« KHJ! | トップページ | 桃園川支流を歩く その33人工谷と幻の中野駅前支流(仮)② »

桃園川支流を歩く その32人工谷と幻の中野駅前支流(仮)

中野駅前から桃園川へ行く道、つまり南口の中野通りは地形図で見ると実は谷になっています。しかし、ここに川があったと記す文献は、まず見つかりません。それは、この谷が昭和初期につくられた、人工谷だからです。わたしはこのことを、地元の方から聞いて知りました。もともと、桃園川に向かう立派な谷があるのに、支流の話が出ないので気にはなっていましたが、その大規模な地形の変化に、かなりおどろきました。

この人工谷がつくられた理由は、中野駅の移転に関連します。「中野区史」によれば、中野駅は明治22年の中央線第一期開通後まもなく創設。その後利用客の急増にともない、昭和4年に改築されることになります。
「中野交通ノスタルジィ」によれば、この改築は、”中野駅の長い歴史の中で他に類のない大事業となる。当時、駅周辺の土地は駅と同じ高さにあった。中野通りを南北に縦断せしめるために、これを掘り下げようというのだ。”という、駅舎移転と土地の掘り下げをともなう大掛かりなものでした。中野駅はそれまで、現在の位置より数百m西にありました。掘り下げた規模は、南口だけでも深さ4m、南北約150mに及ぶそうです。

また、中野駅にはそれまで南口しか存在しなかったので、北口商店街の人々は、これを機に北口改札も設けるよう動かれたようです。その北口商店街というのは、いまの中野サンモールにあたります。南口の中野通りもなかなか駅前風ですが、じつは、南口は一本西側の桃園通りがかつては駅前商店街でした。その桃園通りには、いまも店舗がいくつもあります。地面の高さもむかしのままで、駅前で唯一過去の趣を残すところかもしれません。桃園通りから東高円寺方向に向かう道は妙法寺へ向かう道でもあったことから、ずいぶん離れたところまで飲食店が続き、現在でも人通りはまあまああります。

Ekimae 桃園通りの、かつてだったら駅前一等地!(いまもかも;)って位置に、佐世保バーガーのお店、ZATS BURGER CAFEがあります。これはアボカドバーガーですが、ここの佐世保バーガーの、ソースがおいしいんだよなあ。いつか食べたいと思っていた山芋フライは無くなっていて、ショックでした。

ちなみにこの2軒隣にあるvivo daily standも、かなり優良なワインバーです。おいしいし。

Ekimae2

これらの店舗から中野駅に向かおうとすると、そこには下り坂があります。でもこれは人工谷へおりる、人工坂なわけです(これは下からみたところ)

Ekimae3_2

こうみると、中野駅は高い位置にあるように見えますが、じつはここの東西にある台地と同じ高さ・・・地面と同じ高さだったわけです。

そして、ここから南へ伸びる中野通りは、人工谷底商店街なわけです。

Ekimae4 

コッチは(見づらくてすみませんが)、中野中央図書館へとつながる坂ですが・・・、もともと、暑いときや疲れているとき、上りがちょっと嫌だったんですが、ここが人工と知った後からは、「この人工坂め~!(むかしだったら登らなくて良かったのに、みたいな気持ちをこめて)」と、ちょっと悔しくなりながら疲れるようになりましたw(わたしは昇降運動に弱いようです。)

ところで。ここは人工谷だから、小川などなかった、という結論でよいのでしょうか(疑問1)?甲武鉄道敷設の際、掘ったところから水が湧いた話はいくつもあります。それから、ここを掘った土砂を近くのあちこちへ運んでいるようなので、この時期まで中野駅周辺にはもっと池・沼・水路、が存在していたのではないでしょうか(疑問2)?

