さらなる天神川のこと

今回は、備忘を兼ねたちょっとした記事です。
桃園川支流である天神川(呼称が何通りかあり、わたしはこう呼んでいる)。
かつて何度か書いているものの、この記事で、流路の詳細を追ったのがおそらく最後。流路も水源と思しき池も、年代ごとに微妙に描かれ方が異なる、なかなか追手を惑わせてくれる暗渠だ。ごく最近になって下流部に支流の開渠が見つかるなど、目が離せない憎い奴。

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あるときふと「街ブラ研究会in中野」という情報が流れてきて、『東京「暗渠」散歩』の執筆者の一人でもある軍艦島の黒沢さんが、このエリアに馴染みのある人としてナビゲーターをするというので、参加してきた。7月の初め。
黒沢さんの子どもの頃は、この天神川跡の道はもっとジメジメとしていて、歩きたくない感じがしたそうだ。子どもの頃から暗渠を感じていたとは、さすが黒沢少年。
より下流の天神川のことを、親御さんが「あのドブが臭くて」と仰っていた記憶もあるのだそう。

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天神湯の裏側。
ここには、以前は湯を沸かすための木材が積まれていたという。そうか、煙突が折れてしまっことがずっと気になっていたが、もう木材は、つまり煙突は使われなくなっていたのか。

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天神湯の前の通り。
ここは北野天神社の参道ということもあって、店が並んでいる。
後から黒沢さんに「仕込みだったんですか?」と聞いてしまったほど、タイミング良く花屋の店主さんが現れて、あれこれ昔の話を教えてくれた。
花屋さんの口から、「その道はドブだった」という言葉が漏れ、思わず鼻息を荒くするわたくし。それはわたしたちが今、天神川の跡だと言いながら歩いてきた道のことだ。暗渠にされる前の姿をこの花屋さんはご存知で、なかなか汚かったという。

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我慢ができなくなり、思わず尋ねた。「あっちにも、もう一本ドブありましたよね?」
天神川の流路は、この天神湯付近では二本存在し、その「もう一本」の方が、実は現在の佇まいとしては上物なのだ。とても狭く、曲がりくねっていて、立ち入り禁止の秘められた感じがまた良い。

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花屋さんはもちろん、もう一本のこともご存知だった。
気になっていたことを、併せて訊いてみる。「どちらの方が後まで流れていましたか(暗渠化が遅かったか)?」・・・すると、「もう一本」の方が暗渠化が遅かったという。そして「もう一本」は、割と最後の方まで清流だったというのだ。
幅広の流路の方が排水路に転用され、そして汚いこと、住宅増加に伴い道路を増やしたかったことなどにより、先に埋められたのかもしれない。
狭い方の流路は、最後まで湧水が流れていたのかもしれないし、傾斜がありそうなので滞留しにくかったのかもしれない。さらに、狭い方の流路の脇には、近年まで、染物屋さんがあった。花屋さん曰く、遠くからもお客が買いにくるような、有名な染物屋さんであった、とのこと。ある時期までは、この天神川の清流を使って作業をしていたことだろう。
何回歩いても、新たな情報、人、謎と出会えるので暗渠はおもしろい。今回は、天神川の往時をより豊かに感じられる材料をいただけて、本当によかった。街ブラ研究会の皆様、花屋の店主さん、どうもありがとうございました。

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井草川と縄文をめぐるあれこれ

すっかりお知らせページのようになってしまい、すみません。

暗渠探索記事も書きたいと思っているのですがその時間が取れず・・・今日もひとつのお知らせです。

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現在発売中、東京人8月号、「縄文散歩」に、暗渠で寄稿しました。
取り上げたのは井草川。イラストと縄文の説明をスソさんが描いてくださり、去年西荻チャサンポー関連展示「井草川と縄文と」の続き(あるいはそれをまとめ発展させたもの)、とも言えるものです。
とはいっても、新ネタがあれこれあります。特に地形と湧水に関する、ある写真とある情報については、今回の取材時に明らかになったもので、どこにも載ったことはないはず。提供者の西山さん、野田さんには本当に感謝しています。掘れば掘るほど何かが出てくる、魅惑の井草川。

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発売直後に、執筆時に割愛したものなどを含めてこんなトークイベントもおこないました。井草川の近くで、ご近所の皆様を中心に。井草川にいた杉並メダカを模したメダカどら焼き、縄文をイメージした鳥型のナッツのクッキー、飲み物は湧泉というお茶・・・会場のジャスミン漢方薬局さんにも、とても凝っていただきました。ありがとうございました。
残念ながらトークはもう終わってしまいましたが、

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22日の東京新聞に、この井草川縄文暗渠散歩を含め、簡単にまとめた記事を掲載していただきました。「縄文好きな人たちが、暗渠にも興味を持ってくださいますように」という邪な気持ちを行間に込めています。
あちこちで縄文展示やイベント、発行物のある、縄文盛り上がり月ですね。今後、ふらりと井草川にも足を運んでいただけるなどしたら、幸いです。

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散歩の達人「中野・高円寺・阿佐ヶ谷」号に寄稿しました

6月21日に発売された散歩の達人に、暗渠(桃園川)で寄稿しました。
高山氏との共同執筆です。

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偶々、お話をいただいたとき、ここは支流がカオスだからと、「混沌」をテーマとした桃園川の該当エリア記事を書こうと思って。
そうしたら今回の特集ページをめくると、最初の方でも「混沌」がキーワードで。
まぁ、そうだよな。と思いつつ、「暗渠から見たこのエリア」が、街の特徴と重なっていることがやはりおもしろい。

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そして偶然か意図的なのか、暗渠のページが、目次の一覧からはどこにあるかよくわからない(暗渠的)・・・。
大好きな雑誌に書くことができ、非常に幸せでした。
ドバドバっと迫り来る物量、という、いまの散達からするとやや異色のページに仕上がっていることと思います。暗渠を良く知らない方が、「うわっ!」と少しでも気にしてくださったらうれしいです。

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板橋カレーラーメン紀行

「板橋マニア」という本が出ました。

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地形、団地、境界、商店街、グルメ、ものづくり・・・各領域の魅力が詰まった一冊です。わたしも暗渠の項目で書かせていただきました。

お話をいただいたとき、ともに依頼を受けた高山氏は以前板橋暗渠にドはまりして、ずいぶん網羅的に板橋を攻めていたからいいとして、わたし・・・。断片的にしか巡っていなかったので、迷いました。けれど、取材期間が半年近くあること、板橋の面白さは気になっていたこと、等から、受けることにしました。そしてとにかく通おう、と。

