香港暗渠さんぽ

暗渠さんぽ、久しぶりの海外編。
 
タイトルのとおり香港の街中の暗渠を追う記事を書こうと思う。が、その前に、マカオと中国珠海市にも触れておきたい。
 
まずは中国、珠海市。
マカオから徒歩で国境を越えられるので、半日ほど行ってみた。地形的には平坦なところから、水路の出処と思しき丘を目指し歩き始める。すると、

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予期していない場所で、このようなコンクリート蓋に出逢った。

うわ!日本と似てる!SUGEEEE!
蓋を見ただけで着火。

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おわ!道路を横断してきて合流してる・・・!!

早くも興奮が最高潮。さまざまな角度から写真を撮り始める。

が、しかし・・・数分後、あることに気付く。

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あれ。

これ、電気・・・。

ザザー・・・と、水が引くようにテンションが下がるのがわかる。(いや別に電線が嫌いなわけじゃないんです。水路ほど情熱が向けられないってだけで。)

他の蓋やいくつかの条件から、電気の蓋であることがほぼ確定した。なんということだろう。
奇しくもこの日は雨。こんな、隙間から水が入りまくるような構造で大丈夫なんだろうか・・・

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ともかく、珠海の街中では、このようなコンクリ蓋をかぶせて、電気が走っている。

この写真なんて、川じゃないのに優雅にカーブまでして・・・

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ちなみに雨水用の側溝の蓋はこういうものだったが、あまり見かけなかった。

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状況が分かってくると慣れたもので、このような景色を見てもハイハイ電気ね・・・と、心が揺るがなくなる。日本だったら、「キャー水路の立体交差!!!」と、大興奮するはずなのだが。

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そんなわけで、マカオの街中(競馬場前)でこのような蓋を見つけたときも、

「ハイハイ電気ですね」

と、かなり軽く流してしまった。そしてこれは、たしかに電気であった。

・・・こういった流れのなかで、香港を訪れた。珠海よりもマカオよりも、高低差が身近にあり、暗渠の出現に期待できる都市だ。

地図を眺め、「ありそう」な場所を見つけた(ちなみに日本国内ではマピオンやらさまざまな地図アプリを見比べるのだが、海外ではグーグル先生一択。そしてこのグーグル先生、暗渠探しの上では、非常に扱いづらい)。

遡っていくと、ここに到達する。おそらく水源だ。

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                     googlemapより

 

小西湖。
九龍塘という駅が最寄。日中に来ることができず、20時頃の到着となった。

大きなショッピングモールを抜け、湖のあたりに来るも、真っ暗で何も見えなかった。ただ、ザァァ・・・という、音だけはする。割と多くの水が、湖を出て谷を下る音だ。

 

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谷が公園(歌和老街公園)になっているようだが、用心のため通るのは止めた。
九龍塘駅前に戻ると、谷底らしき位置に、このような蓋があった。

しかし、これまでの流れからいって、わたしにはこれは電気だとしか思えない。
もう騙されないぞ。まったく紛らわしい場所に・・・ブツクサ言いながら遠目から写真を一応撮って、去った。

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谷は感じるが、暫く谷底らしき部分を辿ることはできない。大きなビルの敷地になっているからだ。
達之路という広い道路を渡ると、公園(桃源街遊楽場)になっている。ここは、流路のはずだ。右手には崖が見える。
この公園の感じは、日本の緑道と似ており、少し暗渠らしいといえる。しかしその先、再び川跡は暫く辿れなくなる。中学校の敷地になっているようだ。その、学校の敷地というのも、また、暗渠らしいことである。

・・・で、水源以来、地形だけをたよりに歩き、もんやりと暗渠らしさは感じつつも、決定的にはっきりとした暗渠サインには出会っていなかったところ、

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それは突然現れる。
渠務省の看板!
 
きょむしょう!!(と、広東語ではもちろん発音しないのだろうが。)
 
河川管理課とか、そういう感じだろうか。「渠」がこんなに公に使われているだなんて、感動的である。
この渠務省の看板の奥には、水防関係の施設があるようだった。地下に潜っていく道路がうっすら見え、どぶの匂いが盛大にした。わたしにとっては、暗渠であることを裏付けてくれる、うれしい匂い。

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水防施設の上は、グラウンドになっていた。これも日本と似ている。グラウンドには入れなかったので、脇の道を下ると、・・・また、あった。そして、この下からも、強いどぶの匂いがした。

もしかしてこれ・・・電気じゃなくて水路なのか?

ただ、この向きはちょっと事態をややこしくする向きで、本来の川筋に向かって斜めになっている。支流暗渠か、はたまた・・・??

