金太郎計測

今回は、「わかるひとにしかわからない度」が、非常に高い記事の予感。
しかし、どうしても調べたくなってしまったのです。
そのきっかけは、「阿佐ヶ谷暗渠マニアック!」の講演準備中、最近見返していなかった資料たちに久しぶりに目を通したときに現れたコレ。うっとりするような若々しい金太郎(注)がいたのでした。
Kintaroumukasimini
                     (”高円寺 村から町へ”より)

注:車止めは暗渠サインのひとつですが、かならず暗渠上にある、遊歩道と書かれた”杉並区オリジナルの車止め”というものが存在します。描かれたイラストが、熊&またがりまさかりをかついだ金太郎なので、諸々省略して「金太郎」と呼んでいます。

古くなり、どんどん姿を消してゆく金太郎。おそらく30年ほど前の写真で見ると、今見るよりもずっと真新しいので、見入ってしまいました。そして、ふと、あることに気が付きました。
・・・パネル部分の外枠って黒かったっけ?
Kitakinhiki
 
よく見る金太郎は、こんなふうに、最も外側は白いはずなんです。黒枠の金太郎なんて、いたかな・・・

手持ちの写真を調べてみると、いたいた!一体だけ、いました。
Imakin0
 
六ケ村分水、今川支流(仮)上にある金太郎。
これは黒枠だし、最初の写真と同一のパネルのようです(設置場所は違います)

この今川の水色金太郎は、多くが赤か緑のなか「水色」というだけで(あとから塗られたものでしょうけれど)かなりのレア金太郎だったのですが、「黒枠」という点でもレアという、本当に希少種であることが判明した、というわけです。

さて、この白枠と黒枠、どうしてこのような違いが出たのでしょうか。
 
・車止め自体のサイズが違うため、トリミングして使われている
・使用年代か何かの違いにより、異なる業者が製造している
仮説はふたとおり挙げることができましょう。
まずは、1つめの仮説を検証するため、計測しに行ってきました。
Imakin0_2
 
今川の黒枠金太郎。横は内径45センチ、外径55センチ。縦は内径60センチ、外径70センチ。
次、白枠の金太郎。

Ozakin
 
小沢川支流上流端にいる金太郎。この真新しい緑色も、珍しいですね。
測ってみると、横は内径45センチ、外径55センチ。縦は内径60センチ、外径70センチ。おお、黒枠さんと同じサイズでした。
 
念のため、もうひとつ別な暗渠で測ってみましょう。
Kitakinhiki_2
 
桃園川北側流路(仮)の金太郎。
横内径45センチ、外径55センチ。縦内径60センチ、外径70センチ。うん、どうも、統一された規格があるようです。

ちなみに、この金太郎は顔が剥がれてしまっているので、もっと状態の良いはずの、上流部分のものを見に行きました。
Kitaima
 
と思ったら、いつの間にかなくなっていました。ああああああ・・・・・

Kitamukasi
阿佐ヶ谷は松山通りに面するところ。少し前までは、こんな風に鎮座していたのですが。
はぁ、残念。やっぱりどんどん失われていっていますね。

ところで、
Imakinkakudai
 
よく見るともう少しだけ、違いを感じませんか?

Ozakin0
・・・ほら。

並べてみると、
Hikaku1

うわぁ、顔、めっちゃ違う!!

ほかにも、細かいところが微妙に微妙に違っていて、

Hikaku2
もうこれは、違う人が描いたものといってよいでしょうね。
そして、違う業者さんに委託したと考えていいのではないでしょうか。
さきほど2つ掲げた仮説のうち、
・使用年代か何かの違いにより、異なる業者が製造している
こちらは残され、次なる検証をする必要が出てきました。検証材料としてなんの資料に当たればいいかは見えているのですが、結構時間がかかりそうなので、第一の検証はひとまずここまで。

白枠とか黒枠とかいうのもちょっとややこしいので、
「細眉金太郎」→杉並区に置いて現在ほとんどのシェアを占める白枠のほう
「太眉金太郎」→現在非常にレアになっている、黒枠のほう
と、眉で呼び分けたいと思います。
で、あちこちにある金太郎、ほんとに細眉でしょうか?・・・確認してみましょう。
Kitakinhiki_3
 
さきほどの、桃園川北側流路(仮)の剥がれちゃったやつ。
この金太郎だってよく見ると、
Kitakintarou
おおー、眉だったら片方だけ残ってるよ!!ヤッタ!
でもって、細眉金太郎でした!YEAH!

Igusahiru
井草川にある、後ろ向き君はどうでしょうか。
Igusakintarou
ああ、やっぱり細眉だ。
先日の展示用につくった金太郎顔ハメパネルはどうかな~?
Kaohame
 
おお。意識してなかったけど多数派だった。細眉金太郎だ。
ではでは、昨年作った、金太郎焼きゴテは・・・?