ここからが、今回の記事の背景です。
板橋と言えばしっとりチャーハンやあぺたいとの焼きそばなど、B食充実のイメージがあり、自分的課題店も多く。そして打ち合わせ時に、S&Bの本社が板橋であることを知りました。ふむ・・・S&Bとの関連を探るため、カレーか何かを行く度に食べるのはどうかしら。兎に角、暗渠だけではなく板橋という街に何度も足を運ぶことは重要である。何度でも行きたくなる・・・という引力を持つ食べものは、ラーメンしかない。

・・・こりゃ、カレーラーメンだな。カレーラーメンは、高校の学食でたまに特注していた。なつかしい。醤油ラーメンの上にカレールーが載った代物。あの懐かしいカレーラーメンを提供するような、町中華に行こう。

どんどん暗渠とズレてきていると思うかもしれないけれど、実はわたしはこういう遠回りの努力をすることがとても好きだ。修士論文を書き始める最初の時期、「これは体力が要る気がする」と、キャンパスのランニングから始めた過去がある。最終的な成果物とは何もつながらないことかもしれない。しかし、わたしにとっては大切な土台となる。

さて、カレーラーメンである。

板橋区内のカレーラーメン店を、町中華中心にリストアップした。
普段杉並区で出会う中華屋には、カレーラーメンが置かれていることはまず、ない。そのため、何軒も出てくることにまず興奮を覚えた。S&Bのお膝元だからだろうか・・・?いやいや、早合点せず、とにかく黙って食べてみようじゃないか。

というわけで、以下、カレーラーメン食いの結果(感想)を羅列していきます。

1軒目。カレーとラーメンの店 くっく大番。上板橋。

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カレーラーメン600円。
14:30頃入店すると、既にできあがった男女ひと組、おじさんふたりがそれぞれ盛り上がっている。
バイス?と思ったらそんな色だが「梅サワー」を飲んでいた。
パチンコ帰りのスナックのママもきて、飲みはじめる。・・・ここは飲み屋か?
おつまみに、 カレールー がある。成る程カレールーがあるなんて、これは良い飲み屋だ。
やってきたカレーラーメンには、コーン、もやし、のり、チャーシューと、うつくしい配列。
日清カップヌードルカレー味の匂いがする。これは好ましい。
学食のようなやさしいカレーは、下に沈んでいるので麺をひっくり返して食べると良い。
チャーシューは分厚く肉肉しい。
満足する一杯であった。これは好きな感じだ。イイゾイイゾ、板橋カレーラーメン。

2軒目。喜楽。板橋本町、稲荷通り。

Kiraku

店に入るとまず、空の丼を前に、ぼーっと甲子園を見るおっちゃん。
町中華らしい良い雰囲気だ。
カレーラーメンは、基本メニューには載っておらず、追加メニューで貼ってある。780円。
カツカレーにカレーポテト春巻、追加メニューのうち半分はカレーものだ。
(カレーポテト春巻は再訪して食べたが、この手があったか!という美味なものだった。)
板橋の町中華、ここに限らず、カレーラーメンは追加メニューであるケースが少なくない。
・・・なぜだろうか?どこかの時点で、「S&Bの街だというアピールをしていこうぜ!」という意識が芽生えたのか?どうもS&Bが頭から離れない自分である。

やってきたカレーラーメンには、新妻のような可愛らしい花型人参が添えられ。
麺は細麺。リフトすると、、スープがなく全部カレールーのタイプ。
こういうタイプか、、、麻婆ラーメンでも出会ったことがあるが、普通に啜ると火傷するやつだ。
こちとら猫舌なので本当に用心が必要だ。レンゲに避難させながら、慎重に食す。
豚バラと玉ねぎの家庭的カレー味だが、おいしいので最後まで飽きなかった。
お昼どきは盛況だったらしい(わたしは14時前後に行くことが多い)、きっと人気店なのだろう。

3軒目。上板橋、新華。

Sinka

駅から店まで、くねくねと住宅街を通る不思議なルートだった。川跡のせいもあるのかな。
ここは商店街で、近所に共栄軒(後述)もある。町中華が並んでいて素敵。
カレーラーメン、600円也。
やはりメニューの後半に書いてある。
おばちゃんが丁寧に作る。
見た目は地味。豚肉と玉ねぎのカレーを、醤油ラーメンにオンしたもの。
麺は昔風の中太麺、これは好きなタイプだ。
優しく懐かしい味・・・年取るほどにしみる味。。
ここまでの3軒、カレーの味が大体一緒なのも面白い。

さて板橋区、ここいらは高低差がものすごい。
杉並暗渠に慣れている身としては、派手すぎてなんだか恥ずかしくなってくるくらいだ。
東武練馬なんて駅に向かう道がまるまる谷で、油断ならない。
カレーラーメンを食べては暗渠を歩き、土地の雰囲気を身体にしみこませようとする。夏だったものだから、暑い。2017年夏の思い出はきっと、「板橋カレーラーメン」になるだろうな。

4軒目。共栄軒。新華の至近。

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メニューにカレーラーメンがある位置が、ここはまた独特だった。
ラーメン類では後半で焼きそばより後だが、味噌ラーメンの方がさらに後だ。このメニューの法則のようなものを考え出すと、これもまた奥が深そうだ。
カレーラーメン550円。
隣の人が頼んだ肉そば?の肉の様子がすごくて、ガン見してしまった。すいません。
カレーラーメンは醤油ラーメンにカレーが乗るタイプ。
麺は黄色の中太、いや新華よりも細い。細いが歯応えがある。この麺も好ましい。
カレーは作り置き、にんじん、じゃがいも、玉ねぎ、豚肉。これまでのものと似ている。
丼が広口なので、カレーが混ざりきらないうちに、端っこで麺を醤油ラーメンとして食べるという、自由度の高さがあり、これもいい。

それにしても、カレーラーメンも、ラーメンもカレーライスもある店って、注文が混同することはないのだろうか?「カレーラーメンって言ったけど、カレーライスとラーメンの意だった」、とか。。。そんな余計な心配をしながら麺を啜った。

5軒目。曙軒。板橋本町。

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板橋本町は駅にS&Bの広告があり、お膝元感がある。
そこから少し歩く。ここはかなりいい面構え、店内も溢れる昭和の雰囲気で良い。
カレーそば、650円。
メニュー上の順番は真ん中である。
さて・・・ここ、カレーが黄色いのだ!新潟のバスセンターのようだ!
しかも、これまでのカレーと違う味付け。カレーは作りたてだ。
具は豚肉と玉ねぎのみ。醤油ラーメンにかけたもの。
麺は細めで柔らかい。
ただ、醤油ラーメンとしてもカレーとしても味が薄かった。
まあでもこれこそ町中華っぽい。ともいえる味わいだった。
わたしはラーメンにある程度の濃さを求めてしまうのだが、町中華は薄味であることが少なくない(という印象)。

