晴れたので、帰京前にもう1さんぽ。
朝、わりと早い時間に、朝食をすませ爽やかに「ちょっとさんぽいってくるね!」と言って出てきたわけですが、じつはこんなこと実家でするの、nama史上初です。(朝はだらだらしちゃうのです。)
あの名無しさんの始点についてちょっと思い当たるふしがあったので、河原へいくことにしました。
馬見ヶ崎川。川をちょっとのぞいてみると、魚がちょこまか逃げていきました。
ずっと「はや」と呼んでいる魚なんですが、これはどうやら共通言語で言うところ「うぐい」みたいですね。
この焼けこげは、芋煮会の跡です。
芋煮会はこのように川辺で、石を集めてかまどを作り、大きな鍋で作って、その脇にビニールシートを敷いて皆で宴会のようにやるものです。芋煮シーズンは秋いっぱい続くので、毎週末こういう焼けこげがあちこちにできます。
見に来たのは、ここでした。
馬見ヶ崎川の本流の脇にある、親水ゾーン。ここは今じゃとくに生物もおらず、泥が底にたまって入りたくない感じですが、私が幼稚園の頃はもっときれいで、メダカとおたまじゃくしがいっぱいいて、夢中になってつかまえていたものです。
ここの終点部分が前日から気になっていました。
終点部分。いままで、気にしたこともなかったところ。
このような堰があり、この数十メートル右、道路を挟んだ向こう側に、消防署があるのです。
つまり、ここから取水→消防署の下に防火水槽的なものがあり、そこに一時貯水→余分があの名無しさんとなる。
と考えるととてもしっくりくるのです。ネット上で調べてもなかなか答えが見つからなかった(消防署の敷地内に防火水槽がある場合は多いらしい、というくらい)のですが、これはなかなか当たってそうな気がしています。
つまりは、あの名無しさんは、川の水!親水ゾーン、じつは機能的!オトナの知恵、すごい!
と、興奮していたわけですが、更に続きが・・・。
あの堰には「宮町堰」と名がついていて、「ん~、宮町はもっと遠くにあるのに、なぜに宮町?」と浮かんだちょっとした疑問。ぐぐってみました。すると・・・(以下、県庁のホームページから引用)
「山形五堰
山形五堰は、「笹堰(ささぜき)」・「御殿堰(ごてんぜき)」・「八ケ郷堰(はっかごうぜき)」・「宮町堰(みやまちぜき)」・「双月堰(そうつきぜき)」の五つの水路の総称です。当時の山形藩主鳥居忠政公がお堀への水と生活や農業に使う水を引くため、堰を設けたことが始まりです。
市街地を網の目のように流れる堰は全国的に珍しく、山形市の景観の特徴となっています。
やさしい景観を生みだし、生活に潤いと安らぎをもたらす昔ながらの石積水路は、後世へと残したい貴重な歴史的遺産です。 」
パンフレットまで用意してあるそうです・・・。わあ、名前、ついてましたw あの名無しさんは、宮町堰という名のついた立派な用水路で、1624年生まれなのだそうです。
それから、wikiから引用すると、「明治初期に入ると山形五堰は農業用水、生活用水はもちろんのこと、水車を利用した製粉業・精米業や、養鯉・染物・鰻問屋など様々な産業にも活用された。 高度経済成長期に入ると生活排水・工業排水の流入により水質の悪化が急速に進んだ。また、このことから利便性が重視され,石積み水路からコンクリート水路に改修された。」とのこと。
水質悪化した時期もあったのですね。石積みが残されている上流部は、助かった地域だったということでしょうか。あと、製麺所の水車は、明治時代ほんとに使われていたのかもw はぁぁ・・・しかし世の中、知らないことばっかりなんだなあ。あの水路を正式名称で呼んでる人なんて見たことなかったし、こんなの全然知らなかったです。
けれども私にはこの五堰は、(知識としてはなくても)日常生活の中できっちりと体に染み付いていて、かなりあたりまえの景色になっていました。以前、自分にとって側溝は身近だと書いていましたが、それはこの用水路が張り巡らされ、なおかつ今でも地元で大事にされていたからで、もしかしたら山形特有のことなのかもしれません。