Yakiin
ああっ、なんと、眉が無い!前髪の切れ込み具合は太眉金太郎っぽく見えるけれど、これは珍種の眉無し金太郎だ・・・!

Kintaroupan
この眉無し金太郎、オズプラスのパン特集号にもちゃっかり載せていただきました。
はからずも、太眉くんと細眉くんがケンカしないですむ結果に。

Kintaroumukasimini
まあ、そんなこんなで、もう見尽くしたと思った対象にも、まだまだ秘められた奥深さがあるということを実感したのでした。
さあ、設置年度の検証等、つぎの作業もたのしそう。ですが、それはまた少し先の機会といたします。

この1年の間にも、少しずつ減っている金太郎。次歩くときは、眉毛の太さを確認したりなど、してみてはいかがでしょうか。
 

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勝手に暗渠強化月間の御礼と、ガード事件追記

まずは御礼から。

2週連続企画だった阿佐ヶ谷暗渠マニアック!(座学&フィールドワーク)、
カルカルでの境界集会、
4月のイベントが無事終了しました。
雨だったり、予定時刻より早く始まったり(笑)、いろいろありましたが、ご参加のみなさまにも、スタッフのかたがたにも、たいへんお世話になりました!どうもありがとうございました。
遡って先月の各種暗渠イベントにお越しくださったみなさまにも、改めて御礼申し上げます。
ひといきついたら、またエンジンをかけなおしたいと思います。

あ、そうそう、そうこうしている間に、東京スリバチ地形入門と東京暗渠散歩に増刷がかかりました。ありがたいことです。

今日は徒然書きになっちゃいますが・・・中央線ガードなすりつけ事件の追記をば。
あの記事を書いた後、中央線高架化の時期等について、情報をくださったかたがいらっしゃいました。おふたりの許可を得て、ここに掲載します。tweetをつなげるため、原文を多少変更しましたがお許しください。

「骨まで大洋ファン」さまからの情報。

交通技術1962年8月号に「中野―三鷹間線路増設工事」開始の記載あり。
昭和36年に高架工事着工とあるため、国鉄と杉並区の争いはスルーではないか。
「昭和32年頃から議論されていたという記載を考えると昭和33年に揉め事になるというのも奇異な感じが」とも。


(→「頃から」あたりが割と微妙なことで、当該エリアでは少し後から話が来たのかもしれません・・・あるいは「32年頃」という記述そのものがずれている可能性。などと、わたしとしては思います。)

「ふろっぐねすと」さまからの情報。

現在の中央線ガード(馬橋架道橋)は、昭和41年、中央線中野~荻窪間が複々線化されたときに完成。青梅街道の天沼陸橋の部分がネックだったので、この高架部分は昭和40年には完成していたのではないか。昭和41年の複々線化に先立って、先に中央線高円寺~阿佐ヶ谷間(前後を含む)の高架化も行われている。
複々線の用地を使って、複線の線路を1本ずつ上に上げていく。こちらは、昭和39年にはでき上がり、それから残った用地で、複々線にした。中央線の桃園川をまたぐ盛土部分は、昭和39年に高架化されて解消し、現在の形になったのは昭和41年。高架複々線の計画はおそらく昭和32年ごろにはできていると思われる。
昭和33年に杉並区と係争があって、同時進行で国鉄側は高架複々線化を計画中、高架化が6年後の昭和39年、そして昭和41年に現在の形、という流れ。杉並区と国鉄の係争は、「もうすぐ高架複々線にしてガードを広げます」という話になったのではないか。

(なるほど!とすっきりする結論!)

おふたりの情報を合わせると、ちょうどこのなすりつけ事件の最中か後に、国鉄が話を出して、いつのまにか騒ぎは収まったのかな、という気がします。骨まで大洋ファンさん、ふろっぐねすとさん、ありがとうございました!

その話題のガードの写真を、オマケで。

Gado
その昭和33年の杉並新聞の写真です。
この2年前、常磐線において、ガードの低いところをトラックが荷物を満載して通ったら上がぶつかって、線路をひんまげてしまい、列車が転覆したという事件があったそうで・・・

たしかに、そんなことになったら怖いし、この写真を見ると地元の人が騒ぐのも、さもありなん、という感じがしますね。

・・・ん。常磐線の低いガードっていうのも、もしかするともとは水路用だったりとかしないかしら・・・?(謎は続く・・・)

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松庵川展のおしらせつづき

松庵川展、西荻案内所にて開催中です。

バーやクイズなどミニイベントをいくつか終え、きょうあすは、ゆったりと展示を見ていただく時間となります。これまでいらしてくださったみなさまには、本当に感謝です。

本日のイベントは、夜から。
18:30頃-暗渠花見酒マラソン松庵川編、です。

Shouangawaten

展示物は西荻の地で得た、何にも載っていないオリジナルの情報も多々。

Shouangawaten2

 

杉並暗渠オリジナル顔ハメ、

Shouangawaten3

暗渠化工事、暗渠パズルなど、体験コーナーっぽいものも設けています。
暗渠サインパウンドケーキ紅茶とオレンジ味も、限定販売。
バーは終わりましたが、「どぶ」「どぶのうわずみ」「どぶクリームソーダ」はまだ販売しているので、一杯注文し、飲みながら展示を見るということも可能ですよ。

明日28日18時にてこの展示も終了。
西荻案内所は31日に閉所です。もし近くに来られることがあったら、ふらりとお寄りいただければ、たいへんうれしいです。どうぞよろしくお願いします!