6軒目。西台、キッチン西田。

Nishida

キッチンという名前の割にガチ町中華屋。
人気店かもしれず、2人で足りるのではという広さの店内に3人も店員がいる。
カレーラーメンはメニューの最後に鎮座、780円なり。
醤油ラーメンの上にカレーが乗るタイプだが、なんと醤油ラーメンの具がまんま乗っていて、アガる。
麺は透明感のあるタイプ、醤油ラーメンに合うやつだ。
個人的好みでいうと、カレーラーメンの場合もう少し強い方がいいな。。
豚肉と玉ねぎのカレー。チャーシューと豚肉、白髪ねぎと玉ねぎが被るが、それもいい。
なんというか、包容力あるメニューだ。

7軒目。大山。ちょっと歩いて清華。

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広めの店内。
やはり14時前後だったのだが、先客はチューハイでベロベロの男性2人。
ああここも良き「飲める町中華」なのかもな。
オーダーすると、酔っ払い2人に「カレーラーメンだって」、と反応される。
店の人、「結構2階で食べてますよカレーラーメン」、と返す。
聞き耳を立てつつ、酔客に絡まれないように縮こまる。
2階。そういうのもあるのか。
メニュー上のカレーラーメンは微妙な位置で、650円だった。
だんだん、値段を見ただけでどういう形状のものがくるか、読めるようになってきている。この値段は、見た目が地味なタイプではないだろうか。
・・・そして想像通りのものが来る。醤油ラーメンカレーのせ。
カレー、豚肉と玉ねぎ、人参少々。あれ、豚肉が煮込まれてないやつだ。
つまり、カレーは注文後に作られている模様。
麺は硬めの縮れ麺で大変好み。おいしかった。

次に行こうとしていたのは、志村三丁目の吉村屋。

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カレーラーメンがあり、しかも吉村だなんて、今回の目玉ではないだろうか。
しかも、出井川暗渠のすぐ隣なのだ。パーフェクト!
期待に胸を膨らませ、駅を降りる。
・・・と、高架下に並んでいるはずの店たちがなくなっていた。
地図を見ると、まだ載っている。食べログ閉店情報もまだ追い付いていなかった。
どうも、最近なくなってしまったようで・・・
しょんぼりしょんぼり、引き返した。

気を取り直して八軒目。板橋本町、一元。

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ネット上に情報はないものの、カレーラーメン大師匠のcurryyokoさんに聞いたもの。
実はここ、店構えが前から気になっていた。
綺麗にリフォームされた感があるが、以前はさぞかし雰囲気のある町中華であったろう。
カレーラーメン780円。
本当だ、メニューにあった!位置は真ん中あたり。
テーブルふたつ、カウンター2席の可愛らしい店内。
おばさんが1つ1つつくっている。アットホームさが最高潮。
半ラーメン付きメニュウもいいな。
麺は細め、しょうゆ、カレー後乗せ。
カレーは今作ったっぽい、厚切りの豚バラ肉、玉ねぎ、にんじん、グリンピース。
店の雰囲気と合った、やさしい味わいだった。

9軒目。本蓮沼、いわ井。

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注文後、すぐにメニューを下げられてしまった。
ワードの打ち出しっぽいメニュー表に、カレーラーメンは手書きで付け足してある。
カレーラーメン(辛口)、750円。
注文後、おじさんが勢いよく炒め始める。カレーから作り始めるようだ。
久しぶりの、麺埋もれタイプ(同じタイプの喜楽は距離的にも近い)。
具は、大きめの玉葱と大きめの豚バラ。
麺は中太縮れ、透明っぽいが硬めで好み。
が、あっつい。このタイプは熱いよ・・・
もやさまでも熱がっていたが、三村は普通に食べられるのだろう。
麺は少し多い気がする。お腹いっぱいになった。
お、胡椒がS&B!店内にはっきりS&Bがあるとうれしい。
器の下げも早い店だった…しかし写真を見直すと、このぴしっとした清潔感はどうだ。

10軒目。レストラン銀月。板橋本町。

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清水稲荷の商店街、喜楽につづき2軒目である。
ここは、リサーチ時には引っかからなかった店だ。
しかし銀月は店構えが良すぎ、ナポリタンを食べに行ったら、カレーそば(注文後に気づいた)が堂々あったので再訪となった。
カレーそば600円、メニュー中腹にある。
近所の中高齢者で賑わう店内、最高。
着丼は早め。
醤油ラーメンによく煮込まれたカレー、グリンピース。
これまた新しいタイプ・・・カレーラーメン界のミートソースや。
ミートソースをくずさないように、大切に麺と絡めて食べる。優しく深いカレー。具は色々なものがとろけている。が、時折大きめの豚肉が出て来る。
麺は細めで透明感のあるタイプ。
近隣の2軒が汁無しタイプだったからここもかなと思っていたが、まるで違う。
中盤、カレーは勝手にスープと一体化していく。
第2形態に入った。
味は全て混ざっても薄め、でも悪くない。
最後、丼の底から具を拾う。人参や玉ねぎの破片を楽しむ。
他の客はほとんど定食ものを食べていた。お盆に洋風の皿、小鉢に味噌汁に。
嗚呼、昭和のレストラン、だなあ。

11軒目。下板橋。点心。

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谷端川が目の前である。
奥に座敷、あとはカウンターだが、もちろんカウンター入口近くに陣取る。暗渠を見るためにね。
古くていい感じの店構え。常連さんとお店のコミュニケーションも、いい。
清潔感もある。
カレーラーメン530円は、メニュー中盤にある。
ラーメン370円だと・・・!
カレーは器に入って保存されている、豚と玉ねぎと人参、角切りの具。
しょうゆラーメンにカレーあとがけ、その時に長ネギもプラスされる。
普通の太さのたまご麺、シンプル。うんうん。
黙々と食べながらメニューを凝視。オムライス、玉子焼きライス、目玉焼きライス、オムレツライス、が、別々に書いてある。値段も違う。・・・違いが知りたい。
しかしここ、最高の暗渠飯屋だな。

12軒目、成増。奥州軒。

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駅南口からまっすぐ歩き、住宅街に入った先、奥まったところに出現する。
なぜこんなところに?と思うが、そうか、グラントハイツが近かったのか。
カレーソバ680円。メニュー中盤、焼きそばの後にある。
午後は休憩なしのようだが、明らかに休憩タイムの15時ちょい前に行ってしまった。
古き良き町中華。
隠れ家的位置なのがさらにいい。
電話がしばしばかかってきて、そのつど壁にメモが貼られる。出前かな?常連さんに愛されてるんだろうな。
着丼。カレーはあとがけタイプで、どろりと全面を覆う。
具はよく煮込まれた玉ねぎ、やや厚切りの豚肉。
麺は透明感のあるタイプ、細身だがバランスは良い。
ややしょっぱいか?・・・満足する塩っけとのギリギリのラインを攻めて来る。
後半に入ると、なんとアイスコーヒーのサービスがついてきた!
おばちゃんありがとう。ふと見るとおばちゃんは餃子を包んでいた。
嗚呼餃子もおいしそう・・・

