« 暗渠T図案決定総選挙 | トップページ | 暗渠沿いカフェ その2”SOAP” »

桃園川支流を歩く その31水車坂とその水源

桃園川支流に関して、地元の方から「水車坂という坂に、かつて水車があった」という情報をいただきました(ありがとうございました!)。その情報は、以前わたしが載せた蓋暗渠の、ずいぶんと変わり果てた姿とともにやってきました。それは、わたしにとってはかなりの衝撃で・・・

その支流とは、中野区の中央西公園支流(仮)であり、中野区と杉並区の区境をつたう、西町天神支流(仮)とも関連するはなしでした。中央西公園支流(仮)は、中央西公園の崖から浸み出る湧水をあつめたもの、と推測しており、東から西へと流れてから桃園川へと向かうものです。

Nakano21

その崖下から出た流れが、民家の間をぬけ、道路をまたいで西へ西へと流れはじめる地点が、ここ。過去記事の写真です。

まあまあ立派なサイズのコンクリ蓋があるのですが、このとおり、荒れ放題でした。そこがチャームポイントだったのですが・・・、

Suisha_2

上の写真からわずか2か月ほどで、こんなことになってしまいました。

これは工事の1過程にすぎないのでしょうから、これからもきっと変化はあるのでしょう。。

Suisha2

わたしにとっては、まさに「ちょっと目を離した隙に!」という感覚です。

荒れ放題ぶりが気に入ってはいましたが、しばらくそのままであるような気がして、さして根拠もないけれどいつでも見られるような気がして、たいして写真も撮らずにおりました。

Suisha3

あのゴミやら植物やらがなくなっているだけでなく、擁壁までも整えられているなんて。コンクリ蓋が、敷き詰められた砂利に変わっているなんて。。。

この、ぴかぴかの雨水ますが在ることによって、下に下水道管はあるのだろうと思えるのですが、逆にコンクリ蓋が剥がされてヒューム管が埋められたのだろう、余分なものなどなにもなくなったのだろう、とも推測できてしまうのです。

Suisha4

こういった工事は、これからここを使うひとたちにとっては、とても良いことですよね。だから文句を言う気は無いんですけど・・・、やっぱり切ない。気に入っていたものをうしなってしまった感覚はあります。
それから、わたしの暗渠好きのファクターの中に、”無駄・余分”ていうのもありそうだなと思いました(ふるいもの、と微妙に分けられるものっぽい)。

ここから先は、整備されていませんでした。謎の四角部分は健在。

Suisha5

さて、最初の写真を反対側から撮ります。流れは、向こう側のすきまからきています。冒頭の”水車”は、この向かい側にあったということでした。

そして水車の情報をもとめにゆくと・・・、なるほど、キーワードを変えればいくつか史料は見つかりました。

まずは水車坂について。
まさに、この荒れた駐車場の位置に、かつて水車坂と書かれた案内板があり、
「この坂を水車坂という。往時この坂の東側は大きく崖になってこの窪地に水車があったことに由来する。水車を動かす水流は西町天神西方の弁天池の湧水が源流となり桃園田圃に向かって水路をつくり、田圃と台地接点を東流してこの坂下にきている。」
などと説明が書かれいたようです。なるほど過去の地図にも、前述の位置に水車マークが記されたものがあります。近隣の人たちは、ここに麦や米を持ち寄り、粉を作っていたそうです。
桃園田圃は宅地化により失われ、水車もなくなってしまったけれど、水車を回したという水流は比較的近年まで残っていたようです。それがわたしが「かくれんぼ支流」と言っていた2支流。1つは上述のように、西町天神からくる流れ(=西町天神支流(仮))と、あとはこの向こうから来る崖下の流れ(中央西公園支流(仮))で、これらが合流する勢いでもって水車は回っていたとのこと。
さらに、この流れは桃園第三小学校(当時)の欅前周辺で幅広の浅瀬となり、さらに下流で桃園川に注いでいたとのこと・・・
Kausin 桃園第三小学校すなわち現桃花小学校の前といえば、あの”かう志んばし”です!!この浅瀬は洗い場で、ひとびとは根菜や農具を洗っていたそうです。どうでしょう・・・かう志んばしのまわりの、むかしの風景が浮かんではきませんか?