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3月イベントのお知らせ

3月後半、いくつか暗渠のイベントをしますので、ぜひいらしてください!
1つめ。 3月20日(日) 昼
西荻ラバーズフェス の古本屋ステージにて、
11:15頃から、
「ロスト・リバー・ハンティング~暗渠道入門」(トーク&ツアー)
少しだけ暗渠の話をして、1時間半ほどのツアーを行います。
ツアーは、フェス会場から始まって2か所の用水路暗渠(六カ村分水)をたどり、その地のむかしに思いを馳せるもの。特別に潜入?する場所もあります。
10~15名ほど、参加費無料。
当日会場で希望者を募りますが、予約者優先、予約されたい方は西荻案内所まで。
2つめ。同じく3月20日(日)夜は、
「観光まちづくりシンポジウム すぎなみ「道草のススメ」 桃園川と飲み屋街散歩」
というトークをします。
午後5時 ~ 午後7時
開催場所:細田工務店リボン館2階(阿佐谷南3丁目35番21号)
内容:杉並区内に迷宮のように広がる桃園川(暗渠)と中央線沿線に今も広がる風情ある個性的な飲み屋街をテーマに、歴史的背景から生み出される個性的な「まち」の形成について各専門家による独自の視点からお話し頂きます。
申込:当日、直接会場へお越しください。
講師:吉村生(暗渠研究家)、髙山英男(暗渠研究家)、小川勝久(マイタウン阿佐谷協議会会長)、森口剛行(阿佐ヶ谷飲み屋さん祭り実行委員長)、松原隆一郎(杉並まちなみ愛好家・東京大学教授)
定員:120名(先着順)費用無料
3つめ。3月21日(祝)は、船橋にて、
「暗渠マニアック!+千葉スリバチ学会 滝口さんと歩く城門川」
というまち歩き。
集合場所:飛ノ台史跡公園博物館(※)の入り口前に午前10時集合。
※東武アーバンパークライン(野田線)「新船橋駅」から徒歩約8分、東葉高速線「東海神駅」から徒歩約12分、京成線「海神駅」から徒歩約15分。
小雨決行(悪天候の場合の中止連絡は千葉スリバチ学会のページで行います)、途中参加、途中抜け可、参加費無料です。
午前の部 集合10:00 @飛ノ台史跡公園博物館
飛ノ台史跡公園博物館の山本さんに公園内、行田海軍無線塔跡地、日本建鐵跡地を説明していただきながら散歩をします。その後、昼食休憩。
午後の部 再集合13:00 @飛ノ台史跡公園博物館前
船橋地名研究会会長の滝口さんによる説明を聞きながら、城門川を水源から下ります。
申し込み不要。午前か午後どちらかだけの参加も可能です。
4つめは、3月22日~29日。
「松庵川展」を、西荻案内所で行います。
こちら、会期中にさまざまに形を変える、いきもののような展示になりそうです。
詳細は追って。
4月5月も予定あり、後日お知らせします!

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中央線ガードなすりつけ事件

今回は、東京人中央線特集号でボツになった、小ネタをひとつ。
中央線と桃園川を絡めた記事を書いたのですが、その中にどうにも組み込めなかった、暗渠が巻き起こした騒動のお話があるのです。お得意、杉並新聞からの情報です。


ではさっそく、昭和33年の阿佐ヶ谷~高円寺に飛んでみましょう。

                   ***

 

杉並学院高校(旧菊華高校)の周辺には、そのむかし、ぐるりと水路が走っていた。

Senro7

              東京時層地図「高度成長前夜」からキャプチャ

  

菊華高校のすぐ南を川が流れている。これは桃園川本流で、現在は緑道になっているところ。

ほかに水路は描かれていないものの、青丸の位置にも流れてくる傍流が、ある時期まではあった。いまは、北側支流や北側流路などと呼ばれる、非常に素敵なカーブ蓋を持つ暗渠のことである。

 

Senro6

                東京時層地図「明治のおわり」よりキャプチャ

明治の地図を見ると、もう少しわかるかもしれない。桃園川が田圃のための用水路として現役だったころだ。この田圃マークの中を、3~4本の水路がうねうねと走っていた。そこに学校ができ、水路の名残が南北にあったというわけだ。

また、菊華高校の脇の桃園川本流には、雨乞いのための場所があった。

Senro8

ここが、雨乞いをした場所と言われているところ。これも、もしかするとこの地に水が集まってくるからなのかもしれない。
現在はただの緑道で、そういえば桃園川の手描き水路マップが石碑になり置いてあるところ。むかしもいまも、人が足を止めたくなる場所、なのかもしれない。

さきほどの地図で青印がついていたところは、今は何の変哲もない中央線の高架下である。しかし、数十年前は盛土の上に線路があって、ところどころガードで抜けていた。そのガードが、昭和33年、ちょっとした事件を生んでしまう。

このガードが矮小であることが、そもそもの発端。
幅3m弱、高さ2.5mしかなく、トラックがぶつかってしまう危険がある、という。
困るのは地元の人たち。改善の必要がある。しかし、誰が、どこのお金で・・・?


