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2010年10月

紅葉川をねちねちと歩く その1 四谷と富久町の水源

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晴天の下、新宿御苑を見下ろす。

カウンター席に座れば、こんな景色を眼前に、食事ができるモスバーガーがあるって知ってます?

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新宿区、四谷区民センターのビルには、そんなモスがあります。今回は、ここスタートで紅葉川のはじまりの流れを2つほど巡ってみたいと思います。

このモスはメニュー的にもとくべつで、この時期大人気だったザクザクラー油バーガーを頼もうとしたら、それがメニューに無い。けれど、かわりにオリジナルの”和風チキンバーガー”なんてのがあるのですよっ!いやー店舗限定マークなんかついてたら、もうそれ食べちゃうでしょ。

たまたま見つけたお店でこのような収穫、うれしいです!景色もとてもきれいでした~。いろんな季節に来てみようかな。

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さてさて、紅葉川編のスタートと行こうと思います。紅葉川は、リバーサイドさんが辿られていましたね。
いきなり天気が変わりますが・・・別な日ですw

ここはサン○ュージックがあった交差点ですが、明治の古地図によるとこの左手一角に、かつて池があったようです。裏に回ってみても、ただのビルの隙間の道なのですが。でも地形的にはカクッと低くなっていて、水っ気は少しあるように思えます。

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そこを水源とした流れがひとつ、この坂をチョロチョロと下って行って紅葉川となるようです。
いまの地形で考えると、池から外苑西通りをわたり、少しこの歩道に沿ってゆき、

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ここのカーブとともに上り坂になる外苑西通りと別れて、このまっすぐな細道を下るように見えます。

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まっすぐな細道の両脇を見ると、右手に崖が出てきます。いま歩いている道が流路なのか、それとももっと崖寄りなのか、わからなくなってきたぞと思いつつ、崖に近寄ってみます。

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崖下に隙間?ここになにかあるかのようにも見えるけど、

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その反対側は家が密集していました。暗渠らしさが見当たらなくなってしまいました・・・

流れがグネグネしていたとも考えられるかもしれないけど、やっぱ最初のまっすぐな道が流路かなあ・・・?

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なんて、モヤモヤと考えながら道を下っていくと、公園が見えてきます。

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茗荷坂公園。ハンガーのような形をした、ちょっといびつな敷地で、雨水貯留・浸透施設があります。むかしは沼などだったのではないでしょうか・・・?

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流路は公園から右に折れます。左手に崖が出現?源慶寺みたいですが、ちょっと違和感崖です。
ちなみに源慶寺のとなりに茗荷坂があります。この前、帰省した際にたまたま裏庭に育っていた茗荷を収穫しました。茗荷は青々とした、トウモロコシを少し軟弱にしたような、思ったよりずっと背丈のある植物でした(食べるのは筍みたいに生えてすぐのやつです)。そんな茗荷の畑が、かつてはここにもあったのかもしれません。

このまま真っ直ぐ進み、奥に見えている靖国通りを右に折れれば紅葉川本流へ出るのですが、ちょっと寄り道をしたいと思います。

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靖国通りを西へと上ります。ここはすぐ左手に見えた、源慶寺のわき。やっぱり違和感崖です。
むりやり盛ったか、むりやり削ったか・・・? 

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寄り道の目的は、ここでした。

この、交差点の向こう、ローソンなどが見える場所は、むかしは四谷軒牧場、という牧場だったそうです。
ほ~、牧場跡にステーキハウスやら牛めし屋やらが建っているのですね!(そのうち食べに来そうです、わたし・・・w)

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で。富久町にある紅葉川のまた別の水源を探しに行きます。

四谷軒牧場跡を向こう側に渡って、すると外苑西通りがどん!と靖国通りにぶちあたって終わって、そこにこんな三角州みたいなのと車止め空間がありました。へんなの。。。でも、川の感じはあまりしません。

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そのへんな車止めの向こうには西富久公園、というやたら長い、長方形の公園があるのです。

地図上では、ただの長方形ですけど、実際に行ってみると見えてる部分はそんなに長くないのです。残りは、目視はできなくて、こんなふうに崖になってるようなのでした。

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公園の続きを見ようと、車止めの反対側は・・・・・、おわー!滑り台として活用されてました!でもこれ、きっと結構怖い傾斜だと思う!

蔵王の”横倉の壁”(45度くらい)もこんな感じだけれど、上に立った時には垂直かって思うもの。。。

この公園の東隣を見てみると、

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ドギャーン!!

こっちもすごい崖です。

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で、公園を西に行くと、このように住宅地なんだけど地面が低くなっている部分があります。その低いところを通っているのが、いま探している、もう一本の紅葉川支流です。Momiji22

低そうな道をどんどん進み、水源を探ろうとします・・・暗渠なのかどうか、よくわからないし、水源の情報もないし・・・雨降ってるし、なんか人いないし・・・ちょっと心細い。

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ぬわ、ナンダコリャー!

唐突にあらわれた、この空き地は、今まで見た空き地とは異なる不思議空間でした。中身は何だかわからないけれど、大量のゴミ袋。それから大量の植木。あとは物置みたいなものや、いろいろ・・・しかも扉が開いているんですけど、すごく入ってはいけない気がします。ブルブル・・・

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しかし、ゴミひろばを抜けると、そこは天国でした!

五色弁財天と、清滝不動尊が並んでいます。・・・川筋どころか水源さえよくわからない、初めてあるく場所で・・・、この出逢いは身震いするほどうれしかったです。

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清滝不動尊のわきには、池を模したような(いやもしかしたら滝?)空間もありました。狭かったので中には入りませんでしたが、きっとここには池があったでしょう。ここがきっと水源なんだろうなあ。

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不動尊の奥は、このような崖が見えるし、

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また別な方角を見ても、やはり壁でした。つまりここは、ゆるやかな谷頭です。

しかし、すでにお気づきと思いますが、このあたり、家がどんどん駐車場や空き地になっているようで、歯抜け状になっている地帯なのです。富久町にもこんな空間があるなんて、ぜんぜん知りませんでした・・・。

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紅葉川へ話を戻しましょう。清滝から流れ出た流れは、この道を通っているかもしれないし、あるいは右手の駐車場の中を通っているかもしれません。

そしてこの道(が一番低そう)をまっすぐ進み、そのつきあたりにある、さきほどの公園へと流れます。

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公園の手前にはまた崖が出現して、そこから迫ってくるこのようなスペースもありましたが・・・、どうでしょ、これは微妙。

紅葉川のはじまりの1つである流路は、この公園を突っ切り、靖国通りを目指します。

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しかし公園を抜けると、なんだかいきなりあっけなく広い道へと出ます。・・・さっきまでの光景と合わせると、なんだかビフォー・アフターみたい。

「地域誌 この町の昔のくらし」によれば、この右手のスーパーのあたりはかつて、安保海軍大将邸だったもようです。

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広くてつまらん道だと思いきや、クネクネはしてました。そこを下っていくと、こんどは左からも崖が迫ります。
崖は二段見えますね。上の崖のその上に、成女高校があります。この地形・・・、この学校は以前お屋敷でもあった系かな?と思っていたら、月刊Collegioの07年7月号に、なんと”此処は小泉八雲の旧居跡でもある(編集部著、紅葉川のコラムより)”、とありました。右手に海軍大将邸、左手に小泉八雲邸、その合間の谷に、紅葉川、と。
さらにさらに、そのコラムには、ちょうどこの坂(禿坂)の下には池沼もあったらしき記述もありました。今歩いているここらへんも、きっと水っ気たっぷりの土地だったのではないでしょうか。

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さて、今回は紅葉川のはじまるところのうち、2箇所のさんぽにとどめます。ほかにも水源らしきものはあり、支流もあわせるとなんだか色々ありそうです。しかしムック本にも書かれているのですが、紅葉川の流路は史料により違っているところが多いし、それから水源もあいまいな記述が多い気がします。・・・ので、何回かに分けて、1こ1こねちねちと追いたいと思いますw

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紅葉川をねちねちと歩くの前哨戦:牛込川

紅葉川さんぽ編に、ついに入ろうかと思います。
だって秋だから・・・

しかしその前に、紅葉川の近くを流れていた牛込川について、こちらの近くにもよく行くので、前哨戦的に書こうと思います。牛込川とは、そのむかしここにまだ白鳥沼が在った頃、箪笥町から東流していた川です(「神楽坂界隈」より)。
牛込、という名は、古代ここに牧場があったこと(延喜式にある”神崎牛牧”)から来ているそうです。その牧場の位置は時代によって違うようですが、東端に牛天神(北野神社)、西端に西向天神社(牛に関係が深い)があり、その間に牛込があるという、興味深い記述もありました。また、牛込には中世に”牛込城”なる城があったといいます。この城は不明点が多く”幻の城”と呼ばれることもあるそうですが(”幻の”に弱いわたし)、この牛込城に対し、牛込川は濠の役割を果たしていました。・・・ということで、珍しくお城の話もからめつつ、牛込川を遡ってゆくこととしましょう。牛、牛、牛。

ちなみにここは、庵魚堂さんが、”神楽坂支流”として紹介され、そのときに興味を持ちました。神楽坂にはそこそこ土地勘があるので、この支流をわたしも見つけようと、何段階かで挑戦してみたのです。
まずは、なにも見ずなにももたず。・・・考えてもみてください、暗渠をたどりはじめてまだ1ヶ月の赤ん坊が、丸腰でいきなり探せるかって!(しかも極度の方向音痴。) センスのいい人はいけるんでしょうけど、わたしはいけませんでした(きっぱり)。神楽坂の同じところをぐるぐる回って、日が暮れたので帰りました。
つぎに、マイ地図だけ持って。・・・凹凸は分からないタイプの地図です。当時の自分は、どんな道があやしいかもまだよくわからなかった。やっぱり、神楽坂にごく近いところだけしか歩かないでなんも得られずに帰りました。
そして最後、いきなり明治の古地図でカンニング。すごい(ダメな)飛躍です。でももう独力じゃムリ、と思ったので、古地図を見たら、みごとそれらしき流路が載ってました。それを地図にうつして、いざ行ってみると、なんだか1本の川とは思えないヘンな地形・・・はい、道を間違えていたのでした。カンニングしてもなお間違えるって、すごい。

そんなこんなで、先日やっとこさおおむね辿ることができたのです、牛込川。

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ここは神田川との合流地点をみたところです。すでに夜スタートですみません。

といっても、このあたりは昔は”大沼”で、やや北に”白鳥沼”がありました。前掲の資料によれば、牛込川は白鳥沼に注いでいます。・・・んー、中世の”牛込川”と、後にここに作られた”神楽坂支流”とは、下流部分は異なるのかもしれません。

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白鳥沼のほとりがわからないので、明治期の地図上の河口からさかのぼってゆくと、妙に広がる三角の交差点が現れます。

桃園川島田軒牧場支流(仮)にも、こういうところがありました。リバーサイドさんやえいはちさんもこの三角地帯に惹かれているようです。

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こんなふうに、三角地帯の一角には、なんだか不自然な壁があります。

石垣、煉瓦、何段ものミルフィーユです。ここは結構すてきなのに、写真がへっぽこでごめんなさい。庵魚堂さんの写真でみるととてもすてきです。

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それ以降は川の感じがあまりしない、あたらしめで広い道がちょっとだけ続いて・・・、ん、へんな自転車置き場だな。こんなにスペースがあるのに、縦一列分だけの細長い駐輪場。

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何度も牛込川を辿ろうとして周辺をウロウロした身としては(失敗してるけど)、実は暗渠らしさにはあまり期待してなかったんですが、唐突に狭い道が出現!!