ここに穏やかな洗い場があったのは、いつまでかはわかりませんが。ちなみに、かう志んばしをくぐっていた流れは、桃園川の旧流路、つまり改修後に水路は無かったように推測していましたが、じつは改修後も流れがあったようなのです。現に、昭和16年の地図には、かう志んばしとその下をくぐる細流のしるしが記されています。また、ここら辺について、「水車を動かしていた小川に、桃園川から伸びた灌漑用水が注いで豊かな水流を作ります」という記述もあるので、桃園川に至るまでにはまだ何流かが合わさっていたのでしょう。

Suishamap しかしこれらの情報を統合しようとすると、地形的な難しさもあり、わたしのアタマはちょっと混乱してきます。
これは過去のマップに追記したものですが、現在、黄色と水色の点線部分には、暗渠があります。しかし、この2流を合わせていたとされる、水車はピンクの位置にあるのです。これは、田圃があった時代には西町天神支流(仮:黄色)がもっと東流していたが、のちに流路変更がなされた、と理解するならば、アリです。
また、水車の下流についても、現在の地形では緑の点線のあたりを通って桃園川に注ぐのが自然と思われ、かう志んばしに至るのはやや不自然。つまり、ピンクの「??」印のような流れがあったかもしれないけれど、現存する遺構からは推測しにくいのです。

Shisha6

・・・ともあれ、ここに水車があったことはたしかです。もう一度坂をちゃんと見に行きたくなりましたが、調べた後に撮った写真なので、暗くなっててすみません。この坂が、水車坂です。

西町天神についても、かつてはわたしは西町天神支流(仮)の始点に池跡の要素が薄いと感じ、「池があったか、青梅街道に用水路でもあったか」などと推測していましたが、どうやら湧水池があったということに落ち着きそうです。これは、

Nisibenten_2

・以前は弁天池と呼ばれる湧水池があった。(写真は池があったとされる西町天神の西側地点)

というダイレクトな情報のほか、

・もともとは”水神の弁財天、豊穣・保食の稲荷神”をまつっていた。
・昭和25年の時点で、”杉並との地境には溝があった”。
・昭和34年の地下鉄工事により水脈が変わり、青梅街道沿いの井戸は減少したが、西町天神の井戸は涸れていない。

と、水源・水路があったことを裏付ける情報がいくつもありました。ほか、

・西町天神は杉並との”境界を守護する”という性格を持っていたと考えられる。

なんていう、興味深い情報もありました。

今回の情報の出所は”見たい聞きたい記録(のこ)したい~なべよこ観察隊 ”と、”なかの区報”が中心なので、根拠=地元の方の語りも多く、さらなるデータが必要かとは思います。また、今回の情報収集に際し、小淀川の情報も多少集まってきました。が、現地で撮りたい写真もあるなど、もう少し時間をかけたいので、小淀川の記事はもうちょっとだけ後にしたいと思います。

|

« 暗渠T図案決定総選挙 | トップページ | 暗渠沿いカフェ その2”SOAP” »

1-1 さんぽ:桃園川」カテゴリの記事

コメント

水車横の蓋暗渠が消えてしまったのは、なんだか複雑な気持ちですね。以前の姿を知っているから、なおさら・・・。

川筋全体については、まさに、ジグソーパズルのピースが揃ってきた、あとはどこにどう埋め込んでいくか、といった感じですね!
すごく緊張感のある展開。
水車からかう志んばしに向かう水路・・・たしかによくわかりませんね・・・。
ふと思いましたが、よく、橋跡あたりは広い範囲から盛り土がされてぼこんと盛り上がっていたりして、「ほんとにここに橋があったのか?」と惑わされることも多いですよね、もしかしたらそれよりもかなり広い範囲でこのj一帯に盛り土や造成が行われていた、なんて可能性はないでしょうか・・・。いや、たんなる思いつきなんですが・・・。
同時にまとまったエリアの再開発がおこなわれるときって、そんなふうに大規模に整地して無理やり平らにしたりするのかな、って思いまして・・・。
今後の推理のゆくえ、すごく楽しみです!