杉並区と国鉄との、言い争いが始まる。

国鉄の言い分としては、

「このガードはもともと阿佐ヶ谷周辺の湧水処理のためにつくられた。それを暗渠化したものなので、サイズは水路用の規定2.5m(道の場合4m)にしてある。それが勝手に道路にしてしまったのに文句を言われても・・・」

というもの。

区役所の言い分としては、

「大正時代からここは道だから公道なのに・・・」

ということで、話が進まない。
近所の人は戦々恐々だというのである。昭和33年というと、

Senro7

ちょうどこの頃だ。
青印のところが事件の舞台である。たしかに道だ。
そうか、この頃はすでに高校北を流れる傍流は暗渠化されていた、ということか。「阿佐ヶ谷近辺の湧水処理」というと阿佐ヶ谷弁天池を思い浮かべるが、阿佐ヶ谷弁天池は本流の近くであり、本流に流せば済む。阿佐ヶ谷弁天池以外で湧いた水も、このようにガードを拵えるほどに大量だった、ということなのだろうか。
 
現在のながめは、こうである。

Senro1

すっかり大きなガードになっている。あのあと、どちらかが折れて工事が行われることはあっただろうか。そのまま、現在のような高架化の工事に至ったのだろうか(後者のような気がするが)。

ここを、むかしはこんな争いがあったのか・・・と思いながら通り過ぎるのも、またおもしろい。

 

Senro3

そういや、ガードに水路っぽい名前はついていないものか?うろうろしてみたが、ガードの名前は見当たらなかった。
ガードというか、全体に高架だから、わざわざ道路と交差する場所に名前など付けないのだろうか。

 

Senro10

上流に移動し、桃園川本流の上に立つ。

ここにも、ガード名を書いたプレートはなかった。

Senro11

しかし、馬橋架道橋というプレートはあった。これは、さらに上流。
駅近く、もともとの道路が交差してくるところである。

 
桃園川緑道と中央線の交差も、考えてみればもともとは道はなく水路のみ(前掲の地図でもそう)。水路のためのガードは、特に名前がつくことはないのだろうか。たとえそれが道になっても?
解けない疑問も残ったが、北側支流の中央線近辺の暗渠化は本流よりも早く、大正時代かもしれない、ということなど、新たな暗渠情報も得られたネタであった。
 
さて、ゴハン。

Senro12

富士ランチ(本blog登場二回目)。
ハンバーグカレー、680円也。

期待どおり、懐かしいような、うちのカレーという味がした。まろやかで優しく、ほっとする味。
ところがそれだけじゃないんです。中に忍び込ませたハンバーグは、店主が目の前で丁寧に成形しじっくり焼いたもの。一口ぶんスプーンで切ろうとすると、肉汁がちろちろと溢れ出る。その肉汁をカレーにまぜて、そしてハンバーグのかけらと白米とともに、お口にダイブ。
・・・至福。
富士ランチ、本当に阿佐ヶ谷の宝です。

阿佐ヶ谷は、そんな昭和やら、水路をめぐったエピソードやらが、ところどころに隠れた街。それにしても・・・結局、あの争いはどう展開したのかな。やっぱり気になってきたので、もうちょっと調べてみたいと思います。

 

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東京人中央線特集に寄稿しました

おしらせです。

2月3日発売の東京人3月号は、10年ぶりの中央線特集です。
中央線のいまを彩る、妖しい魅力に満ち溢れた一冊。その「中央線の魔力」にて、記事を書かせていただきました。

Tokyo3_2

既出ネタもありますが、新ネタも織り交ぜ、「桃園川と中央線の関係」について書いてます。

大好きな桃園川、そしてずっと好きだった中央線。何種類かの縦糸をうっすらと編み込み、独特な暗渠記事にしてみました。

最後にはお店紹介も。ここぞと気合を入れ、唯一無二の個性派7店舗。すべて暗渠に絡めて紹介しています。

よく見てみれば、桃園川が登場する箇所はほかにも。それから、中央線がらみでお世話になっているかたたちもたくさん登場されています。・・・濃いんじゃないかな、と思います。

ぜひぜひ、お手に取って見てみてください。どうぞよろしくお願いします!