いずれにせよ、この下には水が流れているようであった。香港にも、コンクリート蓋暗渠は存在する。

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暗渠蓋のすぐ近くには、さきほどと同じ渠務省の看板があった。なるほどここにある施設は、地下調整池のようだ。しかも、比較的新しい。
ここで、九龍塘駅前で軽く流したあの蓋も・・・と、後悔が押し寄せてくるが、戻るわけにもいかない。
 

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その先、また名を変えて、公園(界限街遊楽場)が続く。
 
この公園には屋外卓球台がどっしりと備わっていた。そして、多くの大人が卓球に興じていた。このとき、21時~22時くらいではなかったか。他のスペースでも、大量の大人が、ベンチに座ってしゃべったり、何かのカードゲームをしたり、遊具(健康器具様の遊具なのだ)で熱心に体を鍛えていたり・・・とにかく、人が多い。
 
そして、夏にこれだけ暗渠に人がたむろしていても、彼らは蚊に刺されない。というか、蚊がいないのだ、暗渠なのに!
これは日本の暗渠との物凄く大きな違いである。この時期に暗渠上の公園でくつろぐなんて、(蚊が)恐ろしすぎてわたしにはできない。

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公園の名がいつのまにかまた変わった。「洗衣街」が横にあるので、こんな名前となっている。洗衣。もちろん、広東語で洗濯、クリーニングの意だ。
 
それにしても児童遊園と名はつくものの、完全に大人の遊び場と化している、というのはおもしろかった。

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その先、太子道西を渡ればそこは、水渠道、という。
 
この川を見つけるとき、最初に手掛かりとなったのが、(google mapではなく)ガイドブック上に見えた僅かな池のようなものと、ひとつだけ変な角度に伸びている空間と、この水渠道という表記のコンボだった。

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水渠道の様子は、こう。

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でも暗渠は、たぶんこちら。道のすぐ脇にこのような空間があった。

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その立ち入り禁止空間の先に、公共の建物があった。
リサイクルごみの収集所、といったもののようだった。公共の施設ということ、それとごみ置き場ということ、それらもまた、日本の暗渠サインに似ている。

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その先は、川跡上がきれいな緑道になっていた。
繁華街のなかにある緑道。その整備されたての感じや、広さや、ひとびととの関係が、渋谷川っぽいなと思わせる一角。

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緑道には、謎の金魚オブジェ。

・・・川に因んでいたらいいなあ。

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延長線上にこんなものがあったので、水門か?と思ったら換気塔だった。

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喚起塔から道路を渡り、ふたたび学校の敷地となって、建物のない一角が斜めに続く。

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旺角道遊楽場上の斜めの区画に出てきて、公園の脇にはまたもごみ収集所だ。

なかなか日本の暗渠サインと重なりが多いので、うれしくなってくる。ただ、足はだいぶお疲れ。おなかもすいてきた。

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道端にあった簡単な食堂に入る。
言葉は通じない。ビールを頼み、あと、適当に餃子っぽいものを指さして頼む。

・・・すると、餃子だと思ったものは海老ワンタンで、期せずして香港名物の海老ワンタン麺が来た。

15年前、わたしはその食い意地ゆえ、「海老ワンタン麺を食べに」この地に来たことがある。むかしは1杯100円で、それをTVで見、とても魅力を感じたのだった。うれしくて、何杯も食べた。
いまの香港では、どのような店でも100円の海老ワンタン麺など出していない。500~700円くらいだろうか。

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さて、暗渠の続き。

今度はわかりにくく、長旺道という幅広の道となる。

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と、その道の最後で、あの蓋が現れた。やはり、どぶの匂いとともに。

そのさき、太い道路を渡るが、夜市にも行きたいので、ここまでで追うのをやめた。

 

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                        google mapより

暗渠のルート(一部)を、水色線で示す。
このように、地図上でもここだけが浮いていて、川っぽいことがわかるだろう。

このさき痕跡は減るが、海へ向かって流れているようだった。

さて、この暗渠の名前はなんというのだろうか?
広東語も出来ないし、香港で文献に当たることはできなかったので、あまりやりたくないけれど、今回はwikiに頼ることとする。

wikiに名前が載っていた。「花墟道明渠」という水路であったらしい。もしくは、旺角花墟道明渠。延長210mという短さと、この名称からして、この水路のほんの一部だけを指す名称のように思う。

あの屋外卓球台が設けられていた公園の隣の道が「花墟道」なので、おそらくあの連続する公園のあたりにかつてあった開渠のことをいうようだ。下水が流れ込むようになり、臭気が問題化したため、2008年までに蓋がけされたようである。

わりと最近のこと・・・!

wikiの写真を拝借する。(出処はこちら。)

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まさに蓋がけの最中の写真。

川全体を通しての名前は、見つけられなかった。小西湖からはじまり、その後姿を見せないこの川は、少しずつ暗渠にされてゆき、残る部分は地名を冠された明渠となっていた、ということだろうか。いくつかのポイントはまだ新しかったことから、2000年以降に着手されたものも少なくなかったのかもしれない・・・

wikiのリンク先「二十年代九龍地図」には、この川がはっきりと載っている。また、支流のようなものも見える。

暗渠蓋の隙間から流れ出る臭気になんとなく日本の1960年代を思った、香港の繁華街にある暗渠。・・・また行く機会があれば、今度は支流も辿ってみたい。

 

