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桃園川支流を歩く その35水車坂とその水源② 

最近、鬼のように虫にさされ、足が水玉模様になっております(ホント)。暗渠をたどるものの、宿命なのかもしれませんが、それにしても刺されすぎる・・・。

さて先日、桃園川を愛でているひとたちで、西町天神ウォーキングをやりました。すでにあれこれ調査をされ、付近に住まう方々にコネクションもある方が主催されたので、ふだん一人では行けないようなところに行けたりして、大感激!今回は、その記録をば。

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高円寺にあつまり、桃園川をあるいていって、高円寺東公園へ。わたしが光塩女子学院と認識していた場所=メルセス修道会脇がこの公園です。この公園は、もともとは地域の有力者である浅田氏(浅田味噌の)の別荘で、戦後メルセスが買い、その後区に譲ったのだそうです。邸宅があったというと、池を想像してしまいますが、かつては築山が2つあっただけとのこと。

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こっちは、メルセス修道会の内側です。向こうに広がる広場はかつて池で、手前の松のあるところが池の中に浮かぶ島、通称亀の島です。この池は大きなボートを浮かべることができたほど広かったという人、いやいや小さなものだったという人、両方いらっしゃるそうです。
シスターの話によれば、この池には大きな鯉がいて、旱の年に死んでしまったということがあったそう。
残念ながらメルセスの池は、昭和62年以前に埋められてしまいました。

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これは修道会の玄関脇の植え込み。ここに、以前植えてもいないのに菖蒲が勝手に生えてきたそうです。きっと池の周囲に生えていた菖蒲の根が残っていたのではないか、と言っていたのだそうで・・・、なんだか良い話を聞いた気がします。

それにしても”メルセスの池”って、響きがめちゃめちゃカッコ良くないですか。

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ここは、メルセスから坂を上ってすぐのところにある、いこい公園。ここにはかつて 家が二軒建っており、共用の井戸があったそうです。ここは台地の上のほうですが、ほか、メルセス北の台地にも立派な井戸があったそうで、いずれもそれほど深くなく、ここらは水が湧きやすいことがわかります。

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ただの壁ですいません。ここは、いこい公園から道を下ってきたところで、かつて沼たんぼだったという場所。手前から奥に向かって崖があるんですが(見えない)、かつてはここから下に向かって石垣があり、その下に湧水池があったのだそうです。2箇所から目に見えてプクプクと水が湧き、とてもきれいで、つめたく美味しい水だったということです。
この近くにお住まいの方は、その池で野菜を洗い、やかんで汲んで料理に使ったとのこと。わたしたちがウォーキングで通りかかると、その方が家の中からご挨拶をしてくださり、なんともあたたかな交流です。

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これはさきほどの壁と同じ敷地の、建物(ここを掘るときもかなり沢山の水が湧き、止まらなかったそうです)を挟んで反対側の壁ですが、奥から手前にやってくる隙間の感じが、かなり暗渠っぽいです・・・ここにも一筋あったのではないか、そして、石垣からの湧水と、この細流をあつめ、

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その流れは区境を通って桃園川に注ぐのでは、と一行で推測していました。

ここはその、杉並と中野の区境の道です。桃園川に向かっておりクネクネとしていて、たしかに暗渠の香りがしました。・・・いままで、気づかなかった・・・。もう一本西側の道に、銭湯があって史跡散歩地図上では暗渠のマークがあったので、わたしはそちらだけを見てしまっていました。

ちなみに上述の細流2つのほか、メルセスの池からの流れもきていたのではないのか?と、思いたくなってしまいますが、Aさんの調査によると、メルセスの池からの流れは無かったそうです。自然に地下に浸透していったのだろうとのこと。

さて、さて、一行は桃園川をつたって歩き、西町天神支流(仮)を遡ります。Nakano7

これは、以前西町天神支流(仮)をあるいたときに、脇にあるマンションの敷地から、腕を伸ばして撮った写真。この支流はほぼ全区間、入ることができないのです。今思えばずいぶん無理な姿勢で、不審者な感じだったよな~、と思うのですが・・・、桃園川を愛でる方々のちからをもってすれば、ここに合法的に入ることが可能になったのです!!