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滝口さんと歩いた宮本川

お久しぶりの更新は、いつのまにやら大晦日。

2015年は、暗渠を通してさまざまなひとたちと出会い、新たな試みをおこなうこともできた、実に幸せな年でした。暗渠マニアック!発売以降、いよいよ日々の発信が出来なくなってしまいましたが、何かしら「貯めて」はいますので、ごゆるりとお待ちいただければ・・・と思います(すみません)。
2015年最後の記事は、暗渠マニアック!的宮本川ツアーの、後日談とします。
船橋の章は、現地の往復、そして郷土史家による文献を読み漁って書いたものでした。もっともお世話になったのが、滝口昭二さん。実に幅広く地元の歴史をしらべ行動されているかたで、調べたい事項は必ず滝口さんの文献に行き当たり、思いつくルートは必ず滝口さんが既に歩き記しているという、まるでお釈迦さまのような存在だったのでした(笑)。
宮本川ツアーの準備をしているとき、どうしても一目見たい、と思った古地図がありました。その地図をもとめ、お寺や小学校を回っていたら、なんと滝口さんに紹介していただける、という巡りあわせがありました。そして初対面はいきなり、宮本川を滝口さんと一緒に下る、という、ミニイベントに発展したのでした。
滝口さんはたいへん気さくな、そしてわかりやすく魅力的なお話をされるかたで、もちろん知識は豊富、手製の地図も丹念で、探究者として自分のモデルにしたい、と強く思いました。そしてなにより、ご一緒した宮本川では見えていなかったこと、周辺情報、生きた情報、さらなる深堀を経験できたのでした。
過去記事と重複するため、宮本川の詳細は省きます。以下、宮本川記事の補足を兼ね、新発見を羅列したいと思います。
まず、上流端の池についてはあまり変更はありませんが、高根道までの水路は、滝口さんでさえも「はっきりとはわからない」とのことでした。わたしが推している日枝神社下の小溝は、「湧水や雨水排水路があったかもしれないが、本流とは言いがたいかも」という推測でした。高根道に沿った流れ、ということがやはり有力であるようです。
最大のおどろきは、わりと初っ端に起きました。
その高根道を過ぎた場所もわたしにとっては不明瞭で、地元の方がガストの脇を流れていたよ、と仰ったことのみが得ていた情報でした。
滝口さんは、ここに「2流ある」と仰っていました。その片方は、
Miyar2
ここだというのです。
暗渠サインばかり目指してしまう自分としては、これほど「匂わない」場所はありません。ちょうどこの1ブロック隣に、いかにもあやしい細道があるのですが、それは「以前銭湯があり、通路として貸されていた私有地」で、暗渠ではない、ということでした。
かといって、ここだとは。一人で来たら確実にスルーだと思います(してました)。けれども逆さU字溝の隙間から覗き見れば、たしかに空間が残っていました。
しかもなんと、所有者とお知り合いだということで、奥の敷地にまで入れていただけました。
Miyar3
するとそこには、
開渠が。
Miyar4
まさか、こんなに立派な開渠が。ええー??
こんなことが、あるのか。千葉スリバチ会長と、高山氏とともに大興奮して写真を撮りまくりました。
それから、
Miyar1
まいまいずマンホール(もしくはスリバチマンホール)の通りが水路である可能性は薄そうです。既に並行するものが2本あり、ここの道路に水があった記憶があるかたはいませんでした。
この日、奥にあった神社は、きれいに散髪されていました。以前はもう少し広かったのだとか。
Miyar5
ガスト脇の暗渠がでてくるところ。先ほどの開渠との合流部でもある。
ここは以前も暗渠であろうと推測していた場所だったのですが、そこに滝口さんの記憶が合わさると、見え方がまただいぶ変わります。
ここに、たしかに開渠があった。そして、ドブの脇には細道がついていて、そこをよく歩いていたのだそうです。小学生のころの、滝口さんが。(脳内CGでどうぞ。)
おつぎは、わりと好きで毎回撮っていたここ。
Miyar6
ここは水路ではない、と通りがかりの人から言われてしまいました。奥の家(現在は廃屋)への入り口だったと。
たしかに、住宅地図を見ても、ここに水路マークはつねに無いのです。滝口さんも、そうかもしれないと思ったこともあるが、ちがうようだ、といった結論のようでした(はっきりとは否定されないところがお優しいのです~)。
が、小学校脇を進むと、
Miyar7
ここが小学校の排水路なのでは、ということでした。これは見逃していた!
宮本小学校の敷地に入れていただいたさい、小学校の縁のところには、ちいさな側溝がありました。もと水路かどうかは、なかなか判定の難しい雰囲気の側溝でした。
しかし、この排水路暗渠が存在することで、さきほどの家への入り口と言われた小径とここはつながり、となるとさきほどの空間も、傍流であった時代があるのではないか、と思わされるのです。傍流の存在は、小学校の敷地が複雑なくねりを見せている理由にもなるのではないか、と。
などと、往生際が悪いですが、ここはもう少し課題とすることにして。
宮本小の中には、砂山がふた山あり、上に墓地があった時代があった、なんて話をしたと思います。前校長の山本さんに教えていただいた情報でした。
その名残、もうないと思っていたら、いまもありました。
Miyar8
墓地井戸、と呼ばれていた(る?)そうです。
墓地で用いる水を供給していたのだとか。
それから、
Miyar9
小学校の向かいにはほんの少しだけ、墓地の名残がありました。
嗚呼、川沿いだけを歩いていたからどちらも気づかなかった。砂山の上にたっていた墓地群。いまは写真でしか拝むことができませんが、すべてが消えていたわけではなかったのでした。
Miyar10
もう少し下ったところ。文具店脇からザクザクっと入ると、変わった車止めがありました。
この「ザクザク入る」は、なかなか勇気がいるものです。しかし滝口さんは天晴な行動力の持ち主でした。また、お知り合いも多いので、「○○のところの滝口です」「あらぁ、どうも」と怪しまれることもないという。
Miyar11
下流部。
ここも滝口さんはザクザクと分け入っていきます。つられて我らも入ります。
滝口さんの旧地名、小字名、通称名などとにかく千葉の豊富な情報をお持ちです。いったいどうやってそれらを調べ抜いたのか、その術をいつか知りたいと思っていました。なんとなく、この行動力は一因であるような気がしました。
河口までいき、漁業権の話、ホテル市松の話、いろいろうかがって、名残惜しくも解散しました。むかしの街並みがより見えてくるような、たくさんの情報をお土産にいただいて。
さて、ゴハン(これ久しぶりw)。
市川の駅前、「かっぱ」で焼き鳥。
なぜ市川にきたのかというと、「市川真間に砂山の名残あり」と教えていただいたからです。宮本小にあったという2つの大きな砂山は、現在しか知らぬ者にとっては信じがたいものです。少しでも想像する手がかりを得ようと、滝口さんと別れたあと、市川真間に寄りました。・・・そこでの経験のことは、またいつか。
Kappa