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地獄谷、あの日の記憶

「あの日」のことを、明瞭に語れる人は多いだろう。

それから、その場所を通ることで、関連付けて「あの日」を思い出すことも。わたしにとって、そのような場所はいくつかある。

あの日。
わたしは職場にいた。当時の職場は、文京区にあった。

あの時間のことをここで詳細に触れるつもりはないので、大きく省略して書いていく。

職場の敷地で最も広いところに、大勢が集まっていた。緊急放送が流れる。わたしは郷里のことばかり考えていた。放送の声は落ち着いていたが、論理的には矛盾していた。横で後輩が、「この放送が言っていること、論文だったら不採択ですね。」と言ったので、思わず、笑った。彼はきっと、大物になるんじゃないかな・・・なんとなくそんな気がする。

しばらく時間が経ち、歩いて帰ることになった。ざっくり言って同じ方向のひとたち、4人で職場を出る。わたしは暗渠を書き込んだ、紙の地図を持っていた。あまりにも繋がらない電波に、とっくに携帯の電池は切れている。あんなに紙の地図に感謝したことは、後にも先にもない。

九段下で、南へ行く二人と別れた。残る同僚は神奈川の人で、あまり地理がわからないようだったから、兎に角渋谷まで案内することにした。
通りは花火大会のようなありさま。わたしはなんとなく一本裏道を歩きたくなった。そして、以前から気になっていた「あの道」に同僚を誘った。

そこは谷なので、避けたほうがよかったのかもしれないと後にして思う。でもわたしは、崖線の話などに反応してくれるその同僚に、地形や暗渠の話をしながら歩きたかった。不安に直面したくなかったのかもしれない。結果、わたしたちはノンビリと裏道を歩き、気になっていた谷をのぼり、鮫河谷を横切り、そして明治通りで別れた。

あのとき、谷が思っていたよりずっと早く谷の形状でなくなってしまったことは、ずっと心のどこかに引っかかっていた。

わたしが「あの日」を思い出す「あの道」のひとつは、ここである。

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靖国神社付近。2005年からこの近くに仕事で来るようになり、そして、誰に問うでもなく、気になっていた谷だ。

千鳥ヶ淵に向かって、その谷は落ちている。

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千鳥ヶ淵側はこのようになっている。ここにだけぽっかりと団地がある。
(現存するか確認していないが、この写真は2014年のもの。)

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この給水塔も、周辺からすると異色の存在だ。

二松学舎大学の横の道から、目指す谷に入る。

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しかし、あっというまに谷は消えるのである。
たしかこのあたりにはもっと大きな谷があり、そこの下流部であるとばかり思っていたから、どうも辻褄が合わなかった。

その後、3D地形図を自分で見られるようになり、わたしの脳内地形図が間違っていたことが分かる。ここには3つの谷があるようで、二松学舎脇は、その北端のものだった。

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赤丸部分がさきほどの谷(「スーパー地形」より)。川もあったかもしれないが、とくに名付けられた文献をみたことはない。

この、十手みたいな形をした3つの谷は、内堀の形成と深く関係している。
これらの谷にあった川を堰き止めて、千鳥ヶ淵ができたという。江戸城以前は、城の内部を抜ける形で流れていたのではと推測する人もいる。地名として江戸以前から局沢というものがあり、川は局沢川と呼ばれる。この谷は、局沢川の支谷といっていいだろう。

ある日、ふと思いついたことがあった。それを確かめるために、千鳥ヶ淵でボートに乗った。

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ボートで探検したところ、さきほどの局沢支谷の先と思われる位置に、合流口があった。・・・本当にあるとは。
これには、かなりの感動を覚えた。地形は今もなお生きていて、時折、流下した雨水等が、ここから千鳥ヶ淵に注ぐのだろう。その流れは、大昔と同じルートかもしれない。

さて、「大きな谷があったはず」と、わたしに思わせていた別の谷も、確認してみたい。

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もっと深い谷は、すぐ南にあった。

 

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赤丸部分。さきほどの谷とは、比べものにならないほど深い。
そして、千鳥ヶ淵に食われてしまっているので、最下流部がさきほどの谷と異なる位置にある。

まずは、この谷の河口を見にゆこう。

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千鳥ヶ淵に向かう谷筋が見える。冒頭の谷よりも、凹凸としてはだいぶ緩やかだ。

ここの合流口は、ボートに乗らずとも見ることができる。

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フラップゲートがちらり、と見える。この季節は春だが、雑草ですでに隠れ気味なので、冬にゆけばもっとよく見えるかもしれない。

残念ながら、千鳥ヶ淵のボートでは行けない場所だった。

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高速道路に阻まれてしまい、おそらく何者も入れまい。

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その高速道路を含んだお濠と江戸城敷地、後方のオフィスビル群はハイブリッドで、いかにも東京な景色をつくりだしている。

中世以前にはあった流れの名残も、僅かに足元にある。
明治の頃、このへんで近所の子どもたちは釣りをしていたという。主にフナが釣れ、巡査に追い払われながら、遊んだそうだ。

さまざまな時代が交叉する。

・・・さて、局沢川を遡上しよう。

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大妻女子大エリアにやってくる。大妻の体育館は、まるまる谷底にある。すっぽり。
大妻の交差点から南北に延びる坂は、徳川家の厩舎があったため「御厩谷坂(おんまやだにざか)」と呼ばれるのだそうだ。馬が足を洗った池もあったという。
これらと関連して、この谷自体も御厩谷、とも言われることがある。