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このとおり、同じところを撮ってはいるのですが、なんともゆったり、余裕の姿勢でしゃがんで撮れるんですよ(涙)。

まさかここに立てる日が来るとは・・・感動もひとしお。他のみなさんも感動されていたようでした。

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だってここ、ぜーんぜん入れないので、かくれんぼ支流とあだ名をつけたくらいですからね~~。調子に乗って、もう少し下流まで行きます。ああ、夢のようだ。

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さらに調子に乗って、木々をかき分けて下流へ・・・行こうとしたら、木々のあいだにおびただしい数の蚊が!!何十匹!?うへぇー、無理だぁー。と、しりごみしていたら、ザクザクと進む、勇敢な暗渠のひとたち。

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そしてもうちょっと上流部へまわります。以前来たときは、このむき出しのパイプを見て、ワイルドだなあとしか思っておらず、ずいぶん考えの浅い人でした。このパイプは川筋とは逆向きに設置された、屋根の雨水をむりやりコッチ側に持ってくる排水管だ、と、他の方が推測されてました。無理やり土を盛り不要なモノを置きまくった空間でもあり、そういう、”いろんな意味で強引な空間”だったのですね、ここは。

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そのもうちょっと上、ほぼ上流端です。ここに地元の方がいらして、お話しをうかがうことができました。

その方いわく、ここには大体30年前くらいまで、開渠があったそうです。そしてその流れは、青梅街道から来ていた、とのこと。以前考えていた、六ヶ村分水の中野坂上延長説に、初めてリアルな根拠が得られたことになります。

以前調べたさいには、この流れの水源は、だいたいこの写真のあたりにあったらしい”弁天池”という湧水池だと書かれた資料もありましたが、それは昔の話で、いつ頃か涸れてしまったのかもしれません。その既にできていた谷筋へ、六ヶ村分水を延長した青梅街道沿いの用水路から分流させ流し込み、付近の田畑を潤すために使ったのではないか。・・・そしてそういう想像を、自分だけではなく暗渠や地元に詳しい方もされていて、なんともテンションが上がりました。

地元の方の興味深いお話しはもっともっと続きます。
開渠だった頃、その方が田圃(たぶん成宗や大宮の方の)でおたまじゃくしを弁当箱に詰めて帰ってきたら家人に怒られ、仕方なくここ(西町天神支流(仮)の上流)に放したら、カエルだらけになってしまったこと。
暗渠になったあと、男の子たちは水路に潜って遊んでいたこと。
天神さまの裏は、怖いくらいに木がいっぱいのところで、玉虫がいっぱいいたこと。

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西町天神の入口側は奥の敷地よりも少し低くなっていて、このような防火水槽があり、なにもない長方形の空間があります。これを見て、ある方がかつてはむき出しの防火水槽があったのではと推測されていました。湧水を使ったか、青梅街道の用水を引いたかはわかりませんが。言われてみれば、田舎に現存するプールみたいな防火水槽によく似ている雰囲気の場所です。

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ここは、西町天神と道路を挟んで隣り合う土地。さきほどお話しをしてくださった地元の方によれば、このあたりにプールがあったのだそうです。
西町天神支流(仮)、防火水槽、プール・・・このあたりは、かつては水の豊富な場所だったのです。いまはなにひとつ表からは見えませんが。

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西町天神にある井戸も、はじめてマジマジと見ました。良く見ればとても立派な井戸です。周囲にあるぴかぴかのバケツや洗濯物を見ると、いまも立派にお仕事をしているということがうかがえます。

さて、一行は水車坂へと向かいます。西町天神支流(仮)を下り、昭和浴場の東側を通って、かう志んばしに向かう途中に、かつて水車がありました。水車は青梅街道沿いのお米屋さんの所有で、ここらが田圃だった時代は、尾根に建つお米屋さんの店舗から水車はよく見えただろうとのことです。