さてさて、板橋区の町中華にいき、カレーラーメンを食べるだけの記事、ここまで読んでいただきありがとうございます。
もう少しだけ続き。

板橋だけで展開していた一人企画なもので、そんななか作り上げた仮説は、

1.板橋区は他区に比べてカレーラーメンを出す町中華が多い
2.メニューに新たに追加されている店舗が少なからずあり、それはS&Bのお膝元であることと関係がある(願望)

の2つ。

これを、カレーラーメン食いの第一人者、curryyokoさんに「どうでしょう!」と投げつけてみました。

すると・・・yokoさんは東京近郊の自らが食べ歩いたカレーラーメン一覧表を見せてくださいまして、

・板橋もあるほうだが、江戸川区、葛飾区、墨田区、台東区、それから大田区がカレーラーメンを出す店が多い
・カレーラーメンには町中華ありき
・町中華には工場ありき。なので、上記の区に多い
・S&Bとの関連についてはちょっとわからない

という、ことでした。
成る程。わたしの仮説1はまあアリとして、仮説2は違うのかも・・・

そしてyokoさんの表をもとに、23区のカレーラーメンを出す店データを整理してみると、
(あくまでもyokoさんの訪問店の数であり、完全なデータではありません。閉店しているものもありそうです。という注記をしつつ。)

カレーラーメン店を出す、かつ、町中華のお店上位は、

1位 大田区(38軒)
2位 葛飾区(34軒)
3位 墨田区(33軒)
4位 板橋区(28軒)
5位 江戸川区(27軒)

であり、下位は、

23位 目黒区(2軒)
22位 文京区(3軒)
21位 品川区(5軒)

でした。

さらに、カレーラーメンを出す店全体のうちの町中華率を上記の区で算出すると、

墨田区 89.2%(33/37)
葛飾区 85%(34/40)
江戸川区 79.4%(27/34)
板橋区 75.7%(28/37)
大田区 71.7%(38/53)

文京区 50%(3/6)
目黒区 28.6%(2/7)
品川区 27.8%(5/18)

(ちなみに杉並区は 12/18、66.7%で色々と中くらいでした。)

板橋区は、カレーラーメン的にも町中華的にも、1位ではないけれど上位にある。
ということが、データからはわかりました。

それから、食べ歩いた感想として、600円前後の安価なものが多く、なおかつ、麺が好みのケースがわりとあり、満足度が高いということ。
カレーラーメンがなくても他の町中華で惹かれるお店もしばしばあり、何度でも食べに行ってしまいそうです。

最後まで暗渠に触れない記事で、失礼いたしました。
次回からは暗渠に戻そうと思います。

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東京人「夜散歩」号に寄稿しました

現在発売中の東京人、2018年3月号に暗渠で寄稿しています。

蟹川(先日の忍者暗渠散歩の近くです)、
六間堀と五間堀、
藍染川の一部、
コラム的に戸越銀座。

夜の闇の中にさまざまな幻影が見えてくるように、エピソードを幾重にも重ねました。
それから3つの項も、それぞれがつながるような細かい仕掛けをしました。
六間堀と藍染川は「夜店通り」、藍染川と蟹川は「茗荷」。
蟹川と五間堀は「峯島家」です。今回調べていて、丸八倉庫の創業者も峯島家であると知り、結構興奮しました。

六間堀は、ちくまの暗渠文庫に書こうかと構想していた時期もあるのですが、取材時間を捻出できずに断念していました。こんなふうに夜の妖しさをも含ませた記事にできて、幸せです。編集部のみなさま、お世話になり、ありがとうございました。

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他の記事は…
上野さんの「夜散歩のススメ」、八馬さんの夜の橋の解説と写真が、紙でじっくり見られる贅沢。
闇歩きのおもしろさ。
フリートさんの引き出す飲み屋さんの語りは本当に貴重。
茂世さんの「行灯から街灯まで」、なんて素敵な切り口なんだろう。赤坂のちいさいおうちも凄くいいです。

ぜひぜひ読んでみてください。

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世田谷線沿線本の暗渠こぼれ話


先月末に発売された「世田谷線沿線の本」に、暗渠で寄稿しています。
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そのこぼれ話をひとつ。


烏山川といえばザリガニを思い出す。

松庵川での取材時、銭湯のお客さんが語ってくれたのが、「川沿いで大人がザリガニを茹でて食べていた(自分は臭いので食べていない)」というエピソードだった。よくよく聴いていくとそれは、烏山川のことだった。あのおじいさんは、松庵川を通して烏山川を思い出していた、ということになる。

烏山川関連の資料の中で、なんだか好きなエピソードもまたザリガニだ。ある時代までは烏山川に居たのはエビばかりで、あるとき、ザリガニを捕まえた青年が「エビにハサミがついている!」と大騒ぎしたのだとか。数年後ザリガニは大繁殖、珍しくもなくなっていった。

だから烏山川というと、わたしはザリガニを思い出す。 烏山川にあるわずかな親水空間で目を凝らしたけれど、北沢川みたいにザリガニがいたりはしなかった。残念。


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それはそれとして、世田谷線沿線本、とってもオシャレなレイアウトで、わたし役のカエルもかわいくって気に入っています。編集さん、お世話になり、ありがとうございました。
書店さんで見かけられましたら、ぜひお手に取ってみてください。


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「はじめての暗渠散歩」

ちくま文庫さんから、「はじめての暗渠散歩」発売となりました。
関連する記事も書いていきたいですが、今日はお知らせのみ。
 

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下記、購入特典のつく書店さんたちです。

お近くなら是非、あるいはちょっと足を伸ばしてでも、ご活用いただけるとありがたいです。

 

あゆみBOOKS瑞江店(著者特製しおり配布)

 

荻窪文禄堂 (著者特製しおり配布)

 

高円寺文禄堂 (11/10トークショー参加)

 

往来堂書店 (藍染川下りさんぽ参加券)

 

SPBS(著者特製しおり配布)

 

ちなみに、暗渠しおりは7パターン。文庫本内では写真がモノクロになってしまうわけですが、それらをカラーで、キャプション付きで、あるいはボツにした写真を。4人がそれぞれに選びました。

 

明日、11月10日(金)19:00~20:00は、文禄堂高円寺店さんで著者4人でトークをします。

ご興味のある方は、ぜひぜひどうぞ!