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主に住宅街だが、ぽつ、ぽつと大妻関連の敷地が続く。
いつのまにか両側の崖が立派になっており、ときどき目に入ってくる。

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その立派な崖には、すてきな階段が。

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ここはなんだか好きな階段なのだ。細い家もかっこいい。

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九段小学校のプールの前。やはり谷底に近い位置にプールは設けられている。

ちなみにここの公園にある高架水槽、

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色といい錆といい、激しく格好良い。

ここで谷はクランク状になっており、そのまま遡ることはできなくなる。いったん、坂道を上る。

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谷の敷地に学校が相次ぐ。千代田女学園。

この谷は、三番町の谷、とも言われる。大妻に千代田女学園、女子学院も隣にある・・・なんとも女子教育に彩られた谷である。

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テレビ局跡地が広い駐車場になっていて、その少し手前から谷は曖昧になっていた。
途中の崖の険しさにしては、どうもアンバランスな結末、という気がする。

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もう一本、南のものも辿らねばなるまい。
ここは局沢川の本流と言っていい大きさだ。
一番町の谷。それから、地獄谷、樹木谷、黄金谷、小粒谷、などとさまざまな名がある。「麹三渓の記」で三丁目谷、柳川と書かれているものもこれであろう。普段は4~5尺幅の小流であるが、大雨時には洪水となり、床上浸水となることもあったようだ。

河口は1つ前とおなじ。

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ちなみに、河口近辺に、珍しい段差スロープの集合体がある。

歩き出してみると、この谷はほぼまっすぐ、ずっと道路になっている。

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谷底喫茶店。店内にはウーパールーパーがいて、急激に昭和に引き戻される感覚。ナポリタンを食べたが、まだ先に行きたいのでここでは割愛する。

他の局沢支流が住宅とオフィス(含む教育施設)だらけなのに対し、この道は最も飲食店が多く、暗渠めしに困ることはない。

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唐突に甲斐犬が現れた。

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山梨愛にあふれる、Kaijiというレストランだった。

ほか、欧風カレー、フレンチ、創作イタリアン、中華、立ち食い蕎麦など、なんでもござれだ。

「紫の一本」で地獄谷として紹介されるこの地は、「昔この近所にて倒れ死ぬもの、成敗したるものをここに捨つ故、骸骨みちみちたりし故名付く」という、怖く、寂しい場所である。想像することが難しいくらいに、異なる風景である。

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あっというまに上流端にきた。
このあたりはおそらく、神楽坂へ移動した善国寺があったため善国寺谷と呼ばれたり、柳川の名のもとになった柳橋が架かっていたあたりではあるまいか。

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奥のあたりで、やんわりと谷は尽きる。
その区割りや雰囲気に、なんとなく川跡の感じはあった。

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明治期の地図でも、3つの谷のうち、ここにだけは流れが描かれていた(「東京時層地図」より)。「三丁目の下水」と言われている。

 

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ただ、この地形はかなり弄られているはずだ。付近では富士見地区(九段南3丁目)に貝塚があり、この谷が古代に水田として利用されたらしいとうことから、谷自体は古くからあっただろう。しかし外濠を作る際に出た土でこの局沢谷を埋め、宅地にしたという記録もある。江戸以前の地形が分かる史料にたどり着けず、もどかしいのだが、ここにはもっと深い谷があったのだろう。しかし、埋めて浅い谷にしても、そこに水の流れは、残らざるを得なかった。

さまざまな時代に、思いも交叉する。都心の暗渠、って感じだよなあ・・・

さて、ゴハン。

局沢谷ではよりどりみどりである。みたび河口に戻り、

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見晴らしの良いレストランにしよう。二松学舎大学の、最上階へ。

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ランチは日替わりのハンバーグや、カレーなどがある。きれいで、なかなかおいしい。時間が遅かったため人がほとんどおらず、所謂大学の学食とはなにもかも異なる雰囲気を堪能した。

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食後にかわいらしいケーキまでついてくる。

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二松学舎ビュー。
最上階のハンバーグは気に入って何度か食べている。地下に学食があり、そちらはまさに食堂で、「これこれ、こういうのでいいんだよ」と、学生に混じりながら味噌ラーメン、ハヤシライスなどを食べた。

もうひとつ局沢谷にある大学といえばここ、大妻女子大学の学食にも潜入する機会があった。

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こちらも地下であったが、名物らしいホットサンドの具のバリエーションがすばらしい。スープセットにして手作りプリンも付けたこと、具の片方がグラタンらしいこと、以外、忘れてしまった・・・食い意地が張っているはずなのだが、数年たつと記憶が薄れるらしいデス・・・

この記事は、前記事同様、「よいまち新聞」配布に絡めて描いたものです。そろそろ次号の配布に切り替わっているかもしれません。そのときは、「よいまち新聞」で検索をかけてみてください。きっと「大手町暗渠ロジー」も、出てくると思います。

