桃園川支流を歩く その37馬橋川たち②
前回の続きで、かつて馬橋と呼ばれた地域を流れる、馬橋川群を追いたいと思います。
第3の馬橋川かもしれない、ルック脇支流(仮)から離れ、少し西に行くと、そこにも馬橋川とも呼ばれたことがあった、天保新堀用水があります。といっても今回は天保新堀用水をすべて歩くのではありません。以前歩いたとき、見逃していた傍流があるのでそれを追いたいと思います。天保新堀用水は、善福寺川から引いた用水路ですが、途中成宗にある弁天池を中継することは比較的有名です。しかし実はコッチ側にも”南の弁天池”なるものがあり、ちょうどその向かいに弁天湯という銭湯が今もあります。
その銭湯の近くの飲み屋さんに、こういう貼り紙を見つけてしまいました。こっ・・・こわいぞ・・・!写真を撮るのもビクビクしてしまって、これは遠方からの望遠であります。
ちなみにこのお店の敷地、もしくはその後方に南の弁天池はあったようです。江戸時代の地図がわかりにくすぎて、確定が難しいけれど、前回の2つの湧泉のうち、ひとつはここなのかもしれません。
その弁天湯のすぐ西に、天保新堀用水跡がわかりやすく遊び場となって長々と伸びています。しかし、その東西にもまた、流れがあったようなのです。まずは東側を流れに沿ってあるきます。ここは実は前回のルック脇支流(仮)との間にあって、それとつながっているのか、天保新堀用水本流とつながっているのか、よくわからない流れです。
といっても、暗渠らしさはほとんど、ない。この道で見つかる暗渠サインといえば、遺構ではなく建物系ばかり。
まずは、この観賞魚屋さん。
それから団地。
あとはえいはちさん仰る公共の施設的なものとして、児童館と保健センターがあります。湿地帯だったのかなあ、という雰囲気はあります。
でもそんなに暗渠的にはパッとしないまま・・・、つぎは天保新堀用水本流のすぐ西の流れも見に行きます。こんどは遡りましょう。
庚申塚がありました。
庚申塚の後ろは、遊び場18番でした。この写真だと、右側の緑地がそれです。この遊び場は持ち主がご厚意で提供してくださってるもののようです。
そしてすぐ左の道が、どうやら流路だったようです。遊び場との間にうっすら段差がありますね。
そして、この左側のブロックは、かつて”たかっつる”と呼ばれた、水田地帯だったそうです(”杉並の通称地名”より)。
周囲の区割りには田圃らしさが残るので、”たかっつる”がどこまで広がっていたかは謎ですが・・・。右手の崖はちょっと激しくなってきます。崖の上には、杉並第六小学校。プールもコッチ側、この崖の上にあります。
この道の中ほどで、流路はやや左に逸れていき、道とは重ならなくなるようです。
流路は1ブロック分追えなくなるので、回り道をしていきますが、その途中にとっても気になる木がありました。
まるくて大きくて、存在感がとてもある。気になる。けれど、わたしの立ち位置と技術じゃあ、ぜんぶ写りきらない。そのぜんたいの印象が、HONDAさんが練馬で撮られていた木とあまりにもソックリで、ちょっとびっくり。なにか大切な木なのでしょうか。
天保新堀用水の西側の傍流はやがてにしはら公園に達します。にしはら公園の付近は、公園・駐車場・マンション、がならび、妙に車道が広く、車止めもがしゃがしゃあって、とても水っ気があるように見えます。
・・・傍流の始点近くまで来たので、今度はまた下って、下流部へ行きます。
下流部にはまた公園がありました。
それから、またも公共の施設。
さらに下ると、合流サインがありました。あれーでも、自分が思ってたところよりずいぶん東に合流サインが出現した気がします。また別の流れ・・・?いやいや、要検討ですね。
さて、帰ろうかなと高円寺駅に向かってあるいていきますと、宝橋があり、勝手に長い間気にしていたお寿司屋さん、宝屋があります。
・・・このときついに、宝屋でお寿司を買いました!お店に入ると、表と同様の良い雰囲気で、注文を受けてから店主さんがお寿司を作ってくださいます。この日、わたしはこのひとりぶんしか注文しなかったのに、嫌な顔せず丁寧に作ってくださいました。
そして、作ってくださる間、店名の由来をはじめ、ずっと気になっていたことをインタビューしてみちゃいました。店主さんは気さくに答えてくださり・・・、
・”宝橋”から取って”宝屋”(橋名が先)。