これか!これだったのか・・・!!
ものすごい興奮してきます!

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狭くて両側がやたら高い。この右側のやたら高い塀の向こう側に、水がバシャバシャと勢いよく流れる音がします。

もちろん、自然の水ではないのでしょうけれど、暗渠の雰囲気を煽ってくれます。

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狭い道、石垣、古い家々・・・。暗渠としてかなりの上物です。こんなところが、神楽坂にあったとは・・・!
神楽坂には風情のある石畳の道などなどが多く、あちらもよいですが、こっちのほうが断然いい。この地にこんな上物暗渠が残っているのは珍しいと思います。

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狭くてサイコー!・・・なのはこの区間だけでした。そんな予感がすでにしていたので、名残惜しく何度も何度も振り返ります。

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さて狭い道が終わってしまいました。つくど公園、に出ます。ちょっと新しい公園に見えます。

ここから先は、大通りに出て沿っていきます(ちょっとつまんない)。

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暗渠サインといえそうな、消防署も流路沿いにありました。牛込消防署。

そしていったん大通りから裏道へ入ります。

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銭湯もある。暗渠サイン目白押しですねw(材木屋さんもあった気がします。)

この第三玉の湯は、正面玄関は大通り沿いなのですが、裏道(=流路沿い)にも入口があり、それがこれ。裏口の方が、だんぜん秘密めいてて良いです!

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ちょっと良い裏道もすぐおわり、あとはえんえん大久保通りに沿います。

大久保通り沿いにある、モスバーガークラシック、これは最近知ったんですが、クラシックでアメリカンなハンバーガーを提供してくれる、とくべつなモスなんです!コロナでもキューっとやって(無かったらやだな)、ここでハンバーガー食べてみたい~~~!!

それから、はちみつ(←好物)専門店のピービーズ、なんてのもあり、なんとコームハニー入りのどら焼きを売っていました。そりゃ買っちゃいますよ。この辺、食べものも充実してるんですよね・・・。

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上流付近まできてますが、ここらへんの大久保通りは両側に坂が見え、谷であることをひしひし実感します。このように、切り立った崖。

大体この反対側(左側)に、牛込城があったそうです。「神楽坂界隈」の考察によれば、ここは城の北側にあたり、この牛込川の谷が濠と急崖となります。今回城の周囲を撮っていないので、ここで一気に説明すると、城の南側も紅葉川の崖。西側は南町近辺を水源とし、南蔵院の弁天池に注ぐ沢に手を加えて濠にした形跡があるとのこと。東側は善国寺裏付近の崖で、”空濠ではなく湿地的な水濠の可能性”があるとされ、神楽坂の裏道にある熱海湯の通りを、この濠からの水が流れていたかもしれないとのこと。・・・ほんと、自然を上手に使うものですね。なんだか”牛込城のお濠にされた川たちシリーズ”でも書きたくなってきました。

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谷の地形が終わるところまで、きてみました。山伏公園という公園があります。ここらへんが、尾根の限界。そういった位置に公園があると「水源かっ?」と思うクセがついてきましたが・・・、しかし、史料によれば牛込川の水源は箪笥町の”箪笥町弁天池”なので、ここは違うのかもしれません・・・。

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引き返すと、路地にこういった、「ねぇ君、敷石なの?暗渠蓋なの?」という場所がありました。途中にひとつ、半渠蓋みたいなのが混じっているので、敷石にしてはあやしい!とおもうのですが・・・

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謎も残しつつ。夕ゴハンへ。
夜だったのは、ここに行こうとしていたからでした。神楽坂のおいし~いカジュアルフレンチ、ブラッスリー・グー
ここは超おススメです。雰囲気はあたたかいし、なんでもおいしいし。わたしは鴨肉が食べられないのですが、ここの鴨のコンフィだけは美味しく食べられるっていうすばらしさ!
店内、入ると客が全員女性、という、女子会がつぎつぎ行われる店でもあるようです。

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それからだいぶ戻りますが、食べ歩きたいときは神楽坂にいろんなもんがあります。ちょっと気に入ってるのがマンヂウカフェ、むぎまる2。

古民家改築型のカフェなので、2階席でお茶の間みたいにくつろぐのもいいし、こうやってマンヂウを買ってパクリ、もよいと思います。

こんなふうに、手作り感あふれる素朴なカタチで、案外大きい。これはなんだっけ、皮がよもぎ、具が小倉だったかなあ・・・ほかにもすてきなマンヂウがいっぱいあります。

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そんなこんなで今回の行程です。

史料たちによれば、大久保通りの谷が牛込川であることはたしかなようなんですが、その先、神田川へ至る最後のカクカク部分は、牛込川であるかもしれないし、なにか名のついた人工掘割かもしれません。ここももう少し知りたいところ・・・、ですが、紅葉川をねちねちと歩く編を、冬にならないうちに始めたいと思います。

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円筒分水Tリリース開始

ちょっと宣伝をはさみまっす。

マニアパレルさまの回し者ではありません(新宿のジュンク堂、わりと行くのに、マニアパさんのブースをいまだ見つけられていません。うひゃー。)・・・なんといつのまにやら、こんどは円筒分水Tシャツをつくっていらっしゃいます!円筒分水はわたしも好きなので(ってか山形の円筒分水しか追っていませんけどww)、うれしい商品でございます。

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なんとゼータクにも、フロントプリントとバックプリントがありますですよ!もし気になった方いらっしゃいましたら、くわしいことは、以下↓(まるうつし)

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【円筒分水T】リリース開始

丸く、公平で、美しい。それが円筒分水。

【円筒分水T】図案決定選挙に沢山のご投票ありがとうございました。
あまりの僅差接戦っぷりにWリリースを決定(勝手に)

今回はフロントプリント【A】とバックプリントの【B】
2種類のアイテムがあります。

Item*2   
半袖・長袖
Color*6  
【A】シルバーグレー・ブラック・ライトピンク(フロントプリントです)
【B】ホワイト・ネイビー・ライトブルー(バックプリントです)
Size*6  
XS|身幅43×着丈58  S|身幅48×着丈65  M|身幅50×着丈68
L |身幅53×着丈71 XL|身幅55×着丈74 XXL|身幅61×着丈82

完全受注生産となります。振込等は後で構いませんので
まずはオファーをしてください。
【A】【B】ともに10枚のオファーがあった時点で
製作決定とさせていただきます。

価格は半袖2000円+送料400円・長袖2800円+送料400円
例えば半2枚だと4800円/半1+長1枚だと5600円となります。

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と、こんな感じ。興味のある方、マニアパさんのところに飛んでみてください。
それと、暗渠Tが先日我が家に届きました。うれしいので、これもいずれ記事にしたいと思いまする。

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桃園川支流を歩く その37馬橋川たち②

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前回の続きで、かつて馬橋と呼ばれた地域を流れる、馬橋川群を追いたいと思います。

第3の馬橋川かもしれない、ルック脇支流(仮)から離れ、少し西に行くと、そこにも馬橋川とも呼ばれたことがあった、天保新堀用水があります。といっても今回は天保新堀用水をすべて歩くのではありません。以前歩いたとき、見逃していた傍流があるのでそれを追いたいと思います。天保新堀用水は、善福寺川から引いた用水路ですが、途中成宗にある弁天池を中継することは比較的有名です。しかし実はコッチ側にも”南の弁天池”なるものがあり、ちょうどその向かいに弁天湯という銭湯が今もあります。

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その銭湯の近くの飲み屋さんに、こういう貼り紙を見つけてしまいました。こっ・・・こわいぞ・・・!写真を撮るのもビクビクしてしまって、これは遠方からの望遠であります。

ちなみにこのお店の敷地、もしくはその後方に南の弁天池はあったようです。江戸時代の地図がわかりにくすぎて、確定が難しいけれど、前回の2つの湧泉のうち、ひとつはここなのかもしれません。

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その弁天湯のすぐ西に、天保新堀用水跡がわかりやすく遊び場となって長々と伸びています。しかし、その東西にもまた、流れがあったようなのです。まずは東側を流れに沿ってあるきます。ここは実は前回のルック脇支流(仮)との間にあって、それとつながっているのか、天保新堀用水本流とつながっているのか、よくわからない流れです。

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といっても、暗渠らしさはほとんど、ない。この道で見つかる暗渠サインといえば、遺構ではなく建物系ばかり。

まずは、この観賞魚屋さん。

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それから団地。

あとはえいはちさん仰る公共の施設的なものとして、児童館と保健センターがあります。湿地帯だったのかなあ、という雰囲気はあります。

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でもそんなに暗渠的にはパッとしないまま・・・、つぎは天保新堀用水本流のすぐ西の流れも見に行きます。こんどは遡りましょう。

庚申塚がありました。

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庚申塚の後ろは、遊び場18番でした。この写真だと、右側の緑地がそれです。この遊び場は持ち主がご厚意で提供してくださってるもののようです。

そしてすぐ左の道が、どうやら流路だったようです。遊び場との間にうっすら段差がありますね。

そして、この左側のブロックは、かつて”たかっつる”と呼ばれた、水田地帯だったそうです(”杉並の通称地名”より)。

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周囲の区割りには田圃らしさが残るので、”たかっつる”がどこまで広がっていたかは謎ですが・・・。右手の崖はちょっと激しくなってきます。崖の上には、杉並第六小学校。プールもコッチ側、この崖の上にあります。

この道の中ほどで、流路はやや左に逸れていき、道とは重ならなくなるようです。

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流路は1ブロック分追えなくなるので、回り道をしていきますが、その途中にとっても気になる木がありました。