<文献>
・「わが町あれこれ」
・「明治百年古老のつどい」
・「千代田区史」

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清水谷、谷底で飲む水

本当のところ、江戸の内側は苦手だ。
それなりに谷があり、暗渠だって存在するというのに、江戸をつくるさいに随分と土地が改変されているから、地形に対する鼻の利きが悪くなる。調べることは大好きだが、私の興味の中心は明治期までであり、読みにくい古い文字を、漁って読む気もあまりしない。特に千代田区なんて、皇居の関係か下水道台帳の秘匿エリアが多いため、気になる吐口を見つけても、台帳を開いて「ああっ(わかんないんだった)!」となるときのムナシサを思うと、いったい自分はどうやって戦えばいいんだ、という気持ちになってくる。
しかし、正体不明ではあっても、そこにあるうつくしい崖や、湧いちゃった水や、気になる地形は辿らざるを得ない。まして都心の谷は、さまざまな所用のついでに寄りやすく、つまり、やっぱり良いものなのだ。
 
上智大学の裏側で出会うこの崖は、なかなか凄い。
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これもよいのであるが、あるとき、そのさらに下の、壁が剝き出しになった駐車場に目が吸い寄せられた。

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こういった「現代の遺跡」には、なぜか心躍る。

遺跡も含め、ここは清水谷、という谷である。
 
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                                                       カシミール3Dより

上智大の裏から赤坂見附に至る、ごく短い谷だ。今回は、清水谷を練り歩くとしよう。
 
上智大の奥にまわり、坂道を下る。
 
Smzkabe2
 
この擁壁は圧巻。
昔はさぞ暗く、怖い道だったのではないかしらん。
 
じっさい、清水谷の一角にはこんもりとした森があり、戦前までは子どもが寄り付けない雰囲気を放っていたという。
もう少し下の清水谷公園は、小泉八雲「むじな」の舞台でもある。商人が女性に、「こんなところにいては危ない」と言いたくなるような、人気のない、さぞ恐ろしい場所だったのだろう。
 
それから、場所が曖昧ではあるのだが、カレー屋のみえるあたり、このあたりに江戸初期、遊郭があった、とも言われている。こんな傾斜地に?まあ、川沿いではある。ここ麹町遊郭をはじめ、3か所の遊郭が吉原にまとめられたのだそうだ。
麹町遊郭は、もとは京都から移転したものといい、吉原に移っても「京町」なる一角を形成し、京都出身ということに誇りを持っていた。大見世があったのも京町。吉原の区画では、もっとも奥に位置するものである。
 
下ってゆけば、視界が開けて冒頭の駐車場のところにくる。いつの間にか、駐車場には入れなくなり、工事らしきものが始まっていた。
なぜか「だし」の自販機がある。
 
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清水谷公園にさしかかる。

「清水谷」の由来は、この谷に柳の井という井戸があり、清冽な水が絶えず湧いていたことからきている。その井戸のイメージが、公園の中に設置されている。
 
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「八丁目続き、今の麹町谷町と称する地なり。古は67丁目の地はすべて清水谷と称せしか、四ツ谷御堀の揚土をもて78丁目の地を埋めしといへる也」

河内全節「番街誌略」によれば、これでもこの谷は江戸期に埋められている。もう少し、上に続きがあったかのようだ。
 
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東京時層地図((財)地図センター)、「文明開化期(明治9-19年)」を見てみる。冒頭の駐車場の位置に、池がある。そして、谷底に細い細い流れがあって、弁慶堀に注ぐことがわかるだろう。

Smzmap

同じく東京時層地図にて、大正5~昭和2年を見ると、このころには水路はなくなったかのように見える。

 

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ところが、それよりも後のはずの火災保険特殊地図(1953~55年)を見ると、流れは残っている。上流部など、道を逸れて敷地に食い込んでいる。

 

川、というには、細すぎるだろうか。
この清水谷には、明治期にも、昭和に入ってからも、流れが見られた。地形としては江戸時代に弄られているはずだが、それでも残る高低差に、水は絶えず湧かざるを得なかったのだろう。
 

しかしこの谷、じつに短い。
もうそろそろ、河口だ。
 
現在は「東京ガーデンテラス紀尾井町」が建っているが、これもごく最近のこと。
建設中は、赤プリ時代の写真なんかが、工事現場の壁に貼られていた。
 
Smzpool67

そこから拝借。おお・・・赤プリのプール、お濠の上じゃないか。景観を意識してのことかもしれないが、水の流れ的にも正しい位置だ。などと、思う。

 

そのお濠、弁慶堀は水面の残る貴重な場所。
 
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弁慶橋が架かる。

 

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ただしこの弁慶橋、もとは神田藍染川に架かっていた、とどこかの文献で読んだ。

 

弁慶堀には釣り堀があって、ボートに乗ることができて、ここだけ昭和の空気が漂っている。清水谷を流れてきた川の、河口の痕跡が見えないだろうか。雨水の合流口がぽっかりと在ることが、まあまあある。暗渠を歩くときには、できるだけ河口まで見ておきたいものである。
そう思って、ボートに乗りに来た。
 
Simizukakou_2

うーん・・・アレ・・・かな?