投稿: lotus62 | 2010年9月 6日 (月) 22時43分

ありゃりゃ。
MMZでのやり取りを見ていて、一度、見に行かなければと思っていたんですけど、こうなっちゃたんですね。
もう少し涼しくなったら、出かけてみたいと思っています。

投稿: リバーサイド | 2010年9月 6日 (月) 23時19分

>lotus62さん

そうですね~、まさにピースは揃ってきた感じです。けど、どこにどう埋め込んでいくかがむつかしい!これまた地元の方からいただいた情報&史料によれば、あそこらへんも結構弄られている可能性があります(もう少し調べないといけませんが)。lotus62さんの推測、鋭いかも。

>リバーサイドさん

ほんと、ありゃりゃでした。。この状態からまた変わるかもしれませんので、心の準備をして見に行ってくださいねw
この駐車場の敷地内?に、ちょっとふしぎなふるい建物があるんですが、その北側道路沿いに水車坂の案内板があったみたいです。←写真から推測しただけで、現地で名残を確かめるのを忘れました。

投稿: nama | 2010年9月 7日 (火) 11時21分

マップの方にコメントありがとうございます!
さっそく、コメント書かせて頂きました!!
これで桃園川研究が、進むかと思います(^^ゞ

しかし、自分も気付かなかったんですけれども、ワイワイマップは登録しないとメッセージが書けないですか?
そうすると意外に不便ですね。。。

あ、後、長々書いていたコメントが全て消えてしまいましたので、簡潔に…(泣)


上の水車坂の水路の話ですが、中野区立中央図書館にある、「中野区全域区」という昭和8年の地図に、当時の水路がかう志んばしから銭湯の昭和湯辺りまではっきりと記載がありますので、是非ご参考までにご覧下さい!

僕は逆にかう志んばしが支流の情報がわかったので、非常に勉強になりました(^^ゞ

この地図は小淀川の当時の様子もわかりますので、2倍おいしいかもです(笑)

後、「かう志んばし」は実はどうやら「庚申橋」が正式名称な様です!
詳細は僕のマップをご覧下さいm(__)m

さすがにもう1度、上記の内容に関して、詳細を書く気力が…(爆)


あ、でもこれだけは!
前のかう志んばしの日記で、「今はコインランドリーだけども、どう見ても昔は銭湯」って記載があったじゃないですか?

推測通り、昭和8年の地図では「藤の湯」という銭湯でした(笑)

では、また~!

投稿: ima | 2010年9月 8日 (水) 02時24分

>imaさん

こんにちは。長文が一瞬で消えてしまうかなしさ・・・にもかかわらず、コメントいただきありがとうございました。
職場のPCだと(SNS系がブロックされてしまうので)ワイワイマップが見られないこと、お伝えしたかと思いますが、最近自宅のPCが重くて重くて、ネットにつなぐのはほぼ職場からになっています(汗)。ですので、昨日のコメントへ返信していただいたものも、きっとすぐには見られなくって・・・すみません。後でかならず読みます。
はい、ワイワイマップは、ヤフーにログインしたのち、マップへ登録しないと書けないようでした。普段ワイワイマップが見られない&ヤフーアカウント自体持っていなかったわたしからすると、最初の1コメントまでの道のりは遠かったですw(←でもこれらはわたしの要因ですので、他のみなさんは違うかも)

かう志んばしから昭和湯なんですか!なんとなんと。これは最近のあそこらへんの街並みを見ているだけでは、なかなか思いつかない流路です。いや~、ものすごいワクワクです!小淀川まで!いやー良い地図ですね!

