« 桃園川支流を歩く その22中央西公園支流(仮)も、かくれんぼ支流 | トップページ | 元・交通博物館、その後 »

桃園川支流を歩く その23奇跡の欄干「かう志んばし」

Nakano29

先日、コメント欄で谷戸っ子さまから貴重な情報をいただきました。それは、 桃園川緑道から少し外れたところにある、桃花小学校の正門前に、橋の欄干が残っているというもの。

さっそくそこらへんをぶらぶらしに行きました。まずは、中野通りをうろうろ・・・すると、染物屋さんがありました。
この場所、桃園川まであと三ブロックほどはあるので、川に隣接とは言い難いのです。裏に支流でもあったのか?と、裏道に回ってみることにしました。

Nakano30

すると、染物屋さんの裏にはちょっとした崖があり、そしてこのようなクネリのある緩い下り坂の道がありました。暗渠指数はまあまあの、3~40は行きそうです。

さらに、この左手の工事中とおぼしき場所は・・・、桃花小でした!もう着いちゃった、目的地w

Nakano31 そして桃花小の正門へと向かいます。

さっきの暗渠指数3~40の道から、角を曲がってこの道に出た途端、暗渠指数がググっと上がりました(6~70行きそう)!!さらに高低差のある崖下の、そしてクネリ道です。家の玄関からは階段で下りてくるのです。「あ~これ、(流れが)あったな。(にやり)」と、つぶやきたくなるような道です。

Nakano32

そのまま直進すると、

・・・(目を丸くするわたし)、

どわーーー!!!ありました!!!

ありましたよ~~すっごく立派な欄干!!

Nakano33

もう一枚。
片方の親柱には「かう志んばし」、もう片方には「大正13年」と書いてありました。

見てください。もう、ただ、見てください。

谷戸っ子さまは、「あの場所に、時代を越え今でも欄干が残っている、という事実が私には奇跡に思えます。」と表現してらっしゃいました。わたしも、同感です。

Nakano34

橋の下にはこのような暗渠といえなくもないような、空間がありました。しかし、上流を探索してみても、わずかな距離でこの隙間は消えてしまいます。橋の規模に対して流れが細いような気もするし、この空間が暗渠なのかどうかはまだよくわかりません。
それから、残念ながら反対側の欄干はやはり在りませんでした。

Nakano35

しばらく欄干に見惚れていましたら、ふとお向かいには、染物屋さんがあることに気づきました。
建物は新しいですが、古くから営んでいそうな雰囲気です(きっと最近までむかしの建物だったのでは。見てみたかったです)。

染物屋さんによって引き寄せられ、ゴール地点にもまた染物屋さん。

Nakano36

欄干の確認は出来ましたが、桃園川との位置関係を確認したいところです。

さきほどの暗渠指数の高い道をもどり、桃園川緑道に到達・・・。写真のだいぶ後ろの方に、桃花小の壁が見えますね。

そして、ここは。緑道が宮園橋を過ぎてカーブを描く地点なんですが、この車止めの配置がどうもいびつで、わたしにとってとても違和感のある場所だったのでした。ふとした違和感、これが何かとつながっていく瞬間はとても気持ちが良いです。Nakano37

さて。もうひとつ、つながりそうなものがあります。それは、この場所。前回書いた中央西公園支流(仮)の、東に向かう小さな流れ。

暗渠蓋が途切れる地点(写真の中央奥の赤い鉄の扉があるところ)を、ずっとヒキで見たところです。実はその地点から、ずうっとこの道をまっすぐ手前方向に歩いてくると、

Nakano38

このような、「今はコインランドリーだけど、ぜったいアナタむかし銭湯だったよね」的な建物の前を通過し、

Nakano39

ああなんと、この、桃花小の正門の前の通りに出るのでした。

左手に例の染物屋さんの看板が見えます。

Momosanmap_2 つまり、こう(yahoo地図を拝借)。今回、暗渠指数が高いと書いた道は、緑の線です。欄干以南は、歩けてはおらず推定を含みます。

そして、中央西公園支流(仮)の分流のような流れが、南からわずかに伸びてくる水色の線です。ただし、この水色の線についても、どこまでが川筋なのかははっきりしていませんが。