かっぱは、市川駅前を見渡したときそこだけ空気がちがっていて、なんとも気になるお店でした。入ってみたら中にかつての市川の鳥瞰図があって、あれこれ復習ができてすごく良かったです。
中も外も、とても風情がいい。
にんにくしょうゆたれで、焼き鳥を数本。ビール。
ぷはー・・・やっぱいいよなあ、バーチー。
そうそう、今回の行程です。
Photo
カシミールスーパー地形セットを触ってみたかっただけです。
宮本川のため、いったい何度東船橋に行ったことだろう・・・
わたしが幼い頃に見ていた東船橋とは、まったく異なる、世界の見え方でした。
Miyar12
おまけ写真。ずうっと時をさかのぼって、於東船橋。いとこと公園で遊んだときのもの。残念ながらこの公園がどれなのか、記憶にありません。土管のある公園、当時はよくある景色でした・・・
それなりに親しみのあったこの地、自分で探ることもとてもたのしかったけれど、滝口さんと歩くことも、ほんとうにたのしかった。滝口さん、山本さん、お世話になり、ありがとうございました。

そして最後に、お知らせがあります。
現在、滝口さん、そして山本さんにご協力いただく暗渠ツアー(+α)の企画が進行中です。
タイトルは、「暗渠マニアック!+千葉スリバチ学会 滝口さんと歩く城門川」。
日程はちょっと先ですが、2016年3月21日、海神あたりを歩きます。
詳細は今後、いくつかのSNSも使いつつお伝えしてゆきたいと思いますので、ご興味おありのかた、どうぞよろしく!
この宮本川ひとつとっても、御礼を言いたいひとは山ほどいます。書ききれないほど本当に、たくさんのかたがたのお世話になった1年でした。
あらためて、どうもありがとうございました。
来年も、どうぞよろしくお願いいたします。

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ミズベリング記事(暗渠と下水道)掲載のお知らせ

11月は、なんだか暗渠月でした。
昨年の11月も、思えば1日から松庵川ツアーで、「川の日ですね!」と画伯が言ったのでした。
今年の11月は、
座高円寺でのまち歩きトークショーと、境界協会コラボフィールドワーク(桃園川付き)
からはじまり、
西荻北暗渠博物館の展示
城山下支流暗渠マニアック!的ツアー
阿佐ヶ谷暗渠迷路の展示
ひねもすのたりさんでの阿佐ヶ谷暗渠迷路ツアー
と、杉並を行ったり来たりしていました。ご参加&ご来場のみなさま、関係者のみなさま、どうもありがとうございました。
ブログもぼちぼち再開したいけど、その前に、ミズベリングの担当最終記事が掲載されましたので、そのお知らせです。
Mizube
です。
さまざまな角度から、下水道愛について書いてみました。
次回がいよいよ連載最終回。感動のフィナーレを、どうぞおたのしみに!
さてさて、ぼちぼち、ここでも書いていけたらよいですが。
書きたいことは、ほんとうに、やまほど。