・創業は昭和30年。ココにやって来て店を開いた。当時は桃園川は開渠だった。
・最初の5~6年は桃園川が氾濫して大変だった。ここが一番低いので、水が腰まで来てしまう。もっとも困ったことは、水が溢れると水圧でガスが止まってしまうこと。(寿司屋なのに)ご飯が炊けないのは、本当に困ったよ。
・水道もここが一番低いみたいで、水道は他が干上がっても出たくらい。そんなときには皆汲みに来てた。
・むかしは都電もあって、ルック通りは通勤路だったので、ここも忙しかった。最近は皆店を閉めてしまい、さみしいことだ。
・・・いろんなことがうかがえましたが、聞いていてちょっと複雑な気持ちにもなりました。このルック商店街は、いつもたくさんの店が並び、若者で賑わう通りです。しかし、実はお店の交代もはげしくて、たまに行くと何軒も変わっているというありさま。中腹にあるレトロパン屋さん(甘食やシベリヤを売ってた)がわたしは好きだったのですが、それもいつしか閉店してしまい・・・この店主さんからすると、ルック商店街は”どんどん店が減ってしまう”という感覚なのかもしれません。
それから、桃園川に対する想いは、苦々しいかたちで語られていました。わたしが「開渠のとき、水はきれいでしたか?」と素朴に聞いたら、ただただ「いや、いやいや~(そんなわけ、ないじゃないか。)」と笑っておられ、上述の氾濫のおはなしのときには、とてもとても苦い思い出を語られるようなそぶりでした。暗渠になって、良かったですねぇと、思わずわたしが洩らしたほどに。
きっと、桃園川で魚をとって遊んだ方々とは、また違う感覚がおありなのだろうな。と、思います。ちょっとの時間だったので、もっといろんなエピソードや想いを聞き逃しているとも思いますが。
そんなこんなで、持ち帰った宝屋さんのお寿司は、ぬくもりを感じるおいしいものでした。とくに、茶巾寿司がとても良い!栗、ぎんなん、しいたけ、蓮根、etc・・・、たくさんの具が閉じ込められていて、お味も丁度良く、ひとくちひとくち、とてもたのしいのです。
さて、子どもの落書きのようになってきた略地図を御披露。
今回は黄色部分をみています(本流はのぞきますが;)。
ちなみに、もうひとつの馬橋川と呼ばれていたかもしれない流れ、馬橋稲荷支流(仮)はいちばん左端にちょこっと出ています。ここはかつて歩いたので割愛しますが、ケロキ師の情報によると、”西窪 稲荷川”という別称も持っているようです。
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コメント
金魚やさんの「リオ」はもう立派な暗渠サインですよね。(それにしても、何故「リオ」w)
「たかっつる」という呼称も、前半は「ちょっと高くなってる」と解釈できますが、後半はどんな意味なんでしょうね。それと、HONDAさんも紹介されていたこのワタアメみたいな木も気になりますw
馬橋川、あまり全体像がつかめずにいたのですが、おかげさまでだんだん頭の中での整理がついてきました!
投稿: lotus62 | 2010年10月25日 (月) 20時17分
「リオ」はスペイン語だと「川」ですよね。関係あるかどうかわかりませんが。
投稿: 翠月庵 | 2010年10月25日 (月) 23時17分
いや~、今回の馬橋川探索の日記は、非常に興味深く拝見させて頂きました。
支流もそうですが、それ以上に周辺のお店や地名に興味を惹かれました(;^_^A
たかっつるに行きましたかー!!
僕も通称地名観てたけど、実際行ってはいないんですよね(爆)
後、宝屋(゚∀゚)!!
気にはなっていたんですけれども、その場で食べれるお寿司屋さんじゃなかったから、入らずじまいでいたんですよねー。
このお店はある意味、今は無き「桃園食堂」と同じぐらい桃園川マニアとしては、一度は行っておかないといけないお店ですよね(^^ゞ
御主人に色々お聞きになりましたね~(笑)
このインタビュー読んでて、思い出したんですけれども、この前紹介した「高円寺―村から街へ―」にも、開渠時代を知る人が「桃園川が氾濫して子供達を背負って八反目橋を渡った」…という記載があったのを思い出しました。
宝橋と八反目橋、隣同士ですから同じ様な状態だったんでしょうね。
ちなみにこのルック脇支流(仮)が八反目橋の位置になる感じなんですかね(?_?)
