7年と昭和12年の橋梁のデータが(おそらく)そのまま転載されているためです。

それによれば、昭和7年時点では、桃園橋や慈眼堂橋といった、桃園川に架かっている橋は”善福寺分流”、また、おなじく桃園川に架かるとされる箱堰橋や三味線橋は”宮園川”に架かるとされています。桃園川という呼称は皆無です。

つぎに、昭和12年の橋梁表では、現・桃園川緑道にある橋は概ね”桃園川”に架かるとされ、今度は前述の2河川名が消えています。

つまり、中野区において、昭和7年までは善福寺分流や宮園川等と呼ばれていたけれど、昭和12年には桃園川と呼ばれていることがうかがえます。

⑥”なかのの地名とその伝承”(昭和56年)においては、「この川の呼び名は、江戸から明治、大正、昭和の各時代にかけて幾度か変わり、そのたびごとに、その水路、源流についての認識も変わりながら現在に至っております」とあり、まさしく今回のテーマと重なる内容です。
そこでは、明治の中頃までは石神井川と呼ばれていたようだけれど、石神井川の支流ではないので誤りだろうということに触れています。さらに、昭和の初めに善福寺分流と呼んでいることについても異議を唱えたいそぶりです。(郷土資料館関係の方は、桃園橋のある道が石神井道だからでは、と推測していました。また善福寺~については、天保新堀用水のことを考えれば、わたしはアリだと思うんですが。)

⑦”高円寺むかしむかし”(1989年)という、地元の古老の話をあつめた冊子があります。それには、「川の両側に桃の木が植わっていたので桃園川と呼んだ」と記されています。これだけの情報では、かならずしも中野の桃園という地名から来るのではなく、高円寺において桃の木の風景からそう呼ばれ出したようにも取れてしまいます。ちょっと、根拠としては弱いけれども。

⑧1997年の”なかの区報”では、前述の吉宗が桃を植えさせた話を載せ、「以来、高円寺にかけての一帯に桃が植えられ、「桃園」と呼ばれるようになった」「桃園川はこのあたりを流れていたことからつけられた名前」と続けています。
中野駅南を中心とし高円寺方向へと広がる桃園、そこを通る川なので、桃園川。これが一番自然な由来という気はします。

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以上、手持ちのものでざっと検討してみると、⑤の昭和12年が初出のようです。昭和7~12年をもう少し深追いしてみたいところです。といっても、桃園川が流れる天沼―阿佐ヶ谷―馬橋―高円寺―中野のすべてのエリアで呼称が統一されていたわけではないので、別称で呼ぶ文献についてどう扱うかはむずかしい課題です。また、由来については⑧のように吉宗が植えさせた桃園を流れる川、が有力です。
しかし、見てみると⑤も⑧も中野の文献です。杉並には、いつ、どのように浸透したのか?高円寺と阿佐ヶ谷と天沼で違いはあるのか?・・・謎は広がります。

はてさて、「桃園川」が堂々と誕生したのは、いつなのでしょう。旧流路の検証とあわせて、これも今年追いたい、大事なテーマとなりました。考えてみると、ほかの河川でも同じようなことが起きているかもしれませんね?

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謹賀新年

あけましておめでとうございます。

Fuji3

このまえ見た、富士山。

うーん隠れちゃってますね。ほんとは、この前日に、バスに乗りながら見た富士山がとっても良かったんです。

雲もなく快晴で、富士山へと向かってまっすぐにのびてゆく、用水路暗渠が見えて。写真に撮れたら良かったけれど・・・、まあ、それはそれ。

富士山を背にした給水塔も、堂々としていて、良かった。

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その、富士山を撮った場所から数歩のところには、山中湖へと注ぐ、川がありました。

・・・!?
いちめんのコンクリ蓋!?
なんだこの暗渠はーー!

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橋の反対側は、もう河口でした。

ああ・・・水が流れていないだけ、か。
不思議な川底もあるものです。

この川のすぐ脇にあったお店でほうとうを食べたら、殺人的な量のかぼちゃが入っていて、食べきれませんでした・・・。おいしかったのだけれど。

というわけで、新年最初の記事は、暗渠にみせかけた開渠でしたw

あらためまして。旧年中は、たいへんお世話になりました。
今年の暗渠さんぽ的目標は、「桃園川の旧流路編を完成させる」です。旧流路編は、まだ記事にはしていませんが、むかしの地図には載っているし、なんとなくイメージはあるのです。けれど、明治期の杉並なんて何もなさ過ぎて、目印がない。正確にたどるには時層地図の助けを借りたほうが・・・、と、正月早々ぐらぐらしています。・・・それはさておき。
今年もひきつづき、ちょっとふらふらしながら、ときにはどっしりと、そして常に何かを食べながら、書いていこうと思います。ひきつづき、色々なご意見をいただければ幸いです。
今年も、暗渠さんぽをよろしくお願いします!

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