私が慣れ親しんでいた、残りの水路もちょっとご紹介。写真を撮ったときは、名無しさんたちだと思い込んでいたのですけど・・・ちゃんと本名でご紹介します。
御殿堰。
ここは数年前までもっと野生的な感じだったのに、めちゃめちゃきれいになっちゃってます。
もっと粗末なガードレールに囲まれ、古めかしいコンクリートを流れていたのですが。。。ここを渡ったちょっと先で、部活の友達と待ち合わせて、中学校に行ってました。
御殿堰、さっきの写真のちょっとだけ下流部です。
ちょっとだけワイルドですね。うん、まあ昔もこんな感じだった気がします。
八ケ郷堰。
ここは河原に遊びに行くときに通ったりもしていたのですが・・・水が枯れちゃってますね。
八ケ郷堰、もうちょっとだけ下ると、こんなふうに蓋暗渠になり、だれかの家の駐車場として使われていたりします。こういう景色は、いままではただの駐車場だと思っていて、目に留まっていなかったです。
八ケ郷堰をまた少し下ります。
そうするとこういう立派な開渠になり(今は水が枯れていますが、いつ見てもわりとごうごう流れていました)、この写真の見切れてる左側に、たいやき「わかば」があります。この、わかばのたい焼きは、とっても美味しくって、「たい焼きっていったらわかばだよね!」は山形市民の共通認識だと思います。
そして東京でもこの言葉が通じるのでいささかびっくりしましたが、山形のわかばはどうやら暖簾分けみたいです。四ツ谷のわかば、買いに行ったら、包み紙が一緒で、そして味もおんなじで、うれしくなっちゃいました。
そして・・・八ケ郷堰をもう少し下ると、このように暗渠となります。
じつはここ、私が高校へと向かっていた通学路です。いまやちょっとこぎれいなコンクリ蓋暗渠(手前)とアスファルトですが、当時はもうすこし汚かった気がします。
というか、むしろ向こう側のアスファルト部分、思いっきりコンクリ蓋暗渠だった可能性があります・・・私がそう思いたい、というのもありますが。
思い出せないなぁ・・・。今回初めて知ったのですが、地元にも暗渠ってあったのです。山形は土地だって豊富に余ってるし、東京ほどの急激な近代化もなさそうだし、暗渠を作る理由がない、とか勝手に思っていました。ところがそうでもなかったのですね。
これは笹堰。
とくに力を入れて整備したようで、以前とぜんぜん違います。以前はただの大き目の側溝としか思っていなくて、そういったかんじの見栄えだったと思います。
ここも中学のときによく通りました。部活友達(うちの中学は学区制ではないので、近所の友達というのがありませんでした、したがって一緒に登下校するのはこの友達ひとりw)と、帰るルートが何種類かあって、とくにどこにも寄らず、買い食い(第一パンのメロンパンと、ヤマザキのアップルパイが好きだったな~)だけするときはこの道を通りました。
そして、ここも笹堰、の、暗渠部分。
ここは、ゲーセンやカラオケに寄る場合の帰り道でした。ゲーセンといっても、中学のときはUFOキャッチャーに燃えるかわいいものです。高校になって格ゲーデビュウを果たします。
ここは全然変わってないです。コンクリ蓋暗渠・・・。私、いっぱい通ってたんだなあ、蓋暗渠の上。
暗渠に興味を持って、最初に桃園川の上流部のコンクリ蓋暗渠をみたとき、あたかも初めて見たみたいに大興奮してたけど、そしてほんとうにいままでそう思ってたけど・・・。
(ただ、蓋暗渠の上を歩いているときの感覚は、なんだか違うんです。山形で歩いてるときは、ただの”道”。東京の蓋暗渠は、ロマンやら冒険やらいろんな苔や虫やにおいやら、色々詰まっているのです。なんでかな?)
最後に、宮町堰の流れを、もういちど。
雨のときより、音がマイルドになっていました。「ざ、ざあ」じゃなくて、「コポコポ、コポコポ」と。とても癒される、良い音でした。
これで、私の回顧的開渠(&暗渠)さんぽを終わります。
思いがけず、有名な水路さんたちだったことは意外な収穫でしたが、やっぱり、私はこういった小さめの川や水路が好きなんだよな、とすっきりもしました。この思いをさらに重ねながら、これからも暗渠をめぐろうと思います。
最近のコメント