Momosanmap2_2 明治44年の古地図(5千分の1「豊多摩郡中野町」人文社発行)と照らし合わせてみましょう。

上の地図と共通する、中野通りを2つとも黄色い線で示したので、参考にしてください。一応南端と北端は近い位置で切っています。

桃園川の流れは、明治期の方がずっと南まで来ています。桃花小の敷地のすぐ西を通り、かう志ん橋らしき橋もみることができます。そして、中央西公園支流(仮)の一部と、小さな分流も(これは微妙にずれるので要検証ですけどね)

桃園川支流編として記事にしていますが、今回の小学校沿いの暗渠みちと橋は、なんとかつての本流のものだったのですね。嗚呼、道端の”違和感”というものは、やはりすばらしいものにつながるようです。なにより、情報をくださった谷戸っ子さまに改めて感謝いたします。きっとわたし、自力でここにたどり着くのは難しかったでしょうから・・・。
さらに、今回のことにより、今まで桃園川本流(=緑道)編と支流編のみで構成していた桃園川さんぽに、”改修前の本流編”が加えられるかもしれない・・・、と、あらたな楽しみができました。

|

« 桃園川支流を歩く その22中央西公園支流(仮)も、かくれんぼ支流 | トップページ | 元・交通博物館、その後 »

1-1 さんぽ:桃園川」カテゴリの記事

コメント

そういえば、先日の馬橋川ウォーキングの時、ケロキさんが「本来の桃園川は緑道より南側を流れていた」と仰られていましたね。
namaさんの検証結果と合致するようです。

投稿: リバーサイド | 2010年6月16日 (水) 22時36分

地図みくらべてコーフンしました。あの緑道はむしろ傍流だったわけで、この橋の下を流れていたほうがはるかに太い…。また現場を見る目が変わります!
すごい「発見」ではないですか!

投稿: lotus62 | 2010年6月17日 (木) 08時28分

bamaさま、

欄干写真、有難う御座いました。
とても懐かしく、もう涙ぐんで目をウルウルさせて拝見させていたきました。

この、かう志んばし欄干を直接自分の目で最後に見てからもう25年以上経っていると思います。(23年前に千葉県に引っ込んでしまいました)
当時は学校側の壁にくっつくように欄干が1/3程度残っていました。何故1/3か?というと、流れのあった部分が道になり通行の邪魔になる欄干の2/3程度は切り取られたと思われます。本当に写真を撮って無かったことが悔やまれます。
それから当時と違うところは、欄干の後側が駐車場とマンションになっていることです。25年ほど前の欄干からの上流の眺めは土の私道みたいなものが巾1~2メートル、奥行き10~15メートルぐらいあり、その道の突き当たりや両側には普通の1階~2階の木造民家が何件か建っていました。
ただ当時でさえ私が見る限り欄干から上流は暗渠跡は無い!と思いました。
欄干から下流は道となり流路は解りますが、いまあらためて考えてみても欄干から上流は(私の憶測、想像ですみません)おそらく流路であろう道もない!と思います。
何故か?
桃園川流域は大正時代より人が増え宅地化が進んでいったと聞きます。よって河川改修直線化工事も早かったのでしょう。
逆に直線化工事が後手後手になっていたら周囲は家が増え過ぎて旧流路のまま川は残り、平成の時代緑道として残っていたかもしれません。(そうなると逆に欄干取り除かれてたりしましてね(笑))

それとこの橋の竣工は大正13年、関東大震災の翌年。
それ以前の橋が木造かどうかは解りませんが、コンクリート製というと何か感じるものがあります。。。

またまた、いろいろ、かってなこと書いてしまいすみません。

また、これからも、あちらこちら暗渠を紹介してください。
楽しみにしています。千葉の空の下から。。。

投稿: 谷戸っ子 | 2010年6月17日 (木) 12時52分

すみません。
先の書き込みにてnamaさまをbamaさまと誤字してしまいました。
ご勘弁してください。。。

投稿: 谷戸っ子 | 2010年6月17日 (木) 22時20分

確かにこの橋が残っているのは奇跡ですね! 素晴らしいです。暗渠仲間の方でご存じの方はいらっしゃったのでしょうか?