まるくて大きくて、存在感がとてもある。気になる。けれど、わたしの立ち位置と技術じゃあ、ぜんぶ写りきらない。そのぜんたいの印象が、HONDAさんが練馬で撮られていた木とあまりにもソックリで、ちょっとびっくり。なにか大切な木なのでしょうか。

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天保新堀用水の西側の傍流はやがてにしはら公園に達します。にしはら公園の付近は、公園・駐車場・マンション、がならび、妙に車道が広く、車止めもがしゃがしゃあって、とても水っ気があるように見えます。

・・・傍流の始点近くまで来たので、今度はまた下って、下流部へ行きます。

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下流部にはまた公園がありました。

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それから、またも公共の施設。

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さらに下ると、合流サインがありました。あれーでも、自分が思ってたところよりずいぶん東に合流サインが出現した気がします。また別の流れ・・・?いやいや、要検討ですね。

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さて、帰ろうかなと高円寺駅に向かってあるいていきますと、宝橋があり、勝手に長い間気にしていたお寿司屋さん、宝屋があります。
・・・このときついに、宝屋でお寿司を買いました!お店に入ると、表と同様の良い雰囲気で、注文を受けてから店主さんがお寿司を作ってくださいます。この日、わたしはこのひとりぶんしか注文しなかったのに、嫌な顔せず丁寧に作ってくださいました。
そして、作ってくださる間、店名の由来をはじめ、ずっと気になっていたことをインタビューしてみちゃいました。店主さんは気さくに答えてくださり・・・、

・”宝橋”から取って”宝屋”(橋名が先)。
・創業は昭和30年。ココにやって来て店を開いた。当時は桃園川は開渠だった。
・最初の5~6年は桃園川が氾濫して大変だった。ここが一番低いので、水が腰まで来てしまう。もっとも困ったことは、水が溢れると水圧でガスが止まってしまうこと。(寿司屋なのに)ご飯が炊けないのは、本当に困ったよ。
・水道もここが一番低いみたいで、水道は他が干上がっても出たくらい。そんなときには皆汲みに来てた。
・むかしは都電もあって、ルック通りは通勤路だったので、ここも忙しかった。最近は皆店を閉めてしまい、さみしいことだ。

・・・いろんなことがうかがえましたが、聞いていてちょっと複雑な気持ちにもなりました。このルック商店街は、いつもたくさんの店が並び、若者で賑わう通りです。しかし、実はお店の交代もはげしくて、たまに行くと何軒も変わっているというありさま。中腹にあるレトロパン屋さん(甘食やシベリヤを売ってた)がわたしは好きだったのですが、それもいつしか閉店してしまい・・・この店主さんからすると、ルック商店街は”どんどん店が減ってしまう”という感覚なのかもしれません。

それから、桃園川に対する想いは、苦々しいかたちで語られていました。わたしが「開渠のとき、水はきれいでしたか?」と素朴に聞いたら、ただただ「いや、いやいや~(そんなわけ、ないじゃないか。)」と笑っておられ、上述の氾濫のおはなしのときには、とてもとても苦い思い出を語られるようなそぶりでした。暗渠になって、良かったですねぇと、思わずわたしが洩らしたほどに。
きっと、桃園川で魚をとって遊んだ方々とは、また違う感覚がおありなのだろうな。と、思います。ちょっとの時間だったので、もっといろんなエピソードや想いを聞き逃しているとも思いますが。

そんなこんなで、持ち帰った宝屋さんのお寿司は、ぬくもりを感じるおいしいものでした。とくに、茶巾寿司がとても良い!栗、ぎんなん、しいたけ、蓮根、etc・・・、たくさんの具が閉じ込められていて、お味も丁度良く、ひとくちひとくち、とてもたのしいのです。

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さて、子どもの落書きのようになってきた略地図を御披露。
今回は黄色部分をみています(本流はのぞきますが;)。

ちなみに、もうひとつの馬橋川と呼ばれていたかもしれない流れ、馬橋稲荷支流(仮)はいちばん左端にちょこっと出ています。ここはかつて歩いたので割愛しますが、ケロキ師の情報によると、”西窪 稲荷川”という別称も持っているようです。

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桃園川支流を歩く その36馬橋川たち①

桃園川の大支流のひとつ、天保新堀用水にはさまざまな別称があり、たとえば弁天川、馬橋川、などとも呼ばれることがあります。そしてまた、馬橋川、と呼ばれていた川が他にも何本もあるらしい(たとえば馬橋稲荷支流(仮)もそうらしい)という、なんだかややこしいことが高円寺では起きています。(田圃の用排水のため、2本構成になっている川はわりとあると思いますが、この馬橋川に関してはもっとあるようなんです。)
ちゃんとしたまとめはまだできていないのだけれど、とりあえずその”馬橋川群”を見にゆこうではないか。と、馬橋に向かうことにしました。

「馬橋村史」を改めて読んでみると・・・かつて青梅街道の北(阿佐ヶ谷寄り)に湧泉があり、田端村からの湧泉もともなって「蕎麦窪」から2派に分かれて東流し、付近の水田を潤し桃園川に注いでいたそうです。この湧泉が1839年の旱魃によりほとんどでなくなってしまったことから、天保新堀用水の話しになるのですが・・・、このもともとの自然河川は、馬橋川のようです。それにしても、蕎麦窪、かぁ。いつか蕎麦窪で蕎麦食べてみたいなあ・・・(うっとり)。蕎麦焼酎でもいいな。

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馬橋川に早く行きたくなってしまいましたが、そのまえに、高円寺駅すぐ近く、長仙寺(エトアール通りの北にある、西友の向こうにあるお寺です)にも湧水があったようなので、長仙寺に寄りました。

境内にはこのように大きな池らしき空間があって、崖というか段差というか、ともかく水が湧きそうな地形ではありました。

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斜面の中腹に水(水道水だろうけれど)が出るようなところがあって、下の池へと流れていくように見えます。しばらく水は流れていないようでしたが。

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しかし、水が流れているときもあったようで、池の端っこから下水管が伸びていて、このように出口から排水されていくのでした。

この下水の出口のむこうがわには、

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コインランドリーがあり、その先に西友があり、エトアール通りがあり、

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その先に桃園川があるのでした。延長線上に合流サイン(タイル)もありました。しかもこの合流サインは、両側から出ている豪華版です。

両側!じゃあ、いまの短い流れ(長仙寺支流(仮)とでも呼びましょうか)のすぐ反対側に、今回目指す馬橋川群のひとつがあるのかも。

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見上げてみるといきなり暗渠感のない道になってしまいましたが、ひとまず、遡ることにします。

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ここは、ルック商店街のすぐ西の道です。ちょうどその、ルックのすぐ西に、桃園川探検隊さまの地図では1本流路が描かれているので、それを探したいわけですけど・・・暗渠らしさはまだないですね。

これが暗渠ならば、天保新堀用水、馬橋稲荷支流(仮)につぐ、第三の馬橋川とも呼べるかもしれませんが(←でもここは不確かだしテキトウw)、ここではわかりやすく”ルック脇支流(仮)”と名付けたいと思います。

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道はずっと続くのではなく、1ブロックぐらいずつでぶつぶつと切れます。それを、回ってはたしかめる。ここまではあまり暗渠感がないですが、ここで初めて車止めの道が出現しました。

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そして車止めの道の上流もあんまり暗渠サインが無いので、がまんして歩くと、お!ここ、駐車場の地面がちょっとヘン!!

コンクリ蓋じゃあないんですけど、敷石かもしれないんですけど、ちょっと暗渠の匂いがします。

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そしてその、ちょっと怪しい地面の延長上には、もっと怪しい空間がありました。

ここはコンビニの奥なんですが、コンビニのゴミ箱がずらっと並んでいて、その後ろにこんな細長い空きスペースが。空きスペースの隣には物置が。これは暗渠指数かなり高め!

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さらに南へ行くと、ルック脇支流(仮)の表通り側には、クリーニング屋さんが2軒並んでいるという!
実はむかしこの通り沿いに住んでいたのですが・・・2軒並んでるなんて気付かなかったなあw

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桃園川探検隊さまの地図だと、そのクリーニング屋さんのあたりで流路が止まっており、「ルック通りにカクッと曲がる」のと「ルックの反対側に折れて、桃園川に戻っていく」の2バージョンありました。

が、現地を歩いてみると、このようなコインランドリー(ここは銭湯跡っぽい)があったりと、もう少し南まで来ている可能性がある・・・もしかしたら、青梅街道から分流している可能性さえあるでしょう。ちなみにこの近辺にオー○リーの春日が住んでいるというので、ここも使っていそうな気がします。

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といっても、痕跡がなさ過ぎるので、非常に探しにくいですが。とりあえず、このルック脇支流(仮)は、中流部あたりに痕跡が僅かにあります。辿って楽しい感じでもないけど、ルックで買い物される際には覘けますw

さて、ゴハンゴハン。ほんとは牛乳ラーメンの素晴らしさをご紹介したかったのですが、朝ご飯が遅すぎたので、あっさりめのランチにしました。バーボンタコスカフェでタコスランチ、スイカの生ジュースつき!

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テラス席でのんびり食べてました。すると、お向かいのけっこう気に入ってる和菓子屋さん、吾妻屋のシャッターが閉まってて、なんか書いてるー!まさか閉店じゃないよね・・・見てみると、お休みなだけでした、よかった。
団子や海苔巻を買い食いしたり、あんみつ(小さめで安価で、バナナがのってたりして素敵)をたべたり・・・、良い店なんです。

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このとき初めて気がついたんですが、ルック通り沿いには染物屋さんもあったようです。へぇ~!
商店系暗渠サインが目白押しの上流部でした。

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で、尻切れトンボ的になっているルック脇支流(仮)の着地点をさがしたくて、高円寺南三丁付近をウロウロウロウロウロウロしましたが、もはやなにも見つけられませんでした。こんな、変わった車止めくらいです。用水路の可能性もあるだろうけど・・・いずれにせよ、決め手に欠ける結果となってしまいました。ルック脇支流(仮)めー。。

それらしき史料にもまだ出会っていません。これから、ですねぇ。

Lookmap 今回の行程はこうです。ルック脇支流(仮)もはっきりしていませんが、点線部分はもっともっとはっきりしないです。

次回も馬橋川群のつづきの予定。

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桃園川支流を歩く その35水車坂とその水源② 

最近、鬼のように虫にさされ、足が水玉模様になっております(ホント)。暗渠をたどるものの、宿命なのかもしれませんが、それにしても刺されすぎる・・・。

さて先日、桃園川を愛でているひとたちで、西町天神ウォーキングをやりました。すでにあれこれ調査をされ、付近に住まう方々にコネクションもある方が主催されたので、ふだん一人では行けないようなところに行けたりして、大感激!今回は、その記録をば。