Nisim17 わたしは水車は中央西公園支流(仮)中にあるもの、と認識していましたが、実は水車を回していたのは西町天神支流(仮)の下流部。つまり中央西公園支流(仮)は、西町天神支流(仮)と同一のもので、わたしが流れを逆向きに解釈していただけでした。あほだなー!・・・わかりにくいので、最後に地図つきで説明します。

さてその暗渠、最近工事でコンクリ蓋が一部なくなってしまいました。この写真は砂利道になってしまった暗渠の、その奥をながめたところです。こっちにはコンクリ蓋が残っていました。

ここをながめた後、水車坂下にお住まいの、理容室の方からお話しをうかがいました。その方は”中野駅前を掘ったときの土はいずこへ?”の話もしてくださり、それによれば、遊び場79番、および隣にあるマンションなども含めた場所が以前は湿地帯で、トロッコで大久保通りに沿って土を運び、埋めたとのことでした。

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水車跡、ふたたび。車庫が水車跡地で、そのすぐ左を暗渠が通っています。そしてもうひとつの流れが、水車の右側からも来ていて、水車を回していたと考えられます。”合流する勢いで”水車が回ったと記す資料があったものの、この右側の流れをわたしは謎に思っていました。崖上にある中央西公園が、大正末期~昭和10年代半ばまで土屋子爵邸だったことから、庭に池でもあり、そこから?などと勝手に考えていたものですが、ケロキ師持参の公図ではこの右の道にも水路表示があり、また、これも青梅街道から引いた細流ではないかとの意見が出ました。納得のいく推測です。このウォーキングで知恵を寄せ合ったことで、出たものです。ワクワクします~~。

そして流れは、藤の湯の東を掠めてかう志んばしに至ります。かう志んばしの少し手前、わたしが流路がわからなくなったエリアがありますが、そこは道路に土が盛ってあり、もしかすると駅前の土がここにも使われているかもしれません。

これでかう志んばしまでの流れを、ようやくつなげて理解することができました。桃三の冊子によると、かう志んばし付近において、”川では、おなかの赤いかえるをとり、焼いて食べました。また、どびんというびんを夕方しかけ、朝何かとれたか見に行きました。よくめだかがかかっていました。”こんな遊びを子どもたちはしていたそうです。おとなは野菜を洗っていたそうだし・・・、ますますイメージがふくらみます。

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さあ、そして一行は中野駅へ歩いていきます。桃園川からやや北にある、しんどうの池、の跡も見に行きました。味噌maxさんの携帯で、大正期におけるこの写真のあたりを見てみると・・・手前の建物のあたりは、がくんと谷頭になっていて、そこに池がありました。いまじゃ痕跡もないけれど、「ミニ谷戸!」「おー、ここに池!」などと、大興奮です。

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そして地下の蕎麦屋さんでご飯を食べて、解散。中野駅前の地下、ってーと、むかしはもんのすごい地中深く、てことになるんだなあ、なんて思いつつ・・・。

そして、解散後も適当にうろうろして、そして最初に通った桃園川緑道で出逢った、チビ猫エリアに舞い戻ってしまいました。いやぁぁ、メロメロになってしまって・・・そしたら、朝は2,3匹だったチビが、なんと7匹になってました!!!!!ふえすぎ!いま写ってるのでも6匹。しかもみんな結構人慣れしてる・・・。すばらしき猫スポットですよ、これは。

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・・・実はもっともっといろんな発見があったのですが、今回は桃園川支流の話に絞りました。なお、このウォーキングの様子を、味噌maxさんも報告されています。