この疑問を解決するため、まず地元の方のお話を少しだけうかがってみました(Aさん、ご協力ありがとうございました)。すると、

①この工事で出た土であちこち埋立てられたらしい。遊び場79番はかつて沼だったが、このとき埋められた。

という、ダイレクトな情報(厳密に言うとこの情報は人工谷の話と同時でした)。ほか、

たかはら支流(仮)が道になったことも関係するかも?
③現在工事中の警大跡地(陸軍中野跡地)に水が出て、(今年の)7月まで抜き続けた。
天神川は昭和34年まであった、と聞く。
⑤中野駅南口ロータリーの地下には、排水施設がある。
⑥昭和30年代の台風で、中野五差路のあたりが冠水した。
⑦中野駅移転にともなう掘り下げ工事は、大正5年~昭和11年の間のどこかとも聞く。

と、関係しそうな情報をいただくことができました。つぎに、史料も少しあさってみると、

⑧丸井本社の場所に、”しんどうの池”と築山があったそう(桃三小の冊子より)。ちなみに丸井の創業は昭和6年。

といったぐあいに、疑問2にかかわる話がいくつか出てきました。しかし疑問1について、ダイレクトな情報がありません。
そこで、中野区役所に突撃してみました。役所系の突撃は初めてでしたが、詳しい方につないでいただけて、とっても親切に対応してもらえました!(本当にありがとうございます。)といっても、関連文献はほとんどないそうで、詳しそうなものを1つ(サンモール商店街で発行した「サンモールのあゆみ」)、教えていただきました。

⑨「サンモールのあゆみ」によれば、鉄道省は当初南北をつなぐ道を陸橋にする計画だったが、それに対し地元が猛反対し、半年以上かかって地下道の計画を”かちとった”。駅移転も地域住民が発想し、自分たちの手で地面を掘った。掘り下げ工事は、だいたい昭和3年~5年に行われ、最初は1日40台前後の馬車で、最後の方はトラックで土砂を運んだとのこと。

工事中の写真もいくつも載っており、一軒一軒、商店の周囲の土を削り取っては下に角材を差し込み、下へおろしていった様子もみえます。ただし、その中にも、水が湧いたとか、池を埋めたとかいうものは見当たりませんでした。

さらに、職員さんから、周辺に昔から住んでらっしゃる方のお話も教えていただきました。その、記憶と推測をまとめると以下のようになります。

⑩工事の際、水が湧いたという話は聞いたことがある。軍用地(陸軍中野跡地)の中にも湧水(※)があったらしく、この辺の地層から言っても大いにあり得る話。
⑪中野通りを桃園川のほうまで掘り下げているということは、その湧水の小川を桃園川に流そうとしていた可能性も大いにある。
⑫工事で発生した土砂で近辺の埋め立てがあったことも聞いている。具体的にどこを埋めた、というのは思い出せないが、当時の装備からいって、そんなに遠くには運べないだろう。

※この湧水はたかはら支流の水源のことではなく、天神川の水源のようです。つまり、自然河川と陸軍中野学校の排水をつなげたというわたしの予想は外れていて、天神川は軍用地の中から流れ出ていたことになります。

これらのことから、

疑問1:中野駅南口からの中野通りに、工事による湧水と小川はできなかったのか?

これについては、⑩・⑪から、
→昭和3年頃から僅かの期間、中野駅周辺から湧き、中野通りを下って桃園川へ注ぐ、中野駅前支流(仮)というものが、もしかしたら存在していたかもしれない。
と、いうことができます。
また、③・⑤・⑥は、工事による湧水・小川の存在を支持すると考えます。ただし、時期については⑦と⑨でズレがあるので、要調査、ですね。

疑問2:工事以前、中野駅周辺にはもっと池・沼・水路、が存在していたのではないか?