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高円寺にあつまり、桃園川をあるいていって、高円寺東公園へ。わたしが光塩女子学院と認識していた場所=メルセス修道会脇がこの公園です。この公園は、もともとは地域の有力者である浅田氏(浅田味噌の)の別荘で、戦後メルセスが買い、その後区に譲ったのだそうです。邸宅があったというと、池を想像してしまいますが、かつては築山が2つあっただけとのこと。

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こっちは、メルセス修道会の内側です。向こうに広がる広場はかつて池で、手前の松のあるところが池の中に浮かぶ島、通称亀の島です。この池は大きなボートを浮かべることができたほど広かったという人、いやいや小さなものだったという人、両方いらっしゃるそうです。
シスターの話によれば、この池には大きな鯉がいて、旱の年に死んでしまったということがあったそう。
残念ながらメルセスの池は、昭和62年以前に埋められてしまいました。

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これは修道会の玄関脇の植え込み。ここに、以前植えてもいないのに菖蒲が勝手に生えてきたそうです。きっと池の周囲に生えていた菖蒲の根が残っていたのではないか、と言っていたのだそうで・・・、なんだか良い話を聞いた気がします。

それにしても”メルセスの池”って、響きがめちゃめちゃカッコ良くないですか。

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ここは、メルセスから坂を上ってすぐのところにある、いこい公園。ここにはかつて 家が二軒建っており、共用の井戸があったそうです。ここは台地の上のほうですが、ほか、メルセス北の台地にも立派な井戸があったそうで、いずれもそれほど深くなく、ここらは水が湧きやすいことがわかります。

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ただの壁ですいません。ここは、いこい公園から道を下ってきたところで、かつて沼たんぼだったという場所。手前から奥に向かって崖があるんですが(見えない)、かつてはここから下に向かって石垣があり、その下に湧水池があったのだそうです。2箇所から目に見えてプクプクと水が湧き、とてもきれいで、つめたく美味しい水だったということです。
この近くにお住まいの方は、その池で野菜を洗い、やかんで汲んで料理に使ったとのこと。わたしたちがウォーキングで通りかかると、その方が家の中からご挨拶をしてくださり、なんともあたたかな交流です。

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これはさきほどの壁と同じ敷地の、建物(ここを掘るときもかなり沢山の水が湧き、止まらなかったそうです)を挟んで反対側の壁ですが、奥から手前にやってくる隙間の感じが、かなり暗渠っぽいです・・・ここにも一筋あったのではないか、そして、石垣からの湧水と、この細流をあつめ、

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その流れは区境を通って桃園川に注ぐのでは、と一行で推測していました。

ここはその、杉並と中野の区境の道です。桃園川に向かっておりクネクネとしていて、たしかに暗渠の香りがしました。・・・いままで、気づかなかった・・・。もう一本西側の道に、銭湯があって史跡散歩地図上では暗渠のマークがあったので、わたしはそちらだけを見てしまっていました。

ちなみに上述の細流2つのほか、メルセスの池からの流れもきていたのではないのか?と、思いたくなってしまいますが、Aさんの調査によると、メルセスの池からの流れは無かったそうです。自然に地下に浸透していったのだろうとのこと。

さて、さて、一行は桃園川をつたって歩き、西町天神支流(仮)を遡ります。Nakano7

これは、以前西町天神支流(仮)をあるいたときに、脇にあるマンションの敷地から、腕を伸ばして撮った写真。この支流はほぼ全区間、入ることができないのです。今思えばずいぶん無理な姿勢で、不審者な感じだったよな~、と思うのですが・・・、桃園川を愛でる方々のちからをもってすれば、ここに合法的に入ることが可能になったのです!!

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このとおり、同じところを撮ってはいるのですが、なんともゆったり、余裕の姿勢でしゃがんで撮れるんですよ(涙)。

まさかここに立てる日が来るとは・・・感動もひとしお。他のみなさんも感動されていたようでした。

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だってここ、ぜーんぜん入れないので、かくれんぼ支流とあだ名をつけたくらいですからね~~。調子に乗って、もう少し下流まで行きます。ああ、夢のようだ。

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さらに調子に乗って、木々をかき分けて下流へ・・・行こうとしたら、木々のあいだにおびただしい数の蚊が!!何十匹!?うへぇー、無理だぁー。と、しりごみしていたら、ザクザクと進む、勇敢な暗渠のひとたち。

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そしてもうちょっと上流部へまわります。以前来たときは、このむき出しのパイプを見て、ワイルドだなあとしか思っておらず、ずいぶん考えの浅い人でした。このパイプは川筋とは逆向きに設置された、屋根の雨水をむりやりコッチ側に持ってくる排水管だ、と、他の方が推測されてました。無理やり土を盛り不要なモノを置きまくった空間でもあり、そういう、”いろんな意味で強引な空間”だったのですね、ここは。

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そのもうちょっと上、ほぼ上流端です。ここに地元の方がいらして、お話しをうかがうことができました。

その方いわく、ここには大体30年前くらいまで、開渠があったそうです。そしてその流れは、青梅街道から来ていた、とのこと。以前考えていた、六ヶ村分水の中野坂上延長説に、初めてリアルな根拠が得られたことになります。

以前調べたさいには、この流れの水源は、だいたいこの写真のあたりにあったらしい”弁天池”という湧水池だと書かれた資料もありましたが、それは昔の話で、いつ頃か涸れてしまったのかもしれません。その既にできていた谷筋へ、六ヶ村分水を延長した青梅街道沿いの用水路から分流させ流し込み、付近の田畑を潤すために使ったのではないか。・・・そしてそういう想像を、自分だけではなく暗渠や地元に詳しい方もされていて、なんともテンションが上がりました。

地元の方の興味深いお話しはもっともっと続きます。
開渠だった頃、その方が田圃(たぶん成宗や大宮の方の)でおたまじゃくしを弁当箱に詰めて帰ってきたら家人に怒られ、仕方なくここ(西町天神支流(仮)の上流)に放したら、カエルだらけになってしまったこと。
暗渠になったあと、男の子たちは水路に潜って遊んでいたこと。
天神さまの裏は、怖いくらいに木がいっぱいのところで、玉虫がいっぱいいたこと。

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西町天神の入口側は奥の敷地よりも少し低くなっていて、このような防火水槽があり、なにもない長方形の空間があります。これを見て、ある方がかつてはむき出しの防火水槽があったのではと推測されていました。湧水を使ったか、青梅街道の用水を引いたかはわかりませんが。言われてみれば、田舎に現存するプールみたいな防火水槽によく似ている雰囲気の場所です。

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ここは、西町天神と道路を挟んで隣り合う土地。さきほどお話しをしてくださった地元の方によれば、このあたりにプールがあったのだそうです。
西町天神支流(仮)、防火水槽、プール・・・このあたりは、かつては水の豊富な場所だったのです。いまはなにひとつ表からは見えませんが。

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西町天神にある井戸も、はじめてマジマジと見ました。良く見ればとても立派な井戸です。周囲にあるぴかぴかのバケツや洗濯物を見ると、いまも立派にお仕事をしているということがうかがえます。

さて、一行は水車坂へと向かいます。西町天神支流(仮)を下り、昭和浴場の東側を通って、かう志んばしに向かう途中に、かつて水車がありました。水車は青梅街道沿いのお米屋さんの所有で、ここらが田圃だった時代は、尾根に建つお米屋さんの店舗から水車はよく見えただろうとのことです。

Nisim17 わたしは水車は中央西公園支流(仮)中にあるもの、と認識していましたが、実は水車を回していたのは西町天神支流(仮)の下流部。つまり中央西公園支流(仮)は、西町天神支流(仮)と同一のもので、わたしが流れを逆向きに解釈していただけでした。あほだなー!・・・わかりにくいので、最後に地図つきで説明します。

さてその暗渠、最近工事でコンクリ蓋が一部なくなってしまいました。この写真は砂利道になってしまった暗渠の、その奥をながめたところです。こっちにはコンクリ蓋が残っていました。

ここをながめた後、水車坂下にお住まいの、理容室の方からお話しをうかがいました。その方は”中野駅前を掘ったときの土はいずこへ?”の話もしてくださり、それによれば、遊び場79番、および隣にあるマンションなども含めた場所が以前は湿地帯で、トロッコで大久保通りに沿って土を運び、埋めたとのことでした。

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水車跡、ふたたび。車庫が水車跡地で、そのすぐ左を暗渠が通っています。そしてもうひとつの流れが、水車の右側からも来ていて、水車を回していたと考えられます。”合流する勢いで”水車が回ったと記す資料があったものの、この右側の流れをわたしは謎に思っていました。崖上にある中央西公園が、大正末期~昭和10年代半ばまで土屋子爵邸だったことから、庭に池でもあり、そこから?などと勝手に考えていたものですが、ケロキ師持参の公図ではこの右の道にも水路表示があり、また、これも青梅街道から引いた細流ではないかとの意見が出ました。納得のいく推測です。このウォーキングで知恵を寄せ合ったことで、出たものです。ワクワクします~~。

そして流れは、藤の湯の東を掠めてかう志んばしに至ります。かう志んばしの少し手前、わたしが流路がわからなくなったエリアがありますが、そこは道路に土が盛ってあり、もしかすると駅前の土がここにも使われているかもしれません。

これでかう志んばしまでの流れを、ようやくつなげて理解することができました。桃三の冊子によると、かう志んばし付近において、”川では、おなかの赤いかえるをとり、焼いて食べました。また、どびんというびんを夕方しかけ、朝何かとれたか見に行きました。よくめだかがかかっていました。”こんな遊びを子どもたちはしていたそうです。おとなは野菜を洗っていたそうだし・・・、ますますイメージがふくらみます。

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さあ、そして一行は中野駅へ歩いていきます。桃園川からやや北にある、しんどうの池、の跡も見に行きました。味噌maxさんの携帯で、大正期におけるこの写真のあたりを見てみると・・・手前の建物のあたりは、がくんと谷頭になっていて、そこに池がありました。いまじゃ痕跡もないけれど、「ミニ谷戸!」「おー、ここに池!」などと、大興奮です。

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そして地下の蕎麦屋さんでご飯を食べて、解散。中野駅前の地下、ってーと、むかしはもんのすごい地中深く、てことになるんだなあ、なんて思いつつ・・・。

そして、解散後も適当にうろうろして、そして最初に通った桃園川緑道で出逢った、チビ猫エリアに舞い戻ってしまいました。いやぁぁ、メロメロになってしまって・・・そしたら、朝は2,3匹だったチビが、なんと7匹になってました!!!!!ふえすぎ!いま写ってるのでも6匹。しかもみんな結構人慣れしてる・・・。すばらしき猫スポットですよ、これは。

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・・・実はもっともっといろんな発見があったのですが、今回は桃園川支流の話に絞りました。なお、このウォーキングの様子を、味噌maxさんも報告されています。

今回の行程中、西町天神支流(仮)は、こう。上述のように、流路の向き間違え、という恥ずかしいミスをしていたわたくしですが、今回はちゃんと説明します。
まず、青梅街道沿いの用水路から分流された西町天神支流(仮)は、黄色の点線のところを流れます。開渠時代は昭和浴場の東を通り、緑色の点線部分を通ってかう志んばしをくぐり、桃園川へ注ぎます(後日追記:昭和8年時点ではそうですが、もっと以前はこの流れこそ桃園川本流でした。また、明治期には灌漑用水路が張り巡らされていました。)その途中で、水車坂をまたぐ際に、青梅街道沿いから分流されたもう一つの細流(水色部分、これは推測を含む)と合流し、水車を回します。
しかし、ケロキ師持参の公図をみると、暗渠化された後下水管は付け替えられ、現在は西町天神支流(仮)暗渠の下流は、昭和浴場の西側を通って大久保通りへ向かい、桃園川緑道下へと注いでいると推測できるそうです(水色部分)。
桃園田圃の名残か、付近には他にも暗渠らしき道がありました。・・・いやー、ずいぶんとたくさんのものを得た気がします。主催のAさま、参加されたみなさま、ほんとうにお世話になりました。改めて、どうもありがとうございました!