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猫と暗渠~暗渠はニャンダーランドだ!~ 猫地名編

 
11月4日に、神楽坂で「猫でめぐる暗渠」というトークイベントを開催します。
そのイベントはもう満席になってしまったので(申し込んでくださったかた、本当にありがとうございます)、きょうはその宣伝ではありません。
「猫でめぐる暗渠」は、去年ひるねこBOOKSさんでやった「猫と暗渠」トークの続編でもあります。ただ、その第一回目にいらしていない方もいらっしゃると思うので、「第一回目のおさらい」(全部ではないですが)をしておこうと思うのです。
 
さてさて、去年、わたしは「猫と暗渠」で、こんな話をしていました。抜粋その1は、「猫地名と暗渠」です。
 
***********
 
東京近郊の猫地名といえば。
 
・・・浦安市「猫実(ねこざね)」、一択。
しかも、浦安市は「猫実川」まであるという、すばらしい土地である。

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「猫実川」なる、バス停まである。

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しかも、バス停「猫実川」は、ほんとうに猫実川の上に立っている、誠実バス停なのだ(左が欄干)。猫実川の暗渠上、と言ってもいい。
ここらへんでもう、猫と暗渠が両方好きな人は、若干心をつかまれるのではないか、と思う(たぶんね)。
 
・・・「浦安」というと、おそらく多くの人が思い浮かべるのは、ネズミーランドだろう。しかし、ある程度有名な話だが、ネズミーランドは埋立地につくられたものであり、古地図を見ても「無」である。いっぽう猫実は、浦安といえば猫実村と言ってもいいくらい、明治期の地図を見ると人口密集地なのであった。

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「東京時層地図」((財)日本地図センター)、明治9~19年より。右下にある村が、猫実村である。
 
そんな浦安の古きよき街について、暗渠と猫を絡めながら見ていこう。
 
まずは猫実川から。
猫実川には、開渠部分と暗渠部分がある。開渠は、浦安の駅南口から少し行ったところから、唐突に始まる。

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ちなみにこの猫実川、実は地名「猫実」を流れることはなく、ほとんどお隣の「北栄」を流れている。

奇遇なのだが、暗渠好きでもある大地丙太郎さんが監督をされた「浦安鉄筋家族」に、猫実川が出てくる。

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(浦安鉄筋家族よりキャプチャ。子どもをスーパーに忘れてきたお母さんが猫実川を飛び越えるシーン。)

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こんな感じか。猫実川中流部。
浦安鉄筋家族に出てくる街並みは、少し前の浦安の雰囲気なんだろうな、と思う。

さて、猫実川の暗渠部分を見てみよう。

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ここから潜り、駅付近を通過する。上はタイル張りの遊歩道と親水空間になっている。
親水空間で何かをつかまえている少女がいたので、「何が獲れるの?」と聞いてみた。

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答えは、「カニ」だった。
たしかに見渡してみると、人がいないときには油断してカニが出てくるようだ。
カニが大好物なので、すぐさま興奮した。猫実川、カニが獲れる暗渠!これはすばらしい。
 

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東西線のガードをこえると親水空間はなくなり、このような緑道が、道路を渡っても少しだけ続く。
そのうちただのアスファルトの道路になって、住宅街に埋もれてしまう。

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こちらは、猫実川の支流と言ってもいいであろう暗渠。
東西線高架下を流れている。立派な蓋暗渠だ。東西線が通る前からここにあったので、この水路の上に東西線を作ったのではないか、と思わせる。

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高架と分かれてゆくところはとても素敵で、浦安で最も好きな風景のひとつだ。
 
さて、ここまで紹介してきた猫実川。本流は、実は長いこと存在しておらず、高度経済成長期の地図にさえ載っていない。
街は東西線完成後に急速に発展したのであろう。それより以前は、浦安はとにかくたくさんの用水路が張り巡らされた土地であった。都市化に合わせてそれらの水路を廃し、そのさいにまとめられた1本が猫実川のようである。

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東京時層地図ふたたび。今度は、昭和初期の浦安である。
川に寄り添うように、市街地が発達していることが判る。この川は、今でも開渠で残っている「境川」だ。浦安の、母のような川。
 
人々は川の両岸に家を建て、川の水を飲料や洗い物に使った。漁業を営む人は船を係留し、農業を営む人は耕地の用水路とした。
 
浦安の生活は、境川とともにあったのだ。境川で洗い物をする光景は日常で、戦前はここで、米をも洗っていたという。
 
境川から縦横に広がる、一面の田んぼに用水路。用水路で、ザリガニをとる子どもたちの写真もあった。
そういえば知人(高円寺出身)が、東西線が通ってすぐの頃(当時小学生)、よく浦安に釣りをしに行っていた、と話してくれた。浦安駅は降りると一面の田圃と用水路であり、タナゴなどを釣って遊んでいたという。
タナゴを釣るために浦安まで行く必要があるのか、少々疑問でもあるが、そのひとはなんとも楽しそうに、この話をしてくれた。できたての東西線で釣りをしに行く、という行為に、なにやら胸が躍る感じはする。
 
川だけではなく、「水」はこの土地の産業と深く結びついていた。昭和5年頃、稲からハスへの転作が増加する。昭和32年には、堀江だけで319軒ものハス農家があった。じくじくした湿地が、ハスづくりに適していた、という。
しかし昭和33年以降、地盤沈下により塩分の強い水が入ってくるようになる(葛西のフラフープ工場が原因と書くものもあるが、詳細不明)。ハス農家は漸減するが、それでも、昭和40年代くらいまでは、ハス田が残っていたという。
 
古い地図には、大きな養魚場も描かれる。「秋山の金魚池」と呼ばれる一万二千坪もの養魚場で、存在していたのは明治19年から昭和50年まで。こちらは付近の海面埋立により水分が蒸発し、塩分の高い水が池に入ってきたため、廃業せざるをえなかったようだ。
その跡地には、現在公共施設がズドンと建っている。
 
いっぽう昭和24年、浦安駅西側のハス田だらけの土地に、遊郭的空間がつくられている。柳町という。玄関がちょっと立派な、しかし普通の家のような遊郭が9軒あった。当初はハス田の中にある店に、田んぼや堰を越えてお客さんが通ってきたそうだ。現在は名残があるかどうか、きわめて微妙な感じであるが、ともかくその後、東西線とネズミーランドで、浦安市は大いなる発展を遂げてゆくのである。
 
さて、長くなってしまったが、これは「猫地名」の紹介記事である。
 
「猫実」の由来とは、どのようなものなのか。郷土史を何篇か読んでみる。そこにあるのは、常に同じ解説であった。すなわち、
 
鎌倉時代、このあたりは大津波に遭い甚大な被害を受けた。
その後人々は、堅固な堤防を築き、その上に松を植えた。
村人たちは、「今後、どんなに大きな津波が来ても、この松の根を越すようなことはない」という願いを込めた。
松の根を越さない
根越さね
ねこざね
 
・・・という由来なのだそうだ。
 
 
がびーん。猫と関係なかった!
 