これについては、①・⑧・⑫から、
→中野駅移転工事にともない、遊び場79番にあった沼などが埋められたようだ。ほか、丸井本社ができる前にあった池なども、このとき埋められた可能性がある。
と、いうことができます。
④から、天神川の埋立てには使っていなさそうだし、②のたかはら支流は蓋掛けなので土は使っていないのではと思います。

いずれも、まだ断言するには非常に弱いですが・・・。古地図の比較、さらなる文献と証言の収集、を少しずつ続け、続編をまたいつか書きたいと思います。

Ekimae5_2 ところで、その中野通りをさらに南へ行くと、杉山公園があります。ここで先日お祭りがあり、ちょうど通りかかったのでついでに載せてしまいます。

氷川神社と西町天神の合同のお祭りになっていて、にぎやかです。わたしとしては、西町天神の、ってのが、興奮ポイントなわけです。

Ekimae6

じゃがバター(←好物)をもぐもぐ。最近のじゃがバターはトッピングできるのですね!?3種類ほどトッピングがあり、1種類しか選べないそうなんですが、「明太マヨネーズと、コーン、どっちもってダメですかねぇ・・・」と言ってみたら、おまけしてもらえました~!イエス!!
なんか、 アメリカ!! って感じの色合いですね~w

・・・話を戻しますと、今回は中野に興味のない方にとっては???の内容だったと思います。ですが、この、今まで追った中でももっとも”まぼろし度”の高い、中野駅前支流(仮)のことを考えると、わたしは中野の駅で降りるだけでもワクワクします。
小川、とさえも呼べないような、ちいさなちいさな流れだったかもしれないけれど。でも、もしそれが桃園川に注いでいたのなら、どんなにちいさくても、わたしは支流と呼びたい。そんな、熱のこもった机上の暗渠さんぽでした。

|

« KHJ! | トップページ | 桃園川支流を歩く その33人工谷と幻の中野駅前支流(仮)② »

1-1 さんぽ:桃園川」カテゴリの記事

コメント

うわーー、すごく読み応えありましたよ。桃園や中野あたりのたくさんの情報をすごく上手に使って話を進めていくところが、ドキュメンタリー見てるみたいでした。
それにしても時間と手間をかけてよく調べましたねー。
まずは中野駅前の谷が人工、というのが衝撃的で、ツカミを取られましたw

投稿: lotus62 | 2010年10月 1日 (金) 17時31分

言われてみれば、中野駅前は谷になっていますね。(今まで気づかなかったorz) 東からも西からも結構、坂を下っていきますよね。
あれを人工で造ったなんて、当時の人の執念、凄すぎます。今だったら道路のところだけ、橋を作るかトンネルを掘るかして済ませちゃいそうw。

投稿: リバーサイド | 2010年10月 1日 (金) 18時46分

>lotus62さん

ありがとうございます。区役所の中でも違う部署でまた違う情報が得られるっぽいし、もうちょっと動きまわれたとは思うのですが。わたしもこれを最初聞いたときはすごい吃驚しました。これだけ地形が変わっていたら、中野駅周辺の地形もどれだけ信用できるかわからなくなります。。古地図とにらめっこしすぎて、眼が悪くなりませんように。。

>リバーサイドさん

谷としての存在感が薄いというか、駅前の谷、やはり人工っぽさが残るのでしょうか。自然の谷のような崖もないし・・・。それと、サンモールのあるところも、かつては駅と同じ高さだったのを、利用しやすいようにとこのときいっしょに掘り下げたので、北口のバスロータリーふくめ、あれ全部人工です。どんだけ土掘ったんだ、っていう感じですよね。。すごいですよねえ、執念。
当時陸橋案が反対されたのは、まだ馬車の時代で、近隣が迷惑するってことだったみたいです。今だったら橋もありうるかもしれませんねえ。
いやはや今後は、サンモール歩く時も、感覚が変わりそうですw

投稿: nama | 2010年10月 1日 (金) 19時06分

「当時、駅周辺の土地は駅と同じ高さにあった。」!
これはすごい!
この1行だけで記事にしても十分というインパクトのある情報ですね。

そう言えば、地形図を見ると、中野の周辺では低地がループ状になっていて、今考えると不自然なことになっていますね。
本当は東へ向かう谷筋だけだったのですね。

その後のリサーチも専門家のように詳細で深いですね。
いや、失礼しました。もう専門家そのものです!