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竜閑川焼酎マラソン

竜閑川に行かなければ。

以前、竜閑川沿いで今川焼を食べた的な記事を書いてますが、じつはこのとき竜閑川の位置を大きく間違えていました。間違えていたので、風情のない大通りだと思っちゃってたのですが、先日のスリバチ飲み会で、会長やSさんが「竜閑川はとても良い」と仰っていたので、・・・ムム、コリャ自分間違えてるな、と思い至ったわけです。
ということは、竜閑川に、行かなければ。

そして、わたしの中ではいつのまにか、このことが、先日の「生ホッピー飲んでないな」と、なぜか脳内リンク。素晴らしき飲兵衛本、中央線ホッピーマラソンで大竹氏がやっていることを、暗渠でやったらいいではないか!と、思ったのでした。要するにパクリなんですけどw

しかし、浜町川のことも思い出してみると、わたしに竜閑川のハードコア飲み屋(+入口から中が見えない/常連さんで一杯/情報皆無)にひとりで入る勇気があるだろうか?・・・いや、無い。ここは、男手を借りよう。それと、なるべく酔いにくい焼酎で行こう(弱気)。
・・・と、いうわけで、lotus62のアニキに、企画書を提出してみることにしました。

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企画名:竜閑川焼酎マラソン

企画コンセプト:竜閑川の埋立てられた掘割沿いを歩きながら、飲み屋を飲み歩く。遺
構が少ないが飲み屋は建っている、下町系暗渠に対する新しい味わい方の提案。

企画概要:竜閑川沿いを逸れずに歩きながら、適当な飲み屋を何軒かはしごする。そこ
で、メイン走者は、掲げた種類の酒を1杯は必ず飲むこと(今回の場合は焼酎)とし、
伴走者はそれに限らない。つまみは自由。竜閑橋スタートで、神田ガード下近辺で一軒
、美倉町、岩本町あたりで一軒、小伝馬町あたりで一軒。とにかく、目についた雰囲気
の良さそうな店に入る。酩酊状態で馬喰町から帰る。

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わたくし企画書なんて無縁の業界で働いております。書き方等々はむちゃくちゃかもしれませんが、とりあえず、今回のメイン走者自分、取材報告者自分、ってことで企画書が通ったので、実行と相成りました!よりによってお仕事ダブルヘッダーつづきの、一番疲れている火曜日の夜に・・・。

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まずは、神田駅から日本橋川の方まであるいていって、分流されている点(=始点)をめざします。
その付近は広場みたいな空間になっていて、竜閑橋の遺構がひっそりと置いてありました。

これは竜閑橋と、その上にそびえたつ古めのビルを見上げたところ。ここが、スタート地点です!最初この写真の隙間が区境(=竜閑川)かと思って撮ってましたが、間違いwこの左にセマめの道があって、そこが区境でした。

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いきなり入口で迷ってしまいましたが、さぁ、マラソンスタートです。わはー、なんて地味な風景!

こっから流末まで、とにかくあるきながら、飲み屋さんを探して、探して、吟味する。飲む。これだけ。
それが酒マラソン。

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さて、最初に見えます給水地点は、いきなりのガード下ハードコア☆エリア。その名も今川小路です。

道にせり出すようなつくりの、小さなお店がぎゅうぎゅうとならび、うち数軒には明かりがともり、カラオケの音が聞こえます。いやぁこれは、ハードルが高すぎる・・・!

あえなく、給水断念です。っていうかここも、川跡だったのか~!などと、川のことももちろん考えますよ。

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もっとも風情のある地点での給水をあきらめたのは、若干もったいなくもあったのですが、大丈夫、すぐまた良いエリアがきます。
ガード越えてまもなくやってくるのは、ラーメン店3連星。いやいやいや、ラーメンは好きだけれどもさ、いきなりつけ麺でおなかいっぱいにするってのは、マラソンランナーとしてどうなのさ。

注:ホッピーマラソン的テイストが文章に混じります

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そこはぐっとこらえて、数歩踏み込むと、なんとまあ素晴らしい雰囲気の一角!!今川小路並みに素敵です。この、取り残された昭和、みたいな味わいは竜閑川跡の魅力ですね。

かなり良い店構えのお店はとんかつ屋さん。いやいや、のっけからとんかつでお腹いっぱいってのもどうよ・・・。そのお向かいには新しめのバー。いやいや、今日のコンセプトにちょっと合わないよ・・・。

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というわけで入ったのは、居酒屋”Sんどう”。”秋田料理””天ぷら”とも書いてあって、入口は意外にもスナックみたいなドア。しかも中が見えないドアで、開けると中には常連さんがビッシリ!やー、ここは一人じゃ無理でした。
さっきとんかつをやめたというのに、うっかり天ぷらを頼みそうになりますが、はしご前提なんだからと回避して、lotus62さんが頼んだのはなぜかアナゴの白焼きを2皿のみwwなぜ2皿w でもって、わたしゃチューハイです。ほんとは、トイレ休憩をなくすために今日はロックだけで行こうと決めてたんですが、出鼻をくじかれました。
・・・疲れたからだに、チューハイをぐびり。むはぁ、しあわせー!!
何だったか忘れたけど突き出しもおいしかったし、雰囲気も良かったし、ランチの天ぷら定食は安ウマみたいだし、良かったです、”Sんどう”。ランチにも来てみたいなあ。

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そして今川橋跡を渡ります。以前今川橋だと思っていた場所は、間違っていたことを改めて実感します。
ほんとの今川橋跡には、ヘンな池があり、ここに今川橋があった的な碑がありました(暗くて読めない)。ヘンな池よばわりはいけませんね・・・ここに川があったことを示すものは数少ないそうなので、貴重です。金魚がいます。
ちなみに以前、今川橋の近くで売られていた菓子→今川焼、の記事を書きましたが、神田上水をつくった大久保主水の屋敷もここら辺にあったそうです。大久保主水はお菓子作りが趣味だったことから、菓子職人に転身したというすごく気になる人物(家康に手作りお菓子をプレゼント、とか)ですが、お!それと今川焼は結びつくか??と思いきや、「町人に菓子は売らぬ」と言っていたということで、結びつかないようです。ちっとヤな感じですねぇ。

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今川橋からちょっと行ったところにも何軒か飲み屋さんがありました。さて次なる給水地点は、”I駒菜館”、中華です、餃子です!ここの餃子、気のせいじゃなくってホントに美味しかったです!!
通常ならビールを合わせますが・・・マラソンランナーなので、ここでスダチ酎ロックですよ。うわぁ。
いや、美味いです、どっちも。スダチ酎は一時期ハマってよく飲んでました(家で)。なつかしいな~、美味いな~。
どうでもいいけど、餃子のたれがたまたま陰陽のマークみたいになってますね。

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しかし、たまたま入ってるだけなのに、ふたつともとても良い店だったなあ。うれしいです。

もう少し歩いて行くと、こんどは地蔵橋児童公園と竜閑川埋立記念の碑がありました。
橋!埋立記念!ただの酒マラソンじゃないってことを思い出します。

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高速?をくぐり、向こう側にもまた公園があり、そこには八丁堀と書かれた案内板がありました。・・・ん?八丁堀?
杉浦康著「消えた大江戸の川と橋」によれば、竜閑川は明治16年に掘り直されたもの。もっとむかしの江戸期に、同じ位置に運河として堀が掘られ、それは”神田堀”、別名”神田八丁堀””本銀町川””銀堀”などと呼ばれていたそうです。元禄以前からあったようだけれど、運河としてはあまり使われず、漸次幅を狭められていって、ついに安政4年(1857年)に埋立てられてしまいます。

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その埋立てられた神田堀が、先述のように明治期に再び復活、もともと神田堀の西の外れに架けられていた竜閑橋(当時の地名が由来)から、竜閑川と名付けられました。
岩本町東神田町連合会で出している「変わりゆくあのまちこのまち」によれば、この堀は竜閑川時代には材木の運搬が行われ、物流の動脈となっていたようです。・・・が、終戦後に埋立てられたとのことです。

しかし、道が地味になってきたなぁ。雰囲気は相変わらず、ちょっと周囲よりも置き去り感があり、、、思い出したように神社が2つ。ふるい家がポコンとあって、その昔風の意匠に見とれたりします。後から知りましたが、ここらへんには江戸期に牢屋敷があって、逃亡を防ぐための堀の水を神田堀から引き入れていた、とのこと・・・コワイ場所でした;

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さて。神田駅前とちがって、飲み屋さんが減ってきているので、そろそろ、見えた店に飛び込んだ方が良さそうです。つぎは四川料理の”T来”。

この麻婆豆腐がまたウマーい!!なぜか麺も少し入ってる、ピリッとしたおいしい麻婆。調子にのってライスを追加し、麻婆豆腐ごはんと、水餃子を交互にかっこみました。ウマーい!
合わせたのは、もうなんだか忘れたけど何らかの焼酎のロックです。もう焼酎だったらなんでもいいんですよ。えーと、気づいたら他にお客さん誰もいなかったんですが・・・、でも良いお店でしたよ。満足満足。