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ふたつの展示とひとつのトーク、など

またもお知らせの更新ですみません。
11月、以下の3つの暗渠イベントをおこないます。
ひとつひとつ、その企画に導いてくださった方がいらして、本当にありがたいこと。まだ準備中の身なので、とにかくがんばって準備したいと思います。
11/1
高円寺フェス内の「道草のススメ」というトークイベントで、杉並暗渠のお話をしてきます。マンホール、古道、境界のあの方々と、はなさんとともに。
初心者むけ、としたので、いつものネチネチは封印。「杉並の暗渠」を紹介したいと思います。
午前中、境界協会とのコラボフィールドワークもあります。いずれも無料、どうぞよろしくお願いします。

11/3 - 11/23
西荻窪タスカフェさんにて、西荻北暗渠博物館という展示をおこないます。トロールの森というアートイベントの一環です。
下水道写真家白汚さんのお力も借り、また、博物館らしく様々なセクションに分けました。「西荻北」ですから、こんどは松庵川ではない暗渠がターゲットです。期間中、暗渠サインパウンドケーキや谷戸カレーの販売も予定しています。

11/5-8
阿佐ヶ谷南にあるぶらっとりー阿佐ヶ谷という場所をお借りし、阿佐ヶ谷暗渠迷路という展示をおこないます。こちらは阿佐ヶ谷にある桃園川支流本流についての展示です。すぎなみアートさんぽの1企画。


11月はさんぽにもよい季節。杉並に、暗渠目当てに遊びに来てみませんか~。

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いまなおのこる、あのドブ 【花色街:長野の暗渠編】

出張が入ると、まず地図を見る。
これから赴く地の水路や暗渠の位置を、確かめるためだ。

長野市への出張が入ったので、やっぱり地図を見た。

目的地の近くには、縦横無尽に水路と暗渠(推定)が走っていた。
これはどちらが上流だろう?地形はどうなっているのだろう?
謎めいた土地だと思った。

しかしその後時間が取れなくなって、なにも調べられぬまま、あっというまに出張の日が来てしまった。

到着は夜。ホテルの近くで少しだけ歩き回ってみる。
・・・さっそくそれらしき空間がある。写真を撮るも、暗すぎて写ってくれない。

翌日撮り直したそこは、こういう空間だった。

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暗闇で感じ取ったこれは、なんとも・・・護岸といい狭さといい、格好いい暗渠にちがいない、という雰囲気を放っていた。

しかしまずは仕事をせねば。その後時間が取れたら、ここにも来よう。
目的地と、そこからの帰り道を詳細に検討する。上物の(地図上であるが)暗渠がありそうな空間を何か所か織り交ぜながら。下調べが出来なかったぶん、いつもの出張よりも今回は情報がすくないし、行きあたりばったり感が強い。ちゃんと、いい出会いはあるのだろうか。

善光寺近くの店「喜世栄」で朝食に野沢菜ときのこのおやきをいただき、仕事を済ませる。
歩いていると、「湯福川」という、開渠に出会った。

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信濃川水系・・・遠くに来たなあ、という気がする。
土石流が発生しやすい渓流であるという看板も。・・・渓流といえば郷里に近いような気がして、なんとなく親しみもおぼえる。

あまり観光名所に興味はないが、中学生の時に父が連れてきてくれたな・・・と思いながら、善光寺にも寄る。

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善光寺そのものというよりも、善光寺を囲い流れる水路を見たかった。中学生のときの記憶からは、もっと平らな土地だと思っていた。否、なかなか傾斜がある。あのころの自分は、地形も水路も見ていなかった、ということか。
水路は、善光寺の敷地内ではなく外にあるようであった。そして、さきほどの湯福川の続きであるようだった。

しかし・・・暑い。境内の休憩所で、涼むことにした。そこでふと、これだけ立派なお寺があるのなら、きっと遊郭もさぞかし・・・と、思い至る。いそいで遊郭の情報を探す。

あった。ただし、現在それらしき建物はほとんど残っていないそうだけれど。
その名は、鶴賀新地というらしい。善光寺参詣客の精進落とし。やはり、街地の少しはずれに作られている。

地図を見てみよう。

Turumap                  mapionより拝借。

お見事な形だった。
地図上では、まだここは遊郭であるかのようだ。
水路を示す表記はないが、ここには足を運んでみたい、と思った。

Turu1


上掲の地図にもあるように、大門のあった通りが幅広で、じっさい、突然大門からが広くなる。言われなければわからない、住宅地の中なのだが。

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鶴賀新地の説明板のたつここは、東鶴賀町公民館。この建物が以前は見番であった、という。明治11年にこの地に遊郭が設置され、四十余軒の妓楼と多くの店が軒を連ねた、とある。ここの見番は、平成6年に建て替えられたそうだ。

嗚呼、もうちょっとむかしに見に来てみたかったものだ。

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web情報をみていると、名残の建物はほとんどないという。この建物だけ、それらしき香りを漂わせていた。そして、やはりそうだと、後から知った。(ちなみに建物が残っていた頃はこんな感じ。)
カフェー建築などはなく、大きくてシンプルなラブホがどーん。端っこのビルにスナックがぽつぽつ。そんな感じだった。

しかし、地図上の輪郭はくっきりと遊郭らしさを残していた。
ではその境界を歩きに行こう。わたしには、これこそがメインともいえる。吉原にも、洲崎にも、そして中村など地方の遊郭にも、ぐるりと囲むドブはあったのだ。果たして鶴賀にもあったろうか?その、名残はあるだろうか?