あと、「かう志んばし」、わたしも最初、「庚申塚でも近くにあったのかな」と思っていたのです。けど、水車坂のことを教えてくださった方が、「荒神さまが近くにあった」とも仰っていて「荒神橋」かと思い始めていました。真相はどうなんでしょう?まずはimaさんの解説を読みたいです・・・うー、昨日、コメント書くのでいっぱいいっぱいで、肝心の文章をちゃんと読んでませんでした。

藤の湯情報、ありがたや~~!当たってうれしいですw
杉並区内の銭湯は、過去のものもあらかた情報があるんですが、中野区はよくわかってないのです。きっと藤の湯のどちらか側に、流路があったのでしょうね~~。
ではでは~

投稿: nama | 2010年9月 8日 (水) 10時29分

nama様、
いつも楽しく拝見しております。

桃園川編、凄いの一言。何か考古学を聞いている感覚に陥ってきた自分がいます。

自分の知らない桃園川(支流も含め)の情報が、こんなに飛び込んでくるなんて、もうnama様に感謝でいっぱいですよ。

これからもたくさんの情報、期待してます。

投稿: 谷戸っ子 | 2010年9月 8日 (水) 12時46分

>谷戸っ子さま

こんにちは。今回、かう志んばしに触れていることもあり、谷戸っ子さんがぜひ見てくださると良いなあ、と思っておりました。なので、とてもうれしいです~~。

いえ、感謝をするのはわたしのほうなんです。わたしよりもずっと、桃園川とともにいらした方々からの、直接の情報ほどありがたいものはありません。谷戸っ子さんからもすばらしい情報をいただきました(ぜひ、これからもよろしくお願いしますね)。いろいろとつなぎ合わせていくと、とても面白いことになりそうですね~~!

投稿: nama | 2010年9月 8日 (水) 16時03分

水車、謎の流路、区の境界と、西町天神支流と小淀川は中野区の西と東のはじで、幾つか共通点もありますね。namaさんの考察と検証、とても楽しいです。
そういえば、桃園橋のそばの中野センターが今夏に解体されちゃいましたね。1Fが商店街、2Fが光座という映画館、昭和の遺物でしたが、寂しい限りです。
私自身は無力ですが、かう志んばしはずっと残って欲しいですね。

投稿: 鍵ノ手 | 2010年9月10日 (金) 00時07分

先日の補足をさせて下さい~(笑)

あー、自分のワイワイマップが見れない場合はお手数ですが一度「桃園川」や「暗渠」で検索かけてみて下さい。そうすれば、見れるかもです(汗)

お話した昭和8年の地図ですが、当時の中野区を町別に分けて、掲載されてますので、かなり詳細な地形や水路が確認出来るかと思います(^^ゞ

とりあえずこの地図を見た時、前に小淀川の際にもお話をしました様にやはり当時の状態からの区画整理の様子もよくわかりました。

かう志んばし=庚申橋ですが、僕もうっかりしてましたが、前に資料として入手しておりました、「中野町誌」と「中野区史」の橋粱一覧にありました、「庚申橋」の住所を調べたところ、「かう志んばし」があった場所と、ほぼ位置が一致しましたので、この情報を解禁しました(笑)

ただ「中野町誌」は宮園5-11、「中野区史」は宮園5-8、橋場町58と実際の位置と若干異なる(道路1つ挟むぐらい)の位置の誤差はありました(^_^;)
昭和8年の地図で見ると宮園5-19が正しい位置の住所になるかと思われます。


中野区公式HPを見ると「かう志んばし」から南下していくと、青梅街道沿いに庚申塔がある事も確認出来ました。(多少、当時の位置から移動はあったかもしれませんが。。。)

↓46と51になります。
http://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/653000/d007478.html

現在は片側の欄干しか残っておりませんが、水路が流れていた当時はもう片方の欄干に「庚申橋」とちゃんと刻まれていたのかもしれませんね。

いやー、でも僕もこちらでブログを拝見する様になってから、銭湯や釣り堀、プールの側に川が存在していたと、初めて気付かされました。

僕にとっては新しい発見で、暗渠を歩くのに当たって、楽しみが1つ増えた感じです(^^♪

小淀川の続編含め、また新たなる、発見楽しみにしておりますー!