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さ、公園につきあたったら、そこが浜町川との合流点です。その名も、竜閑川児童公園。以前もこの脇を通ったわけですが、なぜか夜なのにけっこう人が居て、おしゃべりが聞こえる公園です。
よく見てみると、川と橋を模した空間がありますね・・・

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公園から竜閑川をふりかえると、そこにはちょっとよさげな洋食屋さんもありました。入ろうかと一瞬迷いましたが、ラストオーダーを過ぎていたようなので、止め。

浜町川沿いの、橋本会館のあたりもちょこっとあるきました。店は概ね閉まっていましたが、一軒、明かりのともっているシルバーアクセ屋さんがあり、なぜか駄菓子を売っていたので、買いに寄りました。店内にはアクセ制作中のおじさまが3人くらい世間話をしながら並んで座っていて、わたしがさささっと駄菓子を10個ばかし選んで「これください」と言うと、声を合わせて「早っ!!!」「男らしい!!」とびっくりされました・・・なんじゃそのツッコミw 夜の神田にあんな店があるっていうのも、とっても不思議です。酔っぱらって、狐にでも化かされたのでしょうか。なんだか幻のような店でした。

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事実、疲れていたせいか結構酔っぱらってしまいました。ふだんの飲酒量からみてもまだ少ないし、まして焼酎でそんなに酔うことはないわたしなのですが。。
とりあえず酒を追加するのはもうやめて、馬喰町あたりで、クールダウン用のおやつを食しました。キャラメル味のムースかなあ、この見た目は(あまり記憶が無い)。アイスコーヒーとともに。
ここで、ゴォーーール!と相成ります。

以上で暗渠酒マラソン、第一回目のレポートを終わります。ちょっと気に入ってしまったので、この企画、今後もやりたいなと思っています。そして、

①我こそはメイン走者をやりたい、という方(川と酒の選択はお任せ可能。ソフトドリンクもアリ!それと、もちろんご自分のブログでレポしていただいてOKですが、その方を主人公にしたレポをわたしも書かせて頂きますw)
②我こそは伴走者をやりたい、という方(要するにオフ会の変形版みたいなもんです)
③マラソンはしないけど、このお酒を飲んでほしい・この店に行ってほしい・この暗渠でやってほしい、というリクエスト

この①~③について、大募集いたします!どんなカタチでもいいので、参加してみませんか~?ぜひぜひ、よろしくお願いします。 
ちなみにわたしは大酒飲みではないし、酔うとあばれたり面倒くさくなったりするタイプではありませんので、ご安心くださいましw

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桃園川支流を歩く その34阿佐ヶ谷の貯留管工事見学、それから、それから。 

あるとき阿佐ヶ谷駅前にできた、おっきなおっきな薄緑いろの、四角い箱。
なんだろな~?と、さんぽしながら、電車の中から、駅のホームから、ついつい見ていました。その四角い箱には、もともと説明の文章が書いてはあるのですが、わたしは気にはなりながらもそれ以上掘り下げず、むかし阿佐ヶ谷駅前の位置には池があったという話もあることだし、いつか相澤堀の続きを記事にするときに、適当に関連付けて書こう~くらいの、適当なノリでおりました。

そこへ、ちょうどその箱の中を見学できますよ~という、ものすごくうれしいお誘いが!!いただいた時間のうち、おしりの方には用事が入っていたので、途中抜けをしてしまいましたが、すこし早く行って、阿佐ヶ谷の桃園川支流を見たりしていました。

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まずは、北側支流(仮)の上流部分。わたしは、なぜか病み上がりに半分だけ辿る、というすごく中途半端なことを過去にしていますw

ほんじつは、残りを攻めましょうということで。リバーサイドさんも記事にしておられますが、ここが辿れる北側支流(仮)の始点です。

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これは天沼川の蓋暗渠終点。桃園川探検隊さまの地図だと、この流れが弧を描いてさきほどの北側支流(仮)始点に合流しています。
目で追っていくと、ちょうど、その弧を描くはずの位置に建っている家の壁もカーブしています。

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北側支流(仮)に戻りましょう。雨上がりということもあって、ずいぶん湿った空気ですが、もともとここの地面は苔が多く、湿っていそうでした。

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ぼうっとあるいていると、視界の片隅に井戸が見えました。
・・・わたしはとても目が悪いのですが、コンタクトは痛くてつけられない・眼鏡は似合わないのであまりかけない→その結果いつも視力が低いまま、さんぽをしています。ところが、井戸のたぐいはレーダー機能搭載なのかわりと見つけられて、この日も我ながらびっくり。

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そして北側支流(仮)の、以前ちょこっと見て「憩い暗渠」と思ったところへ達します。

ここにだけ、木を挟んで椅子が二個ありました。ガーデニング充実の、すてきな椅子です。しかし、座るには少し勇気が要ります。

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あとは、すでに紹介済みのところばかりあるきましたが、この時期だからこそ見られる、すてきなものもありました。

ここは桃園川本流のやや北にある、卯の木遊歩道と書かれたところ。蓋暗渠をたのしんでいると、向こうにふと、オレンジ色の敷き物みたいなものが見えます。

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それは、なんと金木犀のじゅうたんでした!!

わたしはもとから金木犀が大好きなんですが、こんなじゅうたんは見たことがありません。しかも、桜吹雪のごとく、上から舞い散ってくるのです。
すごく良いにおいのする、うつくしいじゅうたん!!

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それから、もうひとつ。これもまた阿佐ヶ谷に在る、河北総合病院の前に出てくるコワイ蓋暗渠なのですが、終点部分が空き地になっていたので、こうやって途切れた暗渠を見ることができました。
リバーサイドさんの記事では、ふるい家が建っていたと思われる位置です。

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こうやって、断面までしげしげと見つめることができます。

いつ、何が建つかわからないわけなので、これもいまだからこそ見られる光景かもしれません。

・・・でもこの途切れ方、って、何・・・?ここってつながってるんじゃなかったの?と、疑問が増すものを見てしまいましたw

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で、そろそろ集合場所へ行こうかな~と、あるいていると、また井戸(隠された井戸w!)が。
やっぱり何度でもあるいてみるものですねえ。

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で。きょうのメインイベントは、こちらでございます。

(阿佐ヶ谷ジャズストリートもお忘れなく~~w)

この箱の中に、入れるのです~~(要予約!)。中には工事現場の方がいらして、丁寧に説明をしてくださいました。

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まずは工事の概要を(写真撮影の許可を頂いてます)。阿佐ヶ谷駅前一帯は地盤が低く、ここ50年で数回浸水しているそうです。そこで、もともとある下水管が集中豪雨などに耐えられないときのために、雨水を溜める下水道管(貯留管)をつくる工事をするのです。その貯留管は、このイラストのように中杉通り地下に埋設され、雨水を取り込む立あなが南と北に1つずつ設けられます。つなぐ先は桃園川幹線なので、それだけでも興奮!
工事の際の騒音を防ぐなどの目的で、この緑のでかい箱(=防音建屋)はあるのだそうです。

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さて、地下にある工事現場へ・・・は、入れませんでした(涙)。工事中で、危険みたいです。

でもこうやって、眺めてるだけで、「タモリ倶楽部みたいでたのしい!!」と、興奮します。地下モノだし!

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これが地下トンネルの入り口です。
シールド工法で掘り進め、立あな2つと、横のトンネルを1つつくるのです。

横のトンネルは徐々に傾斜させ、桃園川幹線方向へと水が流れるしくみです。

流れた水は、晴れた日に桃園川幹線に取水され排水されます。

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掘ったら当然、土が出てきます。その土はこのクレーンでもって移動させ、

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この土砂ピットに溜められます。

みてみると粘土っぽい土が溜まっていました。この土は、トラックで千葉の土処分場まで運ばれるのだそうです。・・・また遠いんだねぇ。

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その土砂ピットのとなりには、雑排水槽というものがあり、くろい水がけっこう溜まっていました。こちらは、掘削時に使われた水(シールド工法ってたしか水流しながらやりますよね)を捨てる場所。
こちらの水は排水しても良いような状態まで処理してから捨てるのだそうです。

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掘るのは、”武蔵野砂礫層”と、”ローム質粘土”の間。地層をチェックしてから掘るので、地下水はあまり出ない、と仰ってました(掘削時に地下水が吹き出ないかという質問が何度かありました。やっぱり気になりますよね。)

工事がひととおり終わるのは、来年春の予定。終わったら、この箱は撤去され、公園になるのだそうです。

・・・とまあ、いろいろな説明をいただいて、感心したり興奮したり。とても興味深かったです。しかし直前のさんぽ時から蚊に刺されまくっていて、ずっと足を掻き掻きしていました(帰ったら一箇所は掻きすぎてあざになっていました;)。この時期の蚊さんはあなどれず・・・刺すも刺したり、15箇所!

いやいや、蚊は置いといて、これは本当にとても良い機会でした!!手配してくださったケロキ師、ご招待くださった桃園川関係のみなさま、それから工事現場の方々、どうもありがとうございました。

(今回の行程地図、あとから載せたいと思います)

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きょうだい暗渠さんぽ

あるひ。
弟と、ランチにでもいこうぜっていう話をしていたら、こんなメールが来ました。

「恵比寿で飯食って、三田用水でも見に行くか?」(原文ママ)

!!!

まさか家族との会話で、こんな風に誘ってもらえるとは考えもしませんでした。
しかも弟は暗渠には興味が無かったはずだ・・・(参考:太子堂でのリアクション
けれど、弟は、中学時代のひと夏を山形(最上川付近)の用水路探索に懸けた男。さすが、やっぱり今回も用水(っていうか上水っていうか)なんですねww

いや~、しかし、こんなふうに暗渠さんぽをナビってもらえるというのも、じつに面白い機会であります。ちょうど、三田用水はアウェイ感が強いからか、ほぼノーマーク。なんと地図上にも殆ど書き込んでいないので、そのまんま調べずに、ナビまかせにすることにしました。

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最終的に指定された集合場所は恵比寿じゃなくて白金台だったので、ちかくのラボエムでパスタ。わたしは小エビのペペロンチーノに、明太子トッピング。あと、蟹のサラダをハーフで。この日はものっすごい二日酔いで、起きてもまだ”酔っていた”(自分的には頭痛よりも上を行く状態)という、ヘビー級二日酔いだったけど、完食できましたw。

プラチナ通りをのろのろと歩きながら、
「プラチナ通りっていうと、スタープラチナしか思い浮かばんね。」
と言ってみたところ、
「それはどうか。」
みたいに返されてしまいました。・・・前は一緒にジョジョ立ち卓球ラリーとか、してくれたのに。やれやれだぜ・・・。

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そして目黒通りを越え、いよいよ弟いわく”三田用水のいろいろある地帯”へ向かいます。お、遊び場と団地。
ワクワクしてきます~~。

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でもって、まもなく、すっごく最近見たことのあるものが目に飛び込んできました!