でもたぶん、猫実は猫が好きなのだろう、とわたしは開き直っている。
なぜなら、

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こういった屋根付きの猫スペースが少なくとも2つはあった。

Suki2

 

キャッツ!

Suki

 

「とまれ」のデザインがネコ科!

などなど、枚挙にいとまがない。

猫実はきっとこころのどこかで、猫を意識しているに違いない。

 
さて、ごはん。
猫実川暗渠沿いの食べものやさんたちをご紹介。

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本流暗渠に面して入口を持っている、スペイン料理屋さん。

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千葉で一番の品ぞろえのワイン。千葉でここでしか飲めないビール、など。
 

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しかしながらなぜか、スペイン人の腕利きシェフが辞めたばかり、かつ、新しいシェフが来る直前、というタイミングで訪問してしまった。パエリアは出せないというので、カルボナーラを食べた。
丁寧に作ってあるカルボナーラ。おいしかったですよ、とても。でもパエリアも食べに行きたいところ。
 

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支流暗渠沿いには蕎麦屋もあり。「ちんねん」さん。
飲める蕎麦屋さんでもあり。
せいろ、田舎、変わり(この日は大葉だったかな?)の三種盛り、に、とうもろこしのかき揚げをつけて。おいし!

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さきの蓋暗渠の延長上、東西線の高架下も川跡ということになる。
良い感じの店が並んでいるのだが、なかでもこの立ち飲み「づめかん」が実によかった。

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「パンの串焼き」というはじめての食べものをいただいた。
おもしろかった。そしてアリだった。他にもいろいろとおもしろい店。

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そして「ミー太郎」。
これもまた用水路跡沿いにある。しかも、「ミー太郎」ですよ。

このトーク時はわたしは「気になっている」と言っただけで、フロアにこの店をご存知の方がいて、「昔は看板に猫の絵がついていた」という新情報を得たのでした。

 

さてさて、暗渠沿い飲み屋「ミー太郎」と猫の関係やいかに?!

この「ミー太郎」潜入情報についても4日に、簡単にレポートしたいと思います。

ではでは、事前学習その1でございました。その2は、間に合えばまた書きたいと思います。

<文献>
・秋山武雄写真集「浦安 青べかの消えた街の時 17歳からの視点」
・「浦安町誌」
・「浦安の歩み」
・「浦安の民俗」
・三谷紀美「浦安・海に抱かれた町」

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九段の花、いまむかし

地獄谷のことを書いたときに少し触れたが、
九段南~三番町あたりに定期的に行っていた時期があった。
妙にしんとした街並みが、印象に残る。
かつてここに花柳界があったと聞き、嗚呼なるほど、と思っていた。
 
しかし、あまり大きな料亭は見かけない・・・
あるとき平安堂という筆屋さんに置いてあった冊子に、
三番町の「あや九段ビル」がかつて「あや」という料亭で、
福田赳夫なども利用していたということが載っていた。
 
現在は立派なビルである。あそこ、料亭だったのか・・・
しかし周囲をぐるぐると歩いてみても、料亭っぽさを残す建物はあれど、どうもサイズが小さい気がして、かつての街並みをあまりうまく想像できなかった。
 
”大手町暗渠ロジー”を書く際、皇居周りのあちこちの火災保険地図を、ついでに得ておいた。
その地図上の街は実に美しい。よく見ると・・・、嗚呼ここは、こういうサイズの待合の街だったのか!
と、すべて合点がいくのだった。
 
 
さて、九段とは、こういう街である。
現在の九段北4丁目、九段南4丁目あたりは、江戸期には夜鷹が現れていたというし、岡場所も作られたことがあるというから、なんだかもともと、艶っぽさを隠し持つ土地であるようだ。
明治の初めになると、富士見町1丁目から三番町にかけ、花柳界がつくられた。当初は、競馬場(現靖国神社参道)の裏辺りだったという。
 
この、富士見町に花柳界ができた背景が独特である。
九段といえば、靖国神社。
明治維新後、「靖国神社に来た軍人が遊ぶところがないから」(そして、変なところで遊びたくないから)ということで、近所の広沢参議(そのバックに地元の有力者2名)が政府に働きかけ、富士見町花街を作る許可を得た。しかしその後、広沢氏は暗殺され、話は停滞してしまう。
明治20年からは、地元の柴田氏が私設の見番(柴田見番)をつくり、そこから少しずつ店が増える。儲かる、ということで、下宿屋からの転身が少なくなかった(小ぶりな店が多いのはそのためか?)。しかし柴田氏が大正に亡くなる。
 
そのとき、富士見町三業組合を作るという動きになったのだそうだ。
新しい見番ができ、大正期は柴田見番=赤、新見番=白、と、赤白に分かれていたのだそう。(※富士見町は当時、現在の九段南まで広がっていた。)
ピークは昭和初期。芸者4~500人、待合130~140軒という規模となった。客層は変わらず軍人多め。しかしこの頃の「全国花街めぐり」では、「かつては軍人専用花街といった感じだったが、今は他の人も来る」とも、書かれている。
永井荷風がここで、二号さんに「いくよ」という待合をやらせていた、と地元の人が語っている。菊池寛をはじめ小説家も多くやってきていた。ただし彼らは、そこで小説を書いていたのだそうだ。優雅な…。
 
昭和8年前後になると、九段三業会館が建設される。このあたりでは初めてのビルディング。それまではビルなどなく、それこそ、富士山が見えたという。
第二次世界大戦中は、営業停止となっていて、見番の中で無線機の部品作りをしていたそうだ。
 
戦後、再開の許可が下りたのは昭和21年。桜井、若泉、よし桜井、一力などが早かった、という回想がある。
その後賑わいが戻るものの、次第に衰退。バブル期には地上げ等々の影響でオフィスビルになるものが増え、廃業が続く。そしてとうとう、1997年に九段三業会は解散する。

Hukugen

 
文献によれば、2008年時点では、「治乃家」「田むら」のみが営業しているという。この写真は”わが町あれこれ”内のものだが、「ふく源」の看板が見える。ふく源も、2017年現在は営業していないようである。「梅川」、「喜京家」などの料亭も廃業し、ビルになっている、という。
 
いま、ビルの名前としてだけ、残っている料亭の痕跡があるということに、少し心が惹かれた。暗渠における、橋の銘板のようなものだろうか。それでわたしは、現代の地図から料亭の痕跡を見てみたい、と思った。
 