桃園川で旧流路跡の遺構というのも聞いたことがないですし、その意味でも貴重ですよね。
我が(?)石神井川では割りと旧流路跡らしき物はいっぱい残っているのですが、こんな見事な橋跡はありませんね。たぶん。

ちなみに、桃園川のこの橋はグーグルのストリートビューでも見られます。

投稿: 猫またぎ | 2010年6月17日 (木) 22時50分

>リバーサイドさん

わたしもケロキ師匠の言葉を思い出していました。でもわたし、「緑道≠桃園川、の場所もある」としか記憶していなくて・・・。南側、っていうの聞き逃していたかもです。
今回の場所は確かにずっと南側ですね。だけど五差路の下流側は大体同じ位置に見え、つまり改修前の本流の位置はバラバラで、かなり追究し甲斐がありそうです!

>lotus62さん

そうですね、去年の桃園川歩き初回の頃とは確実に感覚が違いますね。地図の見比べ、わたしもかなり興奮しまして、その日の予定を1つ削ってしまったくらいですw

>谷戸っ子さん

喜んでいただけて、何よりです。25年ぶりとは・・・それはそれは、懐かしく感じられることでしょうね。
当時の情報、すばらしいです!!うかがっていてワクワクします!切り取られた欄干、土の道。。上流方向は建物がずいぶん違ったみたいですね(ただ、はじっこにとても古いアパートがあったので、それは当時からのものっぽいです)。改修後も、細流でもあったのかと思いましたが、そのお話だと無さそうですね。改修の歴史がかなり気になってきたので、支流編が終わったら、改修前の本流編&その歴史についても調べ調べ書こうと思います。
大正13年ときいて、関東大震災と思い至りませんでした・・・そうだったんですねぇ。
こうやってお話を伺えるということは、ほんとうにありがたいし貴重なことと思います。今後も、ぜひいろいろとお教えください、よろしくおねがいします。
(名前のことは、どうぞお気になさらずに~~。)

>猫またぎさん

前出の「ケロキ師匠」は、桃園川のことにかなりお詳しい(なので師匠呼ばわりw)ので、ご存知なんじゃないかな~と勝手に思っています。それから、暗渠歴10年以上の大先輩方は、ご存知かもな~とこれも勝手に思っていますw
桃園川の旧流路自体はぽつぽつありそうなんですが、遺構はたしかに聞いたことありませんね。旧流路をくまなく探してみたくなっています。
石神井川旧流路、なんとなく立派な橋跡とかありそうなイメージ(←勝手な)がしていますが、そうですか、、、。

ストリートビュー!!その手がありましたね!・・・なんというか、その手をよく忘れてしまうんですw

投稿: nama | 2010年6月18日 (金) 09時46分

大正13年製とは素晴らしいですね!地図との対比による検証も鮮やかです。暗渠(川跡)のほうは消滅してしまっているのに欄干だけが残っているのは奇跡的に思えます。この欄干、たしか5年ほど前に私のサイトを見た方からメールで教えて頂きましたが、確認しに行けずにいました。もしかして、谷戸っ子さんではないでしょうか?

投稿: HONDA@東京の水 | 2010年6月19日 (土) 16時37分

>namaさま、


明治44年の古地図(5千分の1「豊多摩郡中野町」人文社発行)!

こんな古地図があったのですね。私は今回namaさまのレポで初めてこの地図を見ました。またまた取乱して興奮しております。(最近、血圧上がり気味でヤバイかも?(笑))
そしてこの地図が、なんと売られていて手に入るなんて血圧170越えも夢じゃないです。

早速、人文社発行さんのホームページを見にいきました。すると中野区の地図に今現在値段が入っておりません???
再版発行待ち???

近日中に電話で確認したいと思います。


>HONDAさま

10年ほど前に某暗渠サイトの方に連絡を入れさせていただきました。その方は現地で欄干を確認されて、『まだ、残ってます』とメール連絡をくださいました。
その後、パソコンがロックしたりして、リセットすること多々。その方のサイトがどれだったかは今でも思い出せません。その方には申し訳なく思っております。(冷汗)


5年くらい前、私からHONDAさまへ連絡の件ですね?