 

判然とせぬまま。
まあ、ボートでくまなく探索したので、これで良し、といたしましょう。
 
さて、ごはん。
清水谷の、井戸から湧き出す清水は、道行く人たちののどを潤していたという。
しかしその、のどを潤すものは、水だけではなかった。
 
ビール。
 
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前掲の地図の、行政裁判所と清水谷公園との間に、ビール工場があった、という。
明治期の地図に、工場のようなマークが入っている。大きな池のような描写も、恵比寿にあったビール工場のそれと似ている。
 
そのビール会社は、「櫻田麦酒会社」といった。
横浜で創業された、わが国最初のビール工場の代理店であった会社が、ここ紀尾井町に醸造用水等の理由から工場を移転。明治の、ほんの一時期、こんなところにビール工場があったのだ。
のちのアサヒ・サッポロの前身、大日本麦酒になってゆく会社である。
 
明治10~20年代の国産ビールといえば、この櫻田と、浅田であった、という。
浅田。
それは中野にあり、本ブログでもだいぶ前に桃園川支流の記事で話題にしている。
そして、前掲の地図に、伏見宮邸、という文字も見える。加藤清正の下屋敷が井伊家中屋敷となり、伏見宮邸となって、現在はニューオータニである。そういえば、中野にも伏見宮別邸があった。そして伏見宮別邸の近くには、浅田ビール工場があった。なんだか、ビールに縁のあるおかたで・・・
 
今は工場はないけど、ビールはある。
清水谷の暗渠がちょうど見える位置に、オーバカナルがある。
すばらしいことに、「牛肉のビール煮」もあった。
 
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ビール煮、うまうま。
目の前に湧水と水路があり、左上の崖の上にビール工場があった。
とっくのむかしに、それは無い。
でも清水谷の谷底には、いまでも良い水があり、道行く人の喉を潤している。

 
さて、この記事は「よいまち新聞vol.3」に寄稿した、「大手町暗渠ロジー」という記事に合わせて書いたものです。
大手町ホトリア地下にあるよいまち、という飲食店街のラックにて、よいまち新聞配布中ですので、ぜひそちらも読んでみてくださいまし。
 
Yoimati

 

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西荻にて「井草川と縄文と」展示中


水無月、暗渠月。
暗渠月に、暗渠の展示。

西荻、アトリエすゞ途さんでの展示『井草川と縄文と』に、既においで下さったみなさま、どうもありがとうございました。
本展示は、6/25までです。
アトリエの営業日は水・金・土・日なので、後3日となりました。

井草川を舞台に、縄文と暗渠の情報を重ねてゆく展示。
展示方法にも、ささやかながら、懲りました。
アーティストさんたちの、さまざまな縄文および暗渠グッズもあります。
コラボ顔ハメや、暗渠パズルもあります。
まだのかた、是非是非見に来てくださいませ。

水辺と人と暮らし。みなさんのおさんぽに役立ちますように。

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三軒茶屋を流れるもの

 

三軒茶屋に行くと、「弟を心配する自分」を思い出す。

 

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年の離れた弟がいる。

年が離れているから、ろくに喧嘩もすることなく、なんとなく仲良くやってきたように思う。

弟には、なんとなく深く悩んでいそうな時期があった。

そのころ彼は、三軒茶屋に住んでいた。

わたしは親の心配なども背負って、ときどき弟に会いにいき、一緒にご飯を食べたり、買い物をしたりしていた。 

 

だから今でも、三軒茶屋は「弟を心配する自分」の空気が残っている街だ。弟はとっくに転居し、もうそこに住んではいない。彼がこの街に居ないことを、なぜかわたしはさみしく思う。そして、たいした用はなくっても、たまに訪れてしまう。

 

田園都市線の改札を出て、246を歩く。茶沢通りを進んで下の谷商店街を歩いてもいいのだが、弟の家に行くときにみつけた、ある暗渠を歩きたいので、246を歩く。

 

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テル子支流と呼ばれている暗渠だ。はじまりの細い路地が、いつの間にか綺麗になってしまっていた。

 

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この細い路地が、たまらなくいい。

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その先少し幅広となって、弧を描く。そこにあるテル子女神像が、この支流の名前の由来。といっても、適当に呼んでいるだけだけれど。

 

この暗渠が合流する先にあるのは、烏山川である。立派な緑道となっている。

 

 

この「三軒茶屋あたりの烏山川」のことを、三好達治が描いている。

 

ある年の5月に、三好は散歩に出かけた。5月は散歩に良い。三好は「とある大通りの、そこからその道の向こうがゆるやかな谷底になって」、川のありそうな場所に出る。家が途切れ、麦畑になる。

 

三軒茶屋の駅近辺に向かおうとする際、烏山川を渡る。

「そうした私は橋板のつぎはぎだらけな木橋の太子堂橋というのの上に立ちどまった。水の音がさらさらと声をたてている。そのせせらぎの起こっているところは、そこからずっと上流の方へかけて見通しになっていて、その両岸からここではまた鮮やかな緑の枝がところどころ危うげに傾きかかっているのが眺められた。」

Taisi2

 

なかなか風情ある景色・・・しかし描写はこのようにつづく。

 