Hatsune

 
これは戦前の火災保険地図。「料」が料亭である。
こんなにも料亭がびっしりと並ぶ街だったのだ。想像以上だった。
縮尺が変わってしまうが、現在のマピオンも見てみる。

Kudan1

「富士家」が、「富士の家ビル」になって残っていることが分かる。
(ちなみにこの富士家の隣がふく源なのであるが、どちらの地図でも確認できない。)
 
お隣の区画もみてみよう。
…この、当時の街並みをとても見てみたくなる。耳を澄ませ、匂いを嗅いでみたくもなる。

Uokyu

 
続けて現在の地図を。
 
 
Kudan2
 
「栄㐂」が、「マンション栄嬉」に、
「喜京」が「喜京屋ビル」になって、残っていることもわかる。
マピオンに載らないだけで、残っているものは他にもきっとあるだろう。
他にも3か所に印をつけているが、これは、現在も料亭風の建物が残っている場所である。
 

Fujinoyu

平安堂は、このときの地図にも登場している。その隣が、あや九段ビル。
「あや」とは、女性の名かと思っていたら、「阿家」であったのか・・・
 

Kudan3

 
「ふじの湯」なる銭湯は、現在サン九段ビルになっている。
花柳界であった時分、このエリアに銭湯は二軒あったのだそうだ。入る人は全部花柳界の人。芸者に内風呂は使わせないのだそうだ。理由ははっきりせず、厚化粧のため・・・などと推測する人もいるが、よくわからない。銭湯の内側、さぞかし賑やかであったろう。男風呂はガラガラ…?

Kagai1

 
再び、現在の九段に赴く。
今もわずかに、それらしき建物はある。
最初にこれはと疑った建物は、たしかこの建物だった。火災保険地図では「一松」がほぼ重なる位置ではあるが、現在位置とズレがあるので、もしかすると戦後新たに経営され始めたものかもしれない。

Kagai2

 
しかしこの建物には、つい2か月前ほどだったろうか、取り壊す旨の張り紙がしてあった。
今はもう、なくなってしまったかもしれないな…
そしてすぐ近くに、もう一軒ある。

Kagai3

こちらは、「若泉」とはっきり書いてある。
もう営業はしていないかもしれない。しかし、若泉とは、前述の戦後すぐに営業を再開したと書かれているうちの一軒。小さいながらも、勢いのある店だったかもしれない。火災保険地図にも載っているものだ。
 
「若泉」の文字を見たとき、わたしはなぜかほっとした。
此処にはたしかに、小ぶりな料亭の並ぶ街があった。夜な夜な、芸者が美しく踊り、歌い、笑い声が響いていただろう。局沢の谷では女学生が学び、その隣の崖の上では、芸者が舞い踊る。此処は、女性たちが踏ん張る街だったのだ。
消えゆく痕跡。生き残る痕跡はほんのわずか。しかしこの上品な静けさを持つ街並みの奥に、目を凝らせばそんなものも見えてくる。
 
<文献>
・「大江戸透絵図」2003年
・「東京花街、粋な街」2008年
・「わが町あれこれ」1981年
 
本記事は、「よいまち新聞 大手町暗渠ロジー」に絡めて書いたものです。
暗渠ではありませんが、失われた何かのこと、街のこと、ということで。
大手町暗渠ロジーは、現在WEBから見ることができます(リンク先にPDFあり。これの第3号です)。この花街跡の地面の下を通った水も、大手町まで流れて行っているかもしれません・・・
 
 

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香港暗渠さんぽ

暗渠さんぽ、久しぶりの海外編。
 
タイトルのとおり香港の街中の暗渠を追う記事を書こうと思う。が、その前に、マカオと中国珠海市にも触れておきたい。
 
まずは中国、珠海市。
マカオから徒歩で国境を越えられるので、半日ほど行ってみた。地形的には平坦なところから、水路の出処と思しき丘を目指し歩き始める。すると、

Makau1

予期していない場所で、このようなコンクリート蓋に出逢った。

うわ!日本と似てる!SUGEEEE!
蓋を見ただけで着火。

Makau2

おわ!道路を横断してきて合流してる・・・!!

早くも興奮が最高潮。さまざまな角度から写真を撮り始める。

が、しかし・・・数分後、あることに気付く。

Makau3

あれ。

これ、電気・・・。

ザザー・・・と、水が引くようにテンションが下がるのがわかる。(いや別に電線が嫌いなわけじゃないんです。水路ほど情熱が向けられないってだけで。)

他の蓋やいくつかの条件から、電気の蓋であることがほぼ確定した。なんということだろう。
奇しくもこの日は雨。こんな、隙間から水が入りまくるような構造で大丈夫なんだろうか・・・

Makau4

ともかく、珠海の街中では、このようなコンクリ蓋をかぶせて、電気が走っている。

この写真なんて、川じゃないのに優雅にカーブまでして・・・

Makau5

ちなみに雨水用の側溝の蓋はこういうものだったが、あまり見かけなかった。

Makau6

状況が分かってくると慣れたもので、このような景色を見てもハイハイ電気ね・・・と、心が揺るがなくなる。日本だったら、「キャー水路の立体交差!!!」と、大興奮するはずなのだが。

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そんなわけで、マカオの街中(競馬場前)でこのような蓋を見つけたときも、

「ハイハイ電気ですね」

と、かなり軽く流してしまった。そしてこれは、たしかに電気であった。

・・・こういった流れのなかで、香港を訪れた。珠海よりもマカオよりも、高低差が身近にあり、暗渠の出現に期待できる都市だ。

地図を眺め、「ありそう」な場所を見つけた(ちなみに日本国内ではマピオンやらさまざまな地図アプリを見比べるのだが、海外ではグーグル先生一択。そしてこのグーグル先生、暗渠探しの上では、非常に扱いづらい)。

遡っていくと、ここに到達する。おそらく水源だ。

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                     googlemapより

 

小西湖。
九龍塘という駅が最寄。日中に来ることができず、20時頃の到着となった。

大きなショッピングモールを抜け、湖のあたりに来るも、真っ暗で何も見えなかった。ただ、ザァァ・・・という、音だけはする。割と多くの水が、湖を出て谷を下る音だ。

 

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谷が公園(歌和老街公園)になっているようだが、用心のため通るのは止めた。
九龍塘駅前に戻ると、谷底らしき位置に、このような蓋があった。

しかし、これまでの流れからいって、わたしにはこれは電気だとしか思えない。
もう騙されないぞ。まったく紛らわしい場所に・・・ブツクサ言いながら遠目から写真を一応撮って、去った。

Hong3

谷は感じるが、暫く谷底らしき部分を辿ることはできない。大きなビルの敷地になっているからだ。
達之路という広い道路を渡ると、公園(桃源街遊楽場)になっている。ここは、流路のはずだ。右手には崖が見える。
この公園の感じは、日本の緑道と似ており、少し暗渠らしいといえる。しかしその先、再び川跡は暫く辿れなくなる。中学校の敷地になっているようだ。その、学校の敷地というのも、また、暗渠らしいことである。

・・・で、水源以来、地形だけをたよりに歩き、もんやりと暗渠らしさは感じつつも、決定的にはっきりとした暗渠サインには出会っていなかったところ、

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それは突然現れる。
渠務省の看板!
 