近いところから、輪郭に沿い歩き始めた。ただの道路、そして細めの道路。地元の資料を手に入れる暇はないのが、もどかしい。

Turu2
あっ・・・

これは暗渠だ。なんと、これまで見た遊郭の囲いの中で、ここまで暗渠らしいものはあったか・・・?なかったのではないか。

Turu0
青印の位置である。
細い道からさらにつづく抜け道のような。そこは暗渠だった。そして、

Turu3

今も水が流れていた・・・

なんともいえない、胸の高まりをおぼえた。
鉄漿のような汚くよどむ水ではない。さらさらと流れる細い水路。

でも、鶴賀のオハグロドブさん、おまえはいまも生きているんだね。

Turu4

さらに歩き進む。

ここで、わたしは「アッ・・・」 思わず声をあげてしまっていた。

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開渠があったのだ。

生きている。長野のオハグロドブは、いまもしっかりと生きている!

しかし、これだけ水が滞留しないので、低湿地のよどんだドブであった吉原のそれなどとはちがい、昔から綺麗な水路だったのかもしれない。「オハグロドブ」は失礼だったかもな。

今回見たいくつかのweb情報では、遊郭の遺構らしきものは強いて言うならラブホと飲食街、ということだった。けれど、実際に歩いてみると、遊郭を囲う水路は、他のどの遊郭よりも、健在だった。

興奮、さめやらず。
しかしいよいよ時間は無い。駅に向かい進んでいく。
だんだんと、地形と水路の向きがわかってくる。そこかしこに暗渠があることも。
たとえば長野市役所の前は、

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右手の駐輪場がそうだった。

Naganosi2
こんなふうに綺麗に蛇行する暗渠であり、中にはなみなみと水が流れている。

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橋跡、とおもいきや、

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跡ではなくて現役の橋なのである。

こんなふうに、地図上では左上から右下へと、取水された水がおそらくは農業用水路として、張り巡らされているようだった。
長野市の西側に裾花川が流れており、南側で犀川に合流、さらに千曲川に合流して千曲川が東側を北上していく。裾花川で取水された水たちが田畑をうるおし(以前はもっと多目的だったろうが)、余水は千曲川流域の方向にはけていく、という感じなのだろうか。

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細いものもある。おそらくこれは、水路自体は塞がれているのあろうと思うが、

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空間としてはいかにも暗渠らしく、

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途中からは雨水をあつめる場所として機能するようだ。

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往時は、細くとも流量のある立派な水路だったように思える。

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それが、この御方。

そう、前日の夜に、最初に見かけた暗渠さんなのだった。

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太い道路をはさみ、向こう側の白いフェンスのあたりに落ちていく。市役所の方向に向かって。

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この、「千歳レジデンス」のすぐ北を走る細い道がいまの暗渠である。
道の機能を果たしていない場所も、細い道として描かれていた。
そして、東側にむかって流れてゆき、おそらくは市役所前の水路とどこかで合流するような位置にある。

こうやって少しずつ、長野市の形状がわかってきたようなところで、そろそろおいとましなければならない時間が来た。

さて、ごはん。

Meron

暑すぎたので、しゅわしゅわしたものを飲みたくなり、喫茶店に立ち寄った。
「メロンスカッシュ」という文字を見つけたので、生メロンが添えられた薄緑色の飲み物を想像しながら頼んだら、これがきた。
なるほどねぇ。

Ramen
そして信州味噌ラーメン。
「吟屋食堂」の極味噌ラーメン、全部のせ。
長野=蕎麦、と思っていたが、信州味噌ラーメンも売り出しにかかっているようだ。
蕎麦とラーメン、いずれも郷里山形とかぶっている。山形も蕎麦の名所であるが、地元の人は異様にラーメンが好きなのだ。わたしももれなく大好きなので、このチョイスとなった。

長野の人は、ラーメンがどのくらい好きなのだろうか。・・・などと、濃厚なラーメンをすすりながら、ふたたびふたつの街のことを考えていた。

                       ***

簡単ではありますが、長野の暗渠旅はこのくらいにしておきたいと思います。
伝統ある、長閑なしずかな、緑に囲まれたこの街は、キレ味のある暗渠を隠し持った街でもありました。さて、次の出張の準備をしなければ、ね。

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