投稿: ima | 2010年9月10日 (金) 00時10分

>鍵ノ手さん

あ、ほんとにそうですね。挙げていただいた点、見事に重なっています。なんだか似ていますね。「区の境界」と「謎」はもしかしたら関係するのかもしれません。「境界」だと双方が管轄と認識しづらいのか、エアポケット的になりやすい・・・とは、HONDAさんのところで学んだことですが、それと同じ原理で区内の情報として残されにくかったりするのでしょうか。
で、中野センター!!これ、まさに昨日も見てきたところです。わたしが解体に気付いたのはたしか先月で、これも「いつのまに・・・!!」でした。以前話題に出ました桃園食堂の跡地が向かいにあり、あそこらへんは更地だらけで、なんだかさみしいですね。。
以前、桃花小の欅が持ち主から切られそうになったとき、PTAは一昼夜の間に200人超の署名をとって、切らないよう交渉したのだそうです。かう志んばしもそのように、地元の方の愛情に守られ、ずっと残っていてくれると良いなと思います。

>imaさん

こんにちは。imaさんのワイワイマップというより、ワイワイマップ全体にアクセスできない仕様みたいです。。。
>昭和8年の地図
昨日、やっと見てきました!はい、これはもう、決定打でしたね~~、なっとくの小淀川でした。ほかにもものすごく当然、って感じで「小淀川」が書かれている文章があって、なんだか面白くなっちゃいましたww。記事と検証にはもう少し時間がかかりますが、おそらく場所はつかめたと思います。
あと、以前、imaさんが中野中央図書館には古地図が無いと仰っていた気がしますが、明治~昭和のならコピー機から振り向いたあたりに、ありましたよ。中野の変遷を1万分の1地形図で次々見られる親切なつくりでした。その下に昭和8年の全域図もあって、ウハウハしました。・・・小淀川のことで完全に満足してしまい、かう志んばしの流れを確認し忘れる、という阿呆なこともしてしまいましたが・・・情報まことに感謝です!!
それに、中野中央図書館ではいま水に関する本を集めたブースがあって、川や湧水のものもあつまっていて、おもしろかったです。

>かう志んばし=庚申橋
わたしも気になっていたので、ちょっと調べてみました。そして同じく「庚申橋」で納得しました。ただし、由来となっている庚申塔の場所については、違う推測です・・・

かう志んばしのまん前にある、小学校の記念誌に載っていたことなんですが、
・校庭にあるけやきについて、「庚申様の大欅」という表現をしている
・「けやきの下には家光のころたてられたお地蔵様と五代綱吉のころたてられた庚申様が祀られ」ていた(けやき及び庚申様らは鍋横の慈眼寺の所有)が、昭和29年頃に中野区がけやきと土地を買い上げ、けやきは小学校の校地内に留まり「お地蔵様と庚申様は慈眼寺の境内にうつされた」。

ということで、かつては橋のすぐ近くに庚申塔があったといえます。自分も「ほぉぉ~!」と思ったのであれこれ書いてしまいましたが、なんだか、橋についてimaさんのたのしみを奪ってしまうような情報の提示の仕方になっていたらごめんなさい。。

あと、「区」で出してる公式な書物でしょうに、橋の位置に誤差があるのってなんか面白いですね。橋自体が微妙に付け替えられた可能性はあるのでしょうか?それともこういう誤差ってよくあるのでしょうか?(自分は橋の住所の検証をしたことがないもので、よくわからないのです。でもなんか面白いです。)

投稿: nama | 2010年9月10日 (金) 17時31分

度々すいません(;^_^A

>ワイワイマップは何なんでしょう…。しかし、あそこまで作成してしまったので、なかなか他のところに移籍するには…(爆)


>小淀川の件、詳細おわかりに良かったです♪
あの地図はかなり詳細が検討出来ますよね。

そうなんです、実は僕も図書館の係の人に「昔の地図ありますか?」と聞いたら、おっしゃられた場所の地図を教えてもらい、昭和8年の地図も発見出来ました。

中野の変遷の地図も河川の水路を確認するには年代別に分別しているので、活用できるかもしれませんね!
ただ、橋まで確認出来ないのが残念なところですが。。。

かう志んばし、確認し忘れましたか(笑)
次回行った時にでも是非。

水を集めたコーナーですか!!ちょっと覗いてみたいかも!