きょむしょう!!(と、広東語ではもちろん発音しないのだろうが。)
 
河川管理課とか、そういう感じだろうか。「渠」がこんなに公に使われているだなんて、感動的である。
この渠務省の看板の奥には、水防関係の施設があるようだった。地下に潜っていく道路がうっすら見え、どぶの匂いが盛大にした。わたしにとっては、暗渠であることを裏付けてくれる、うれしい匂い。

Hong5

水防施設の上は、グラウンドになっていた。これも日本と似ている。グラウンドには入れなかったので、脇の道を下ると、・・・また、あった。そして、この下からも、強いどぶの匂いがした。

もしかしてこれ・・・電気じゃなくて水路なのか?

ただ、この向きはちょっと事態をややこしくする向きで、本来の川筋に向かって斜めになっている。支流暗渠か、はたまた・・・??

いずれにせよ、この下には水が流れているようであった。香港にも、コンクリート蓋暗渠は存在する。

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暗渠蓋のすぐ近くには、さきほどと同じ渠務省の看板があった。なるほどここにある施設は、地下調整池のようだ。しかも、比較的新しい。
ここで、九龍塘駅前で軽く流したあの蓋も・・・と、後悔が押し寄せてくるが、戻るわけにもいかない。
 

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その先、また名を変えて、公園(界限街遊楽場)が続く。
 
この公園には屋外卓球台がどっしりと備わっていた。そして、多くの大人が卓球に興じていた。このとき、21時~22時くらいではなかったか。他のスペースでも、大量の大人が、ベンチに座ってしゃべったり、何かのカードゲームをしたり、遊具(健康器具様の遊具なのだ)で熱心に体を鍛えていたり・・・とにかく、人が多い。
 
そして、夏にこれだけ暗渠に人がたむろしていても、彼らは蚊に刺されない。というか、蚊がいないのだ、暗渠なのに!
これは日本の暗渠との物凄く大きな違いである。この時期に暗渠上の公園でくつろぐなんて、(蚊が)恐ろしすぎてわたしにはできない。

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公園の名がいつのまにかまた変わった。「洗衣街」が横にあるので、こんな名前となっている。洗衣。もちろん、広東語で洗濯、クリーニングの意だ。
 
それにしても児童遊園と名はつくものの、完全に大人の遊び場と化している、というのはおもしろかった。

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その先、太子道西を渡ればそこは、水渠道、という。
 
この川を見つけるとき、最初に手掛かりとなったのが、(google mapではなく)ガイドブック上に見えた僅かな池のようなものと、ひとつだけ変な角度に伸びている空間と、この水渠道という表記のコンボだった。

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水渠道の様子は、こう。

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でも暗渠は、たぶんこちら。道のすぐ脇にこのような空間があった。

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その立ち入り禁止空間の先に、公共の建物があった。
リサイクルごみの収集所、といったもののようだった。公共の施設ということ、それとごみ置き場ということ、それらもまた、日本の暗渠サインに似ている。

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その先は、川跡上がきれいな緑道になっていた。
繁華街のなかにある緑道。その整備されたての感じや、広さや、ひとびととの関係が、渋谷川っぽいなと思わせる一角。

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緑道には、謎の金魚オブジェ。

・・・川に因んでいたらいいなあ。

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延長線上にこんなものがあったので、水門か?と思ったら換気塔だった。

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喚起塔から道路を渡り、ふたたび学校の敷地となって、建物のない一角が斜めに続く。

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旺角道遊楽場上の斜めの区画に出てきて、公園の脇にはまたもごみ収集所だ。

なかなか日本の暗渠サインと重なりが多いので、うれしくなってくる。ただ、足はだいぶお疲れ。おなかもすいてきた。

Hong18

道端にあった簡単な食堂に入る。
言葉は通じない。ビールを頼み、あと、適当に餃子っぽいものを指さして頼む。

・・・すると、餃子だと思ったものは海老ワンタンで、期せずして香港名物の海老ワンタン麺が来た。

15年前、わたしはその食い意地ゆえ、「海老ワンタン麺を食べに」この地に来たことがある。むかしは1杯100円で、それをTVで見、とても魅力を感じたのだった。うれしくて、何杯も食べた。
いまの香港では、どのような店でも100円の海老ワンタン麺など出していない。500~700円くらいだろうか。

Hong19

さて、暗渠の続き。

今度はわかりにくく、長旺道という幅広の道となる。

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と、その道の最後で、あの蓋が現れた。やはり、どぶの匂いとともに。

そのさき、太い道路を渡るが、夜市にも行きたいので、ここまでで追うのをやめた。

 

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                        google mapより

暗渠のルート(一部)を、水色線で示す。
このように、地図上でもここだけが浮いていて、川っぽいことがわかるだろう。

このさき痕跡は減るが、海へ向かって流れているようだった。

さて、この暗渠の名前はなんというのだろうか?
広東語も出来ないし、香港で文献に当たることはできなかったので、あまりやりたくないけれど、今回はwikiに頼ることとする。

wikiに名前が載っていた。「花墟道明渠」という水路であったらしい。もしくは、旺角花墟道明渠。延長210mという短さと、この名称からして、この水路のほんの一部だけを指す名称のように思う。

あの屋外卓球台が設けられていた公園の隣の道が「花墟道」なので、おそらくあの連続する公園のあたりにかつてあった開渠のことをいうようだ。下水が流れ込むようになり、臭気が問題化したため、2008年までに蓋がけされたようである。

わりと最近のこと・・・!

wikiの写真を拝借する。(出処はこちら。)

Hong21

まさに蓋がけの最中の写真。

川全体を通しての名前は、見つけられなかった。小西湖からはじまり、その後姿を見せないこの川は、少しずつ暗渠にされてゆき、残る部分は地名を冠された明渠となっていた、ということだろうか。いくつかのポイントはまだ新しかったことから、2000年以降に着手されたものも少なくなかったのかもしれない・・・

wikiのリンク先「二十年代九龍地図」には、この川がはっきりと載っている。また、支流のようなものも見える。

暗渠蓋の隙間から流れ出る臭気になんとなく日本の1960年代を思った、香港の繁華街にある暗渠。・・・また行く機会があれば、今度は支流も辿ってみたい。

 

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