橋マニアとしては、どの橋跡から伸びている支流かがわかると、大体の位置が把握出来るという…(爆)
後は、開渠の時の水の汚さのお話をされた事は、先日ケロキ師と阿佐ヶ谷・天沼方面の橋跡を訪ねた際に、松山通り(旧中杉通り)に架かっていた松山橋の事を近所の方に「ここに川が流れていて、橋が架かっていませんでしたか?」と訪ねた時に、「あー、あのドブね!」と言われた事を思い出しました…。
皆さんとの会話でもたまに話題に上がりますけれども、どこまでを「川」と言うのかというところですよね。
僕も暗渠好きになってから、どんなに汚かろうが小さかろうが、そこに水が流れていたら「川」という認識でおりますが、やはり当時の人から見たら、すぐに氾濫はするし汚染は酷いドブ川という意識でしかなかったんでしょうね…( 一一)
それを考えると暗渠になるべくして、暗渠になった川だった…のかも知れませんね。
悲しいですけれども(汗)
投稿: ima | 2010年10月26日 (火) 02時26分
!翠月庵さま!
>「リオ」はスペイン語だと「川」ですよね。
早速調べてみたら、ブラジル公用語のポル語でも!!
”「リオデジャネイロ」=1月の川"ですって・・・。
全然知りませんでしたー。どうもありがとうございます。この金魚やさん、なかなかのセンスなんですねー!
リオと聴いてサンバカーニバルのギッラギライメージが真っ先に浮かんだ自分の俗物具合が恥ずかしいですw;;;
投稿: lotus62 | 2010年10月26日 (火) 09時10分
>lotus62さん
「たかっつる」、わたしの脳内ではなぜか、「鷹っ鶴」と変換されていました。意味が違ってきちゃいますねw でも「たかっつる」は崖下の土地だから、「高」がつくのもすこし不思議です。って、わたしは杉並の通称地名からマイ地図にうつして、そのときにひらがなだったのでこういう展開ですが、ちょっともう一度文献読みなおしたくなってきました。今日の帰宅後にでもやりたいと思います。
>翠月庵さん
なんと、「川」なのですか。リオデジャネイロって川のつく地名だったわけですか~~。とても参考になります、どうもありがとうございました。
もしこの「リオ」が昔からある店ならば、先代から引き継ぐときに「川○屋」とかを改名した可能性はありますね~。なんて、勝手に想像してしまいます。
>imaさん
ふっふっふ、たかっつる行きましたよw
それと、宝屋。imaさんも気にされてましたか。わたしも長年、気にはなるけどなんとなく敷居が高い、という感覚で居たのですが、入ってみて実に良かったです。imaさんも、ぜひw
ルック脇支流(仮)の合流点は橋の無いところでした。ただし八反目橋にもべつな馬橋川がきていて、以前(春だったかな?)のウォーキングの時に、ケロキ師がそう仰ってた気がします。依然として橋情報の少ないわたしでゴメンナサイw
「川」の捉え方や定義の話、なかなか奥深いですよね。桃園川は支流も含め、時代により場所により、本当にいろんな顔を持っていますよね(おそらく大概の川がそうなんでしょうけれども)。話をうかがう相手によって、色々な面がみられて、こちらにもさまざまな感情が生起してきます・・・。
投稿: nama | 2010年10月26日 (火) 09時54分
この木でしたか。確かによく似てますね。たっぷり水を吸い上げて葉を繁らせている感じがします。つるは水や湿地にまつわる地名です。鶴巻とか弦巻とか。
投稿: HONDA | 2010年10月26日 (火) 12時14分
>HONDAさん
木の生えた地面のあたりの風景も、良く似ているんですよ。いまでもじゅうぶんな水があるのでしょうか。
「つる」、ありがとうございます!両つるまきは、水に関連する地名だったのですか(そういえば弦巻は文京も世田谷も川関連でありますね)。なるほど~!!
投稿: nama | 2010年10月26日 (火) 12時58分
通称地名、一応確認しました。
「たかっつる」は「鷹っ鶴」でよかったようで、わたしが既に見たことがあるのにちゃんと覚えていない、というおそまつなことが起きていたようです。
しかしこの「鷹っ鶴」の伝承は、家光が鷹狩りに来てその鷹がこの水田で鶴を捕まえたから、ということになってます。”表現の語法がやや奇妙”という注釈つきで。
この強引な話よりも、HONDAさんの解説の方が正しい気がしてしまうのはわたしだけでしょうか・・・w
投稿: nama | 2010年10月27日 (水) 15時11分