「それは一寸洒落ていたが、けれどもその下を流れる水量の乏しい水は真っ黒な汚水で、汚水の臭気は橋の上の私までは届かなかったけれども、夏蜜柑の皮のいっぱい散らかっている間から起こるそのせっかくのせせらぎの声は、やがて私に戦慄を伝えないではおかなかった。」   三好達治「東京雑記」より

 

 

麦畑と鮮やかな緑の並ぶ川沿い。

しかし、川はくろぐろとしている。

 

あのときの弟は、くろぐろとしたものを抱えていたのかもしれないが、それをわたしに直接見せることはなかった。ただなんとなく、感じ取ることはあった。あのとき、わたしはもっと水面を見なければならなかったのだろうか。わたしたちは、好きなゲームやマンガ、最近作った料理の話、弟の家の近くの猫の話、そんな話ばかりしていた。

 

いま、烏山川はまったくそのころの面影をとどめていない。きれいな緑道になっていて、その装飾が想像させようとしているものは、澄んだ水が流れていた頃の烏山川なのである。実際は下水が流れているのだが、きれいに蓋をされ、安全にガードされている。

 

Taisi3

 

 

いま、弟は、わたしよりはるかに頼れる人物になっており、みなにやさしく、しっかりとした社会性をもっている。わたしが心配されることさえある。弟はいつのまにかおそらく、くろぐろとしたものを、乗り越えていたのだった。

 

三軒茶屋に行くとかならず寄る店がある。あの三角地帯の中華饅頭屋、包包。この店も、弟が教えてくれたもので、彼は海老包が好きだったらしい。この日は高菜と角煮入りまんと、なにも入っていない包と、春巻を買った。

Taisi10

 

 

何故わたしは、弟がこの街に居ないことをさみしく思うのだろう。もしかしたら、わたしは弟を心配するという、長子らしいことをしたかっただけなのだろうか。その役目を果たせたのかどうかも、よくわからない。

 

たぶん、わたしにとって三軒茶屋はいつまでも、「弟を心配しに行く街」なのだ。

弟はもうそこにはいないのだけど。

 

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西荻滋味さんぽとリオデジャスイロ!

またもお知らせでスミマセン。

西荻で開催される明日・明後日の情報です。
11月12日19時からは、
Qusumi
孤独のグルメや昼のセント酒の著者、久住さんとトークをします。
西荻のまちではいま、ドブエンナーレ関連の展示があったり、グッズが売られていたり、関連本が買えたり読めたり、そして道端にQRコード(ニシオギ水ノオト)が潜んでいてアクセスすると水のものがたりが読めたりするので、それらをたのしみながら会場に来ていただけたら、と思います。
あるいは日中他のまちで遊んで、このトークを聞いてから西荻で飲んだくれるのも素敵です。
正直、情報がどのくらい伝わっているのかわからず・・・、でも、あの久住さん&西荻というだけで、もうおススメイベントといっていいのでは。と、思います。
11月13日、18時からは、
Rio
ブラジル暗渠トークです。
おいしいブラジル料理も味わえるお店、コポドヂアさんで。
海外の暗渠レポートを楽しみたい方、それからブラジル行ったことないからなんか遠いなと思う方のため、わたしが西荻暗渠に無理やり寄せて話したりしてみたい(その場所は西荻でいうとここだ!的な)と思います。
こちらは申込制。奥深く、そしてどこまでも広がる暗渠の世界へ是非おいでください!

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荻窪暗渠展と西荻ドブエンナーレ

お知らせです。

9月からすでに始まっているのですが、、、11月27日まで、「荻窪暗渠展」開催中です。
場所は、杉並区立郷土博物館分館。天沼弁天池のあったところです。
Ogi_2
本日11月1日から、オリジナルコースター第三弾を、アンケート記入をしてくださった希望者に配布中です。もし興味のある方がいらっしゃいましたら、ぜひ。
もうひとつは明後日から開始の西荻ドブエンナーレ。
そのうち、上旬開催のイベントについてまずお知らせします。
Sho
11月5日、13時からは、銭湯にて上演される暗渠演劇「一輪の書」。
Siro
おなじく11月5日、19時からはギャラリー数寄和さんで荻窪圭さん・駒見学芸員と中世&地形の「凸凸凹トーク」。
これらふたつは、申込が必要なのでぜひぜひお申し込みください。
Suisha
11月6日、13時からは、善福寺池のほとりで「水辺の茶話会」。水車アーティスト対談、水車とのコラボ演奏などがあり、雨天でも用意があります。
こちらは投げ銭制なので、ふらりと来ていただいて大丈夫です。
今週、暗渠まつりがはじまりますよ~。

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金太郎計測

今回は、「わかるひとにしかわからない度」が、非常に高い記事の予感。
しかし、どうしても調べたくなってしまったのです。
そのきっかけは、「阿佐ヶ谷暗渠マニアック!」の講演準備中、最近見返していなかった資料たちに久しぶりに目を通したときに現れたコレ。うっとりするような若々しい金太郎(注)がいたのでした。
Kintaroumukasimini
                     (”高円寺 村から町へ”より)

注:車止めは暗渠サインのひとつですが、かならず暗渠上にある、遊歩道と書かれた”杉並区オリジナルの車止め”というものが存在します。描かれたイラストが、熊&またがりまさかりをかついだ金太郎なので、諸々省略して「金太郎」と呼んでいます。