>庚申塔、そんなに近くにあったんですね!!
いやいやいや…これは僕の調査不足でした。

当時の庚申塔って、結構区画整理で移動させられてるものが多いので、青梅街道沿いにあるものをシロと解釈しておりました。

マップの方も、こちらの情報に早速差し替えさせて頂きますm(__)m
貴重な情報ありがとうございます!

橋の住所の位置の違いは、他の橋でも見受けられますので、単純に結構適当な調査だったのかなー…とも感じております(笑)

わかる範囲で当時の橋の詳細情報もアップしていきますね(^^ゞ

投稿: ima | 2010年9月11日 (土) 00時31分

>imaさん

すっすみません・・・ワイワイマップが見られないのはうちの職場のせいにすぎなくて、クックパッドも見られなくなっちゃって不便なのです(<仕事シロ)。もちろん移籍だなんて面倒なことはなさらず・・・
んで、ついに昭和8年のかう志んばしをわたしも確認してきました!いやぁぁーー、面白かったです!!あとは地元の方のお話をすこし伺ってから、記事にできればと思っております。ほんと、ありがとうございました。
橋の調査・・・、適当だったかもしれないんですねぇ。いくつもズレがあるなんて。それにしても、橋についてそれだけ丹念に調べられているなんてやっぱり凄いです。きっとこれから、参考にさせていただくと思いますのでよろしくです。

投稿: nama | 2010年9月12日 (日) 22時56分

nama様によって浮き彫りになった謎の数々、どうにも気になって現地へ行っちゃいました。
中野坂上から淀橋、旧小淀町を通って桃園川を遡上、中野センター跡を惜しみつつ、かう志んばしから中央西公園支流(仮)、西町天神支流(仮)を登って新中野駅へ。短い時間でしたが、堪能しました。
流路の変遷、上流(下流)の向き…それぞれの流れを推理してみました。詳細な古地図が見れていないので、namaさんの解決編を楽しみにしています。
中野センターですが、今まで良く残って居てくれたと、感謝したいです。今更ながら「江戸東京たてもの園」にでも移築されてたらなぁとか考えたり、やっぱり寂しいですね。
欅の件、良い話ですね!話を聞いてから見れて良かったです。

投稿: 鍵ノ手 | 2010年9月13日 (月) 15時54分

>鍵ノ手さん

こんにちは。なんだか、シンプルに解釈できるところをわたしが複雑化させていたらすみません、、、現地へ足を延ばされ、おたのしみいただけたならよいのですが。
それにしても結構歩かれましたね~!多少涼しくなったとはいえまだまだ暑いですよね。。しかし桃園川支流がぎゅっと詰まった素敵な旅ですね。鍵ノ手さんの推理、ぜひともうかがってみたいです。わたしのほうは今のところ、資料に矛盾もあってエクセレントな解決編にはならないと思われますので、消化不良の際にはご容赦いただければと思います。。
中野センター、たしかに、よくふんばっていましたよね~。。
あ、そうそう、以前このエリアは(地形を)弄られた可能性がある、上の方で書いたと思います。桃花小の敷地も、トロッコを使っての大がかりな土の移動があったようですし、このあたりの土の弄られ具合は流路を読み解くカギになるかもしれません。この情報がどこまで得られるか・・・もしかしたらほんとうの結論が出るまでには、だいぶかかることなのかもしれません。。ではでは、また~。

投稿: nama | 2010年9月13日 (月) 17時27分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 桃園川支流を歩く その31水車坂とその水源:

« 暗渠T図案決定総選挙 | トップページ | 暗渠沿いカフェ その2”SOAP” »