投稿: 猫またぎ | 2010年10月 2日 (土) 07時52分

namaさん、こんにちは。中野駅前支流、楽しく読まして頂きました。私もワクワクしました。
中野通りの掘り下げと駅舎の移動についてはざっくりと知ってはいましたが、とても丁寧な検証で読みごたえがありました。
同時に、中野区の中心地の形成・発展の歴史が、文章にまとめられていない事にもびっくりしました。
幻の支流はあったとしたら、中野五差路から東側の中野郵便局へは下りだし、郵便局(旧中野区役所)の近くから合流したたのではと想像します。
中野駅周辺の中野通りの完成と中野駅の南北ロータリーの完成には時差があるのし、事業主も東京都、中野区、国鉄、地権者などと色々絡みそうですね。
一つ思い付きですが、中野通り周辺の下水道の完成の時期がわかれば、「中野通りと下水道の完成との時差の間は開渠だった」と考えられる気がします。

投稿: 鍵ノ手 | 2010年10月 3日 (日) 18時55分

>猫またぎさん

ありがとうございますw ですよね、ちょっと驚きますよね・・・。高円寺や阿佐ヶ谷が高架なので、違和感がわきにくいのではないでしょうか。
地形も、そうなんです、よくみると変な地形なんですよね、、、わたしときたら天神川の記事を書くときにも気づけたでしょうに、気づきませんでしたよ。。。

>鍵ノ手さん

こんばんはー。そうなんです、あまり文献はないみたいでした。しかし、じつは昨日、ふと朝起きしなに、中央線の120周年の本を読んでみたら、駅移転のことがばっちり載ってましたw そこからずるずる記憶が引き出され、そういや井伏鱒二も書いてた気がする・・・って読んでみたら、もっと詳細に書かれていました。何度も読んだのに、記憶に残っていなかったようです。そこを、地元の方が水路とつなげる形で情報提供してくださったので、はじめて食いついたようです。その方には本当に感謝しなければなりません。
というわけで、もう少しだけ情報が足せそうなので、続編をひとつ、すぐに書こうと思います。
ああ、そっか、郵便局のほうに先に落ちていきそうですね。わたしはなにも考えずに、桃園橋にいたるような気がしちゃってました;; 地形的にはたしかにあっち側ですね。それに、下水道の情報というのも、なるほどという感じです!それ、突撃してみたいです。貴重なアドバイス、どうもありがとうございました!

投稿: nama | 2010年10月 3日 (日) 22時34分

こんばんは。私は最近暗渠探しを始めたばかりで、どこで情報を得たら良いのかも判らないくらいです。いや、勉強になります。やっぱり人に聞かなきゃいけないし、もっと当時の資料とか探してみなきゃって気がしてきました。
そして、この記事に書かれている場所は、まったくもって、私の家の近所です。引っ越してきたばかりなので、この土地の歴史をぜんぜん知らなかったのです。なるほどなるほど。

投稿: 味噌max | 2010年10月 4日 (月) 20時36分

>味噌maxさん

こんにちは。コメントありがとうございます!味噌maxさんのところを拝見したら、自分の活動圏にちかくてそして暗渠なものでしたから、ついつい調子に乗って書きこんでしまいました。暗渠は始められたばかりだったんですね。わたしもまだ1年とちょっとしか経っておらずまったくの新米なのですけれど、最近やっと資料が溜まってきたものの、最初はテキスト1冊でじゅうぶん楽しくさんぽしていましたよ。それになにより、味噌maxさんには素晴らしい某アプリがあるじゃないですか!あれ、持っている人から見せてもらったんですが、すごすぎますね、強い味方ですね。うらやましいです。。
そんなに近所でしたか、ここw 中野の記事はこれからも書くと思います。今後とも、どうぞよろしくお願いします。

投稿: nama | 2010年10月 5日 (火) 09時41分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 桃園川支流を歩く その32人工谷と幻の中野駅前支流(仮):

« KHJ! | トップページ | 桃園川支流を歩く その33人工谷と幻の中野駅前支流(仮)② »