これは、今里橋!!

ちょうどその少し前に、猫またぎさんのところで見ていたのでした。たしかに、スプレーで南・里・橋、って抜いてあります。いたずら書きかもしれないということですが、だとしたら、全然関係ないことを書かれるよりもさらに悪質に感じてしまいます。

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微妙な心境になりながら・・・。いやいやしかし、今里橋さんってばここにいらっしゃいましたか。行きたかった観光名所に偶然つれてきてもらえた気分です。

ふる~い、太いパイプが伸びてますねえ。

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そして三田用水に沿って歩いていきます。この路肩部分は三田用水跡ってことだろな。
と、ながめていくと、ささやかな橋らしきものが出現しました。かっ・・・かわいい!!

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そしてその先に階段があって地面がぐっと下がるのですが、そこには三田用水の断面がありました!!

ひょー!!こんなの初めて見ますー。

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嬉しくなって、近くでパシャリ、遠くでパシャリ。

弟GJ!!

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もう少し行くと、今里地蔵が。水難除けではないかと弟が言ってましたが、くわしくはわからず。さっきの断面からコッチに辿ってくるとちょうどこの下が三田用水のようです。

ここで弟が用意したものはおしまい、ちょうどわたしもヘロヘロしてきたのでおしまいw ふぃ~、たのしかった!!

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来た道を引き返すと、さっきの団地脇の駐車場に、でっかい切り株ときのこがありました。カピカピですけど、けっこうぎょっとする存在感です。

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気をつけて見てみると、大きな切り株はそこらに何個かありました。玉川上水のように、三田用水の両岸には桜やなにかが植えられていたのでしょうか。

何故、切られちゃったのでしょうか・・・こんなに立派なのに、もったいないものです。。

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その後解散する前に、とりあえずアイスが食べたかったので、カフェでも探そうとてくてく歩いていたら、目黒駅に至ってしまい、結局けっこう歩いてしまいました。駅のフルーツパーラーで、メロンのソルベ。メロンの瓜っ!って感じが好きです(固くて甘くない方が好き)。このソルベを食べて、やっとこさわたしの中のアルコールが飛んでってくれたようでした。ふ~~。

今回、弟は、暗渠に興味を持ったというよりかは、自分が案内できるエリア内の暗渠をわたしに教えてくれるという感じで、いろんなサイトで下調べをしてくれたのだそうです。・・・なんというサイトか、というところまでは覚えていないようでしたが、たとえば庵魚堂さんのところにも、今回の情報が載っていて、弟は見ていたかもしれないと思うのです。そういった暗渠系のいろんな方の書かれた情報が、まわりまわって、わたしを幸せにしてくれた・・・、と、なんとも素敵なループです。そんなわけで弟だけではなく、いろんな方々に、感謝の念をいだいた暗渠さんぽでした。
あれ、もしかしたらココも弟にいつか見られるのかな・・・?それはなんかちょっと恥ずかしいぞ。

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暗渠さんぽのおとも~あるきたべ春夏編~

秋ですねえ。
今年の夏は、生ホッピーを飲まなかったのです。
夏といえば、キンキンのビール。ハイボール。たまにホッピー。
ってな感じですが、「そろそろあそこの生ホッピー飲みに行こうかな」と思っているうちに、夏が終わってしまいました。べつに、格別生ホッピーが好きなわけでもないし、どっちかっていうと生じゃないホッピーの方が好きなんだけれど、少しだけ名残惜しい夏。

そんな季節の変化をかみしめつつ、久しぶりに、暗渠さんぽで食べたものを、ふりかえろうと思います。

春と夏のさんぽで、食べたもの。

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クレープ on 渋谷川支流。

これはリクエストも出ていたものですw 竹下通りでクレープを買い、ブラームスの小径で食べました。

クレープってやっぱり、チョコバナナを注文してしまう。おいしいので。
だけどもほんとうは、あったら絶対注文したいのは、”はちみつ”。小さい頃、地元のお祭りでクレープ屋さんが出るとき、屋台をぐるっと囲うメニューのかずかずにワクワクしながらも、かならず選ぶのが”はちみつ”でした。クレープ生地にはちみつソースを塗っただけの、ごくごくシンプルなものです。150円とか200円のやつ。いまも、具の無い餅や、ぎゅうひや、アメリカンドッグの皮や、すあまや、花巻みたいな、素っ気ないものが大好きなので、もともとそのケはあったのだろうと思うのですが、子どものくせになんという地味な選び方をしていたんだろう。。
はちみつクレープはここにも無かったのですが、チョコバナナクレープはやっぱりおいしかったです。

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ベビーシュー on 女鳥羽川支流。

この女鳥羽川支流沿いには、マサムラという昭和の香りがする洋菓子屋さんと、ザ・アイスキャンデーって感じのアイスキャンデーを売ってるアイス屋さん、スギヤが並んでて、どっちにしようか迷ってしまう。
このときは、両方買って、両方撮ってみたのだけれど、舐めかけのアイスキャンデーはあまりうつくしくなかったので却下。ベビーシューはふわりとしてて、昭和味のクリーム。でもって、カワイイ。

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黒糖蒸しパン on 和泉川。

沖縄のお店があつまってるので、ここでも何をあるきたべるか迷ってしまう。このときは、ブルーシールアイスのサトウキビ味(だったかな;)を舐め、そしてこの蒸しパンをたべました。こういうミネラル系砂糖はとーっても好きです。
アイスは、お店のおばさまが「なんか硬くて上手に盛れなかったから」って、おまけで多めにくれました。アイスも良かったけど、この蒸しパンの、真ん中にとろけてる黒糖がまるでフォンダンショコラのよう!!と、非常に興奮したのでコッチで。素朴で、とろんとしてて、なんともすてきな蒸しパンでした(沖縄名は、忘れた・・・;)。
それにしても、黒糖の第一変換が”谷頭”になっていて笑えました。

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ウメッシュ on 浜町川。

さいごは、これこれ。あるき”飲み”になっちゃうけれど。
食前酒みたいな感じで、それから仕事後の解放感の象徴として。
まだまだ猛暑のさ中で、あっというまに冷たさをうしなったこの飲みものの、ぜんたいのぬるさとヘンに暑い気温と、浜町川のヘンな(でもかなり良い)空気を、いまではなつかしく感じます。
これからの季節はもう、ウメッシュやらビールやらをあるき飲みたいとはあまり思わなくなり、熱いコーヒーやお湯割り系になるのかな。。それから、焼き鳥、焼きとん、酒まんじゅう、揚げたてドーナツに、焼きたてせんべい。あるき食べたいな、って思うものは、これからの季節もまだまだいっぱいあるのです。

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桃園川支流を歩く その33人工谷と幻の中野駅前支流(仮)②

1つ前の記事で中野駅前の大規模な掘り下げ工事の話をし、続きはしばらく先、と思っていたのですが、少し情報を追加しておこうと思います。

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まず、中野駅周辺の現在を、駅の中からも撮ってみました。

ホームからの見ため。これは、掘り下げていない部分(新宿方向)を見ています。地面と駅は同じ高さですね。

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団地も、かつてのままの高さです。

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視線を右(高円寺方向)にうつしていくと・・・、団地の敷地のとちゅうから、だんだん線路脇にある道が下がっていきます。
団地の敷地は同じ高さのままで、その敷地が終わった途端ガクッと削っているようです。

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そして中野通りのところまでくると、もう地面はこんなに下に!
今見えている空間のほぼ全部が、掘り下げられたのですから(+北口も)、改めて、すごい量の土砂が出たでしょうね・・・。

さて、この場所について井伏鱒二は「荻窪風土記」内、関東大震災直後のところで、つぎのように書いています。
”中野駅まで行くと、駅のすぐ先の線路がブリッジになって、鉄橋だから這って渡るかどうかしなくては難しいように見えた。相当の高さのガードである。この場所は以前は踏切になっていたが、ちょっと前の道路工事で線路の下に広い道を通したので、踏切がガードに変じたわけだ。”
そしてガードを渡るのをやめ、南側の薯(いも)畑の畦道に入り、カンカン帽を枕に薯畑で寝ることにした・・・のですが、その薯畑というのは、丸井の正面入り口(写真においては右側5軒目のビルが丸井@新築中)から7,8m西に寄ったところだというのです。この写真の場所というのは、大正12年時は、
”道を拡げるため傾斜のある薯畑の裾が削られて、六尺ぐらいの高さで赤土の崖になっていた。その対面には、新しい大通りのほとりにトントン葺でバラック式の棟割長屋が、鰻の寝床のように三十棟ばかりも続いていた。”
こんな風景だったというのです。

いもばたけ・・・。それはそうと、この記憶が正しいのなら、大正12年より前から、中野駅周辺の工事は着手されていたことになります。

それから、おすすめ本にも載せている「中央線街と駅の120年」にも記述がありました。新しい情報としては、”当時の駅周辺は全くの純農村地帯で、桑畑や麦畑が広がっていた”、”南口の土地掘り下げと広場が完成したのは昭和26年”というものがあります。ちなみに、ほぼ同じ写真と情報が、ここにもあります(たしかこのサイトはKLO@廃墟徒然草さんのところで教わったような)。昭和26年・・・、広場の完成まで含めてはいるものの、前回の情報(昭和3~5年という話と、大正5年~昭和11年という話)よりもずいぶんと期間が延びましたね。

Ekimae7_2 ・・・なんとなーく桃園通り付近をもう一度うろうろしてみました。

すると、台地状のところの、ちいさな神社の脇に、いきなり井戸がありました。えー!ここ、何回も通っているのに、気づかなかった・・・。

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それから、この井戸マークがなんともカワイイです。これも初めて気付きました。

ここはやっぱり水が湧きやすいのでしょうか・・・。工事で湧いた、埋めた、の話に、はやく辿りつけるといいのですが・・・。

それと、前回も情報提供いただいた、地元のAさんから更に追加がありました。

・中野駅の改変は桃園川=おおどぶ(←とも呼ばれていた)の改変工事、その支流の埋め立てにも役立ったかもしれない。(丸ノ内線工事の際、善福寺川緑地・阿佐ヶ谷団地・杉並高校あたりの田圃が埋立てられ、路面電車の敷石が投げられていたので庭にあしらったらしい、という話をヒントに。)

そうなんです。昭和3~5年に限定しないのであれば、桃園川の改修工事、灌漑用のたくさんの用水路の消滅の時期にも、関わってくるかもしれない・・・。わたしがよく眺めている明治44年の中野町の地図(この記事に一部載せてます)には、そりゃあもう気持ち悪くなるくらいに桃園川本流周辺に用水路があったのです。水車坂にあった西町天神支流(仮)の周辺もゴチャゴチャ水路があったのに、昭和8年にはスッキリと1本になっていました(←水車坂・・・結論編をまだ書いていませんが;)。それらを埋めたのが、駅前の土かもしれない・・・となると、もし幻の中野駅前支流(仮)が見つからなくとも、中野駅移転工事は、実は桃園川にとても関わる話だということになりますね。おお~、ワクワクの展開!!
Aさんには、ハッとする情報をいくつもいただいており、大変感謝しております。ありがとうございます!!