今回の行程中、西町天神支流(仮)は、こう。上述のように、流路の向き間違え、という恥ずかしいミスをしていたわたくしですが、今回はちゃんと説明します。
まず、青梅街道沿いの用水路から分流された西町天神支流(仮)は、黄色の点線のところを流れます。開渠時代は昭和浴場の東を通り、緑色の点線部分を通ってかう志んばしをくぐり、桃園川へ注ぎます(後日追記:昭和8年時点ではそうですが、もっと以前はこの流れこそ桃園川本流でした。また、明治期には灌漑用水路が張り巡らされていました。)その途中で、水車坂をまたぐ際に、青梅街道沿いから分流されたもう一つの細流(水色部分、これは推測を含む)と合流し、水車を回します。
しかし、ケロキ師持参の公図をみると、暗渠化された後下水管は付け替えられ、現在は西町天神支流(仮)暗渠の下流は、昭和浴場の西側を通って大久保通りへ向かい、桃園川緑道下へと注いでいると推測できるそうです(水色部分)。
桃園田圃の名残か、付近には他にも暗渠らしき道がありました。・・・いやー、ずいぶんとたくさんのものを得た気がします。主催のAさま、参加されたみなさま、ほんとうにお世話になりました。改めて、どうもありがとうございました!

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1-1 さんぽ:桃園川」カテゴリの記事

コメント

お疲れ様でした。
ネコ、7匹も増えていたんですか。お持ちになっていたネコじゃらし、大活躍だったのでしょうか(笑)

昭和浴場から先の流れですが、桃園川直進方向の流れは史跡散歩地図にも載っているので、実際は二手に分かれていたんじゃないかと勝手に想像しています。
私も西町天神支流の記事を書こうかと思ったのですが、かう志んばしから下流部分の写真を全く撮っていなかったことに気づきました。(アホか>自分)
ということで再撮影に出かけなければ・・・。

投稿: リバーサイド | 2010年10月20日 (水) 22時56分

>リバーサイドさん

おつかれさまでしたー。猫、再訪したとき最初はサバトラ4匹がいきなりいて、よくみたら同じのがまた居て、、、遊んでいたら寄ってきて・・・、って、増殖ぶりがすごかったです。ねこじゃらしは超大活躍でした。
おああ、あの部分を史跡散歩地図で確かめていませんでした(大久保通りの反対側は見ているのになぁ)。あそこらへん用水路ゴチャゴチャエリアですし、二手に分かれていた説もありえますねぇ、たしかに。時期によるのかも、とも思いますし。わたしが今回一筋だけで説明したのは、昭和8年の地図をもとにしていますが、そういえば同時期の杉並区の地図は見てません。。杉並の情報も使って下流部の検証もして、それから年代ごとに流路を検証して、ってしないといけないですねぇ。うーん、西町天神支流(仮)編、終りがまだ見えませんw

あれ、さいごのほう写真撮ってらっしゃらなかったのですかw記事たのしみにしていま~す。 

投稿: nama | 2010年10月20日 (水) 23時20分

おおおお、猫増殖!部屋がペット不可の契約じゃなければ、責任を持って一匹拉致りたいくらいでございますw
当日、ほとんどメモれなかったので、私の記事はあんなあいまいな感じでしたが、nama様のはすばらしくまとまってますね。
いや、本当に実りのある会でした。ほかの人は歩きながらこんなところを見ているのか!と驚いたり、ほかの人も私と同じところを見ていたのか!と喜んだり。あの近所に住んでいるのですが、こんなところに蕎麦屋があったのかと驚いたりもしました。
参加された皆様、あらためてありがとうございます。また是非!

投稿: 味噌max | 2010年10月20日 (水) 23時50分

ちび猫ー!!
とつい心を猫に持っていかれてしましますが、
この地図は復習にはたいへんありがたいです。わかりやすくまとめていただいて。感謝です!
もう当日は午後2時にして既に、得た情報が脳から溢れ出しそうでした;;;;
リバーサイドさん、味噌maxさん、おつかれさまでした。

投稿: lotus62 | 2010年10月21日 (木) 16時26分

猫写真におびき寄せられました。
やはり暗渠の緑道には猫が多いみたいですね。
皆さんの暗渠情報を元に猫探しをしてみようと思いますです。
とりあえず桃園川緑道は再訪しなくては!