私は、この欄干の情報を聞きたくて、ご連絡入れさせていただいたのは、namaさまで2人目と思っています。
が、、、ふ~む?
5年ほど前?記憶が定かじゃない。。。

でもHONDAさまのHPを、まさにいま拝見させてもらいましたら、、、あっ、この方のHP!!!
確かに以前から、たまに拝見しておりました。

私の記憶~。。。
HONDAさまに、ご連絡してたのかな~?

その連絡文中に、(千葉に引越しして)とか(千葉)とかいう言葉ありましたでしょうか?
もし、あれば、間違いなく私がご連絡したと思います。
もし、そうならnamaさまが3人目ということになります。


しかし、インターネットは凄いですね。
昔なら、自分で現地まで行かないと確認できないことが、いまは、こうして繋がりを持てた方の情報により、すぐに知ることができるのですから。。。本当にnamaさまには感謝してます。。。


PS.私が最初に連絡入れさせて頂いた方も、もしかしたらnamaさまのリンクに入っているのかも知れませんね。ネットの力は本当に凄いと改めて感じます。


投稿: 谷戸っ子 | 2010年6月20日 (日) 08時23分

谷戸っ子さま。
メール、探してみたら残ってました。元々中野区在住で、今は千葉市と書かれていました。5年前当時で、25年以上前にこの橋を見たと書かれています。ほかに谷戸川(中野駅北口からながれている神田川の支流)と、上高田2丁目から流れ出す妙正寺川の支流のことを書かれていました。どうでしょう?
(namaさん、コメント欄お借りしすみません)

投稿: HONDA@東京の水 | 2010年6月20日 (日) 17時00分

namaさまへ、
私もコメント欄をお借りしてすみません。

HONDAさま、大変失礼しました。5年前のそのメールの文言を見て思い出しました。送り主は私です。

5年まえのメールが残っていたなんて感謝です。

そうですね、最後に直接自分の目で見たのが今から25年ほど前です。

中野在住時は、あの欄干を何回も見に行ってます。家から自転車で20分ほどで行けたので。
欄干を始めて見たのは(発見したのは)昭和46~47年ごろだったと思います。(38~39年前)

千葉に引越してから中野へは行ってませんが、ネットを通じて、みなさまからの貴重な情報を知ることが出来るのは本当に嬉しく思います。

そして、namaさまへ、
namaさまの『暗渠さんぽ』HPを通じ、HONDAさまにネット再会出来たこと、感謝しております。

投稿: 谷戸っ子 | 2010年6月20日 (日) 22時13分

>HONDAさん

やはりご存知でしたか~。ほんとにココ、すばらしいです。ぜひいつかご覧になってください。

>谷戸っ子さん

この中野町古地図は、地元の方でしたら本当に血圧急上昇ものだと思いますw わたしも知っている場所が多いため、何回見ても、何時間見ていても飽きません。(杉並区もシリーズに入れてほしいんですけどねえ。。)


そして、谷戸っ子さんとHONDAさんのやり取り、かなりうれしく拝見しております。5年ぶりの(しかもおふたりともPCの故障?を経てのというのがまた凄いです)再会!ほんと、ネットって凄いですね~~!
5年前のわたしは、暗渠の「あ」の字も知らなかったわけなので、そういった意味でも感慨深いです。おふたりとも、今後もいろいろと教えてくださいませ~~。

投稿: nama | 2010年6月21日 (月) 10時21分

かう志ん橋から、ものすごく複雑に支流が流れていたのですね...
一本の支流にしてはそこかしこに痕跡らしきものを見かけたり見かけなかったりするので、不思議に思っていたのです。
それにしても昔の地図ってすばらしい...感動です。

投稿: 味噌max | 2010年10月13日 (水) 09時43分

>味噌maxさん

こんにちはー。明治期は灌漑用水路が多くて複雑だったようですね~。「そこかしこに痕跡」、ありましたか!わたしはあんまりちゃんと見つけられていないかも。。
この明治44年地図は、水路の色がくっきりしてるので、わかりやすくて大好きです。白黒のやつも宝探しみたいで面白いですけどね~。むかしの地図ってほんとに良いですよね~~!!

投稿: nama | 2010年10月13日 (水) 19時06分

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 桃園川支流を歩く その23奇跡の欄干「かう志んばし」:

« 桃園川支流を歩く その22中央西公園支流(仮)も、かくれんぼ支流 | トップページ | 元・交通博物館、その後 »