というわけで、前回の問い2つに、少々修正を加えました(青文字)。

疑問1:中野駅南口からの中野通りに、工事による湧水と小川はできなかったのか?
大正5年頃から僅かの期間、中野駅周辺から湧き、中野通りを下って桃園川へ注ぐ、中野駅前支流(仮)というものが、もしかしたら存在していたかもしれない。

疑問2:工事以前、中野駅周辺にはもっと池・沼・水路、が存在していたのではないか?
→中野駅移転工事にともない、遊び場79番にあった沼などが埋められたようだ。ほか、丸井本社ができる前にあった池、桃園川旧流路や流域にあった細かい用水路なども、このとき埋められた可能性がある。

今回、手持ちの資料で少しイケルと思ったので1記事書きましたが、このあとは検証のため少し時間をとりたいと思います・・・。なので、次回はちょっと箸休め的な記事を書き、ふたたび現場のさんぽへ戻ろうと思います。

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桃園川支流を歩く その32人工谷と幻の中野駅前支流(仮)

中野駅前から桃園川へ行く道、つまり南口の中野通りは地形図で見ると実は谷になっています。しかし、ここに川があったと記す文献は、まず見つかりません。それは、この谷が昭和初期につくられた、人工谷だからです。わたしはこのことを、地元の方から聞いて知りました。もともと、桃園川に向かう立派な谷があるのに、支流の話が出ないので気にはなっていましたが、その大規模な地形の変化に、かなりおどろきました。

この人工谷がつくられた理由は、中野駅の移転に関連します。「中野区史」によれば、中野駅は明治22年の中央線第一期開通後まもなく創設。その後利用客の急増にともない、昭和4年に改築されることになります。
「中野交通ノスタルジィ」によれば、この改築は、”中野駅の長い歴史の中で他に類のない大事業となる。当時、駅周辺の土地は駅と同じ高さにあった。中野通りを南北に縦断せしめるために、これを掘り下げようというのだ。”という、駅舎移転と土地の掘り下げをともなう大掛かりなものでした。中野駅はそれまで、現在の位置より数百m西にありました。掘り下げた規模は、南口だけでも深さ4m、南北約150mに及ぶそうです。

また、中野駅にはそれまで南口しか存在しなかったので、北口商店街の人々は、これを機に北口改札も設けるよう動かれたようです。その北口商店街というのは、いまの中野サンモールにあたります。南口の中野通りもなかなか駅前風ですが、じつは、南口は一本西側の桃園通りがかつては駅前商店街でした。その桃園通りには、いまも店舗がいくつもあります。地面の高さもむかしのままで、駅前で唯一過去の趣を残すところかもしれません。桃園通りから東高円寺方向に向かう道は妙法寺へ向かう道でもあったことから、ずいぶん離れたところまで飲食店が続き、現在でも人通りはまあまああります。

Ekimae 桃園通りの、かつてだったら駅前一等地!(いまもかも;)って位置に、佐世保バーガーのお店、ZATS BURGER CAFEがあります。これはアボカドバーガーですが、ここの佐世保バーガーの、ソースがおいしいんだよなあ。いつか食べたいと思っていた山芋フライは無くなっていて、ショックでした。

ちなみにこの2軒隣にあるvivo daily standも、かなり優良なワインバーです。おいしいし。

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これらの店舗から中野駅に向かおうとすると、そこには下り坂があります。でもこれは人工谷へおりる、人工坂なわけです(これは下からみたところ)

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こうみると、中野駅は高い位置にあるように見えますが、じつはここの東西にある台地と同じ高さ・・・地面と同じ高さだったわけです。

そして、ここから南へ伸びる中野通りは、人工谷底商店街なわけです。

Ekimae4 

コッチは(見づらくてすみませんが)、中野中央図書館へとつながる坂ですが・・・、もともと、暑いときや疲れているとき、上りがちょっと嫌だったんですが、ここが人工と知った後からは、「この人工坂め~!(むかしだったら登らなくて良かったのに、みたいな気持ちをこめて)」と、ちょっと悔しくなりながら疲れるようになりましたw(わたしは昇降運動に弱いようです。)

ところで。ここは人工谷だから、小川などなかった、という結論でよいのでしょうか(疑問1)?甲武鉄道敷設の際、掘ったところから水が湧いた話はいくつもあります。それから、ここを掘った土砂を近くのあちこちへ運んでいるようなので、この時期まで中野駅周辺にはもっと池・沼・水路、が存在していたのではないでしょうか(疑問2)?

この疑問を解決するため、まず地元の方のお話を少しだけうかがってみました(Aさん、ご協力ありがとうございました)。すると、

①この工事で出た土であちこち埋立てられたらしい。遊び場79番はかつて沼だったが、このとき埋められた。

という、ダイレクトな情報(厳密に言うとこの情報は人工谷の話と同時でした)。ほか、

たかはら支流(仮)が道になったことも関係するかも?
③現在工事中の警大跡地(陸軍中野跡地)に水が出て、(今年の)7月まで抜き続けた。
天神川は昭和34年まであった、と聞く。
⑤中野駅南口ロータリーの地下には、排水施設がある。
⑥昭和30年代の台風で、中野五差路のあたりが冠水した。
⑦中野駅移転にともなう掘り下げ工事は、大正5年~昭和11年の間のどこかとも聞く。

と、関係しそうな情報をいただくことができました。つぎに、史料も少しあさってみると、

⑧丸井本社の場所に、”しんどうの池”と築山があったそう(桃三小の冊子より)。ちなみに丸井の創業は昭和6年。

といったぐあいに、疑問2にかかわる話がいくつか出てきました。しかし疑問1について、ダイレクトな情報がありません。
そこで、中野区役所に突撃してみました。役所系の突撃は初めてでしたが、詳しい方につないでいただけて、とっても親切に対応してもらえました!(本当にありがとうございます。)といっても、関連文献はほとんどないそうで、詳しそうなものを1つ(サンモール商店街で発行した「サンモールのあゆみ」)、教えていただきました。

⑨「サンモールのあゆみ」によれば、鉄道省は当初南北をつなぐ道を陸橋にする計画だったが、それに対し地元が猛反対し、半年以上かかって地下道の計画を”かちとった”。駅移転も地域住民が発想し、自分たちの手で地面を掘った。掘り下げ工事は、だいたい昭和3年~5年に行われ、最初は1日40台前後の馬車で、最後の方はトラックで土砂を運んだとのこと。

工事中の写真もいくつも載っており、一軒一軒、商店の周囲の土を削り取っては下に角材を差し込み、下へおろしていった様子もみえます。ただし、その中にも、水が湧いたとか、池を埋めたとかいうものは見当たりませんでした。

さらに、職員さんから、周辺に昔から住んでらっしゃる方のお話も教えていただきました。その、記憶と推測をまとめると以下のようになります。

⑩工事の際、水が湧いたという話は聞いたことがある。軍用地(陸軍中野跡地)の中にも湧水(※)があったらしく、この辺の地層から言っても大いにあり得る話。
⑪中野通りを桃園川のほうまで掘り下げているということは、その湧水の小川を桃園川に流そうとしていた可能性も大いにある。
⑫工事で発生した土砂で近辺の埋め立てがあったことも聞いている。具体的にどこを埋めた、というのは思い出せないが、当時の装備からいって、そんなに遠くには運べないだろう。

※この湧水はたかはら支流の水源のことではなく、天神川の水源のようです。つまり、自然河川と陸軍中野学校の排水をつなげたというわたしの予想は外れていて、天神川は軍用地の中から流れ出ていたことになります。

これらのことから、

疑問1:中野駅南口からの中野通りに、工事による湧水と小川はできなかったのか?

これについては、⑩・⑪から、
→昭和3年頃から僅かの期間、中野駅周辺から湧き、中野通りを下って桃園川へ注ぐ、中野駅前支流(仮)というものが、もしかしたら存在していたかもしれない。
と、いうことができます。
また、③・⑤・⑥は、工事による湧水・小川の存在を支持すると考えます。ただし、時期については⑦と⑨でズレがあるので、要調査、ですね。

疑問2:工事以前、中野駅周辺にはもっと池・沼・水路、が存在していたのではないか?

これについては、①・⑧・⑫から、
→中野駅移転工事にともない、遊び場79番にあった沼などが埋められたようだ。ほか、丸井本社ができる前にあった池なども、このとき埋められた可能性がある。
と、いうことができます。
④から、天神川の埋立てには使っていなさそうだし、②のたかはら支流は蓋掛けなので土は使っていないのではと思います。

いずれも、まだ断言するには非常に弱いですが・・・。古地図の比較、さらなる文献と証言の収集、を少しずつ続け、続編をまたいつか書きたいと思います。

Ekimae5_2 ところで、その中野通りをさらに南へ行くと、杉山公園があります。ここで先日お祭りがあり、ちょうど通りかかったのでついでに載せてしまいます。

氷川神社と西町天神の合同のお祭りになっていて、にぎやかです。わたしとしては、西町天神の、ってのが、興奮ポイントなわけです。

Ekimae6

じゃがバター(←好物)をもぐもぐ。最近のじゃがバターはトッピングできるのですね!?3種類ほどトッピングがあり、1種類しか選べないそうなんですが、「明太マヨネーズと、コーン、どっちもってダメですかねぇ・・・」と言ってみたら、おまけしてもらえました~!イエス!!
なんか、 アメリカ!! って感じの色合いですね~w

・・・話を戻しますと、今回は中野に興味のない方にとっては???の内容だったと思います。ですが、この、今まで追った中でももっとも”まぼろし度”の高い、中野駅前支流(仮)のことを考えると、わたしは中野の駅で降りるだけでもワクワクします。
小川、とさえも呼べないような、ちいさなちいさな流れだったかもしれないけれど。でも、もしそれが桃園川に注いでいたのなら、どんなにちいさくても、わたしは支流と呼びたい。そんな、熱のこもった机上の暗渠さんぽでした。

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