再訪と言えば…貴船神社で猫3匹見つけました。この辺りでご飯貰ってるみたいです。近くには元気すぎる茶トラも居ますので機会があればぜひ。
再訪の際には近くにあるレトロな甘味処・福田屋さんも覗いてみてくださいませ。猫が居る時もあるらしいです(未撮影です)

投稿: ろっち | 2010年10月21日 (木) 23時52分

参加された皆様、お疲れ様でしたm(__)m

これはなかなか面白い場所も見れたんですねー♪
後は、色々と地元の方とお話が出来たのは、貴重でしたね(^^ゞ

私もこの前日ケロキさんと阿佐ヶ谷&天沼方面の橋梁跡探しをさせて頂いておりました!

いやー、歴史話も色々と飛び出し、非常に楽しい時間を過ごせました(゚∀゚)!!

時間が合えば、今度は是非自分も参加させて頂きたいと思います!

投稿: ima | 2010年10月22日 (金) 01時36分

>味噌maxさん

拉致wわたしがよほど嬉々としていたのか、通りすがりのおっちゃんに「1匹もらっちゃえばぁ~~?♪」(←なんなんだそのノリ)と言われてグハァってなりました。
ほんと、実りのある会でしたねぇ。またよろしくおねがいします。

>lotus62さん

いえいえ、この地図・・・実はメルセス方面をすべて省いているという。ごめんなさい。でも、桃園川支流に関してある一定の成果が出たら、全体の地図を自分でも作ろうと思ってるので、そのとき載せたいと思います。
ほんとすごい情報量でしたよねえ。きっともっと聞き逃してる話もあるんだろうなー。

>ろっちさん

そですね、ろっちさんの暗渠の緑道には猫多い説、わたしもそう思います!緑道だけではなく暗渠ぜんたいに多いような気もしますし(たしか暗渠ムック本にも猫って項目があったような)。
ろっちさんが高円寺チビ猫エリアに行ったら、モテモテですごいことになるんじゃないでしょうかwそして貴船神社・・・いるのですか!レトロな甘味処福田屋、ぐぐってみたら素晴らしいところですね。行きたいです!

>imaさん

はい、貴重なこと多かったです。ああ、本文では省略しちゃったけれど、郷土資料館の関係の方がいらしていて、寺社や歴史の話もかなり聞けたんです。聞いたことのない、すごい面白い話もありました。
ケロキ師との橋跡探しも、めっちゃ楽しそうですねえ。歴史にも詳しいお二人(という印象)だから、コアな話が出そうですねw
はい、いつか桃園川をぜひ!

投稿: nama | 2010年10月22日 (金) 13時31分

namaさん、こんにちは。
皆様の桃園川に対する情熱、ローカルだけどアカデミックでとても良いですね。水車坂周辺の様子がわかってきたら、青梅街道の流れへと謎がまだ続きますね。
以前から西町天神支流(仮)や中央西公園支流(仮)で安定的に水車が回せるのか?と思ってました(青梅街道からの落水は考えてませんでした)。そこで水車を回していたのは、旧桃園川からの側流に西町天神支流が合流した流れだと考えていました。水車を側流に置く事を「回し堀(廻し堀)」といい、都内の水車でもよく見られたらしいのです。回し堀により、水車を止める時は堀の水を止め、また、本流の通船や運材の妨げになるのをふせぐ目的もあった様です。
後日記を見ました。一時期は本流だったとは、更に驚きですね。すると中央西公園の崖は桃園川によって削られたのでしょうね。網目の様な流れの変遷を辿るのは一筋縄ではいかないですね。

投稿: 鍵ノ手 | 2010年10月23日 (土) 19時53分

ケロキより。「水車坂とその水源」の昭和湯の所について。
川は公図で見ると昭和湯の敷地(67-4、66-2、66-3)の中を斜めに横断していました。図のように直角に折れる道路づたいを流れず、曲線を描いていました。
川を挟んで北西側(敷地の左上)が67-4 ▽地
川を挟んで東南側(敷地の右下)が66-2 △地(不定形)

そして川地(中央を斜めに横断)が66-3 曲がり棒状

そして現在(目で確認できる)の風呂屋裏(東に隣接)暗渠は66-8公図地番です。番号がついたという事は、地目が水路(公有地)から私有地になったと言うこと。66-8が新しい事が分る。地番があると言う事は、謄本があり(公有地には登記謄本は無い)、乙区を見れば所有移行の変化が分る(登記がコンピューターになってからは最後の所有変化だけしか表記されないので困る=特別捜査で無い限り)。
その先(上流)は杉並ですが、そのまま西方向へ斜めに延びていて、青梅街道と旧桃園川の間に自然の水源が在ったのでは(調査中)。大河原さんの持っていた古図では風呂屋の先は3方向に分かれていました。これをケロキが解説すると、
①青梅街道からの水路
②自然の水源
③旧桃園川の曲がり

と言う事になる。水源も枯れて、大正13年には河川改修があり、水路との合流点から上流は水が流れないので表記の必要がなくなり、構図から徐々に消えたんでしょう。風呂屋を建てる為に水「地路」地目を解除して、分筆したんでしょうね。「付け替えた」という表現が適切でなかったら御免なさい。
これから杉並区の公図も見たり、旧公図を調べてみます。

良くケロキの話や文は分り難いといわれるんだけど・・・

投稿: 島尻ケロキ | 2010年10月24日 (日) 21時59分

>鍵ノ手さん

こんにちは。あの水車近辺は、どうも謎が残りますね。そうなんです、少なくともあの1本だけではなく合流の勢いで、と書いてある史料があるので(それも絶対視できないとは思いますが)、今回のような推測になったのですが、何と何の合流かはまだ怪しいものです。鍵ノ手さんが仰るような側流という可能性もあるかもしれません。なるほど、回し堀。。桃園川の旧流路をもうちょっと見ないとですね。
桃園ちゃんが削った崖というのは、なかなかスゴイところがありますよね。この公園のもそうだと思いますが、もう少し下流部の塔の下あたりもすごいですよね。
それから、ラムネぶじ入手しました。いつか記事にも登場させたいと思います。情報ありがとうございました。

>島尻ケロキさま

コメントありがとうございます。ケロキ師ケロキ師と勝手に書いてしまってすみません・・・でも読んでくださってありがとうございます!!
昭和湯の「中」ですか。わたし、ちょっと読み違えていたようです。それと、大河原さんの持ってらした古図も、中野の方はちゃんと見てませんでした。あちゃー。あのときの立ち話から「後日付け替えた」のみ拾ってしまいましたが、もうちょっと丁寧に書かないとですね>わたし。ケロキ師のコメント等をもとに、後日修正したいと思います。こんがらかってきたら、つぎお会いしたときにでも質問してしまうかもしれませんが、どうぞよろしくお願いします。

投稿: nama | 2010年10月25日 (月) 14時02分

側流とか確証のない書き込みですいません。古い地図の川に流れの向きや太さが矢印とかで記してあれば、かなり解りやすいのにとよく思います。
桃園川沿いの崖、現在の暗渠を辿ると気づきにくいですが、中野区に入ると両岸ともけっこう険しくなりますよね。
最近の国内の豪雨災害を見ていても、一夜で流路が変わったり、橋が流されたりしているので、旧桃園川たちもかなり暴れながら崖を造ったのでしょうね。
ラムネ記事、楽しみにしています。

投稿: 鍵ノ手 | 2010年10月26日 (火) 14時36分

>鍵ノ手さん

いえ、いえ、わたしの記事のほうが確証の無いことばかりです。古い地図はいろいろと読みづらいですよね。そもそも川と判別できないようなのもあるし。。
桃園川も暴れながら・・・わたしのもともとのイメージ(≒桃園という名前のイメージ)とは異なる側面ですが、そういうことなのでしょうね。
チョコレートケーキの缶も買ったんですが、おそらく後日載せるのはラムネだけです。(いつになるかは不明です;)船内の見取り図がついてて感動しました!

投稿: nama | 2010年10月26日 (火) 17時14分

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