古くなり、どんどん姿を消してゆく金太郎。おそらく30年ほど前の写真で見ると、今見るよりもずっと真新しいので、見入ってしまいました。そして、ふと、あることに気が付きました。
・・・パネル部分の外枠って黒かったっけ?
Kitakinhiki
 
よく見る金太郎は、こんなふうに、最も外側は白いはずなんです。黒枠の金太郎なんて、いたかな・・・

手持ちの写真を調べてみると、いたいた!一体だけ、いました。
Imakin0
 
六ケ村分水、今川支流(仮)上にある金太郎。
これは黒枠だし、最初の写真と同一のパネルのようです(設置場所は違います)

この今川の水色金太郎は、多くが赤か緑のなか「水色」というだけで(あとから塗られたものでしょうけれど)かなりのレア金太郎だったのですが、「黒枠」という点でもレアという、本当に希少種であることが判明した、というわけです。

さて、この白枠と黒枠、どうしてこのような違いが出たのでしょうか。
 
・車止め自体のサイズが違うため、トリミングして使われている
・使用年代か何かの違いにより、異なる業者が製造している
仮説はふたとおり挙げることができましょう。
まずは、1つめの仮説を検証するため、計測しに行ってきました。
Imakin0_2
 
今川の黒枠金太郎。横は内径45センチ、外径55センチ。縦は内径60センチ、外径70センチ。
次、白枠の金太郎。

Ozakin
 
小沢川支流上流端にいる金太郎。この真新しい緑色も、珍しいですね。
測ってみると、横は内径45センチ、外径55センチ。縦は内径60センチ、外径70センチ。おお、黒枠さんと同じサイズでした。
 
念のため、もうひとつ別な暗渠で測ってみましょう。
Kitakinhiki_2
 
桃園川北側流路(仮)の金太郎。
横内径45センチ、外径55センチ。縦内径60センチ、外径70センチ。うん、どうも、統一された規格があるようです。

ちなみに、この金太郎は顔が剥がれてしまっているので、もっと状態の良いはずの、上流部分のものを見に行きました。
Kitaima
 
と思ったら、いつの間にかなくなっていました。ああああああ・・・・・

Kitamukasi
阿佐ヶ谷は松山通りに面するところ。少し前までは、こんな風に鎮座していたのですが。
はぁ、残念。やっぱりどんどん失われていっていますね。

ところで、
Imakinkakudai
 
よく見るともう少しだけ、違いを感じませんか?

Ozakin0
・・・ほら。

並べてみると、
Hikaku1

うわぁ、顔、めっちゃ違う!!

ほかにも、細かいところが微妙に微妙に違っていて、

Hikaku2
もうこれは、違う人が描いたものといってよいでしょうね。
そして、違う業者さんに委託したと考えていいのではないでしょうか。
さきほど2つ掲げた仮説のうち、
・使用年代か何かの違いにより、異なる業者が製造している
こちらは残され、次なる検証をする必要が出てきました。検証材料としてなんの資料に当たればいいかは見えているのですが、結構時間がかかりそうなので、第一の検証はひとまずここまで。

白枠とか黒枠とかいうのもちょっとややこしいので、
「細眉金太郎」→杉並区に置いて現在ほとんどのシェアを占める白枠のほう
「太眉金太郎」→現在非常にレアになっている、黒枠のほう
と、眉で呼び分けたいと思います。
で、あちこちにある金太郎、ほんとに細眉でしょうか?・・・確認してみましょう。
Kitakinhiki_3
 
さきほどの、桃園川北側流路(仮)の剥がれちゃったやつ。
この金太郎だってよく見ると、
Kitakintarou
おおー、眉だったら片方だけ残ってるよ!!ヤッタ!
でもって、細眉金太郎でした!YEAH!

Igusahiru
井草川にある、後ろ向き君はどうでしょうか。
Igusakintarou
ああ、やっぱり細眉だ。
先日の展示用につくった金太郎顔ハメパネルはどうかな~?
Kaohame
 
おお。意識してなかったけど多数派だった。細眉金太郎だ。
ではでは、昨年作った、金太郎焼きゴテは・・・?

Yakiin
ああっ、なんと、眉が無い!前髪の切れ込み具合は太眉金太郎っぽく見えるけれど、これは珍種の眉無し金太郎だ・・・!

Kintaroupan
この眉無し金太郎、オズプラスのパン特集号にもちゃっかり載せていただきました。
はからずも、太眉くんと細眉くんがケンカしないですむ結果に。

Kintaroumukasimini
まあ、そんなこんなで、もう見尽くしたと思った対象にも、まだまだ秘められた奥深さがあるということを実感したのでした。
さあ、設置年度の検証等、つぎの作業もたのしそう。ですが、それはまた少し先の機会といたします。

この1年の間にも、少しずつ減っている金太郎。次歩くときは、眉毛の太さを確認したりなど、してみてはいかがでしょうか。
 

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勝手に暗渠強化月間の御礼と、ガード事件追記

まずは御礼から。

2週連続企画だった阿佐ヶ谷暗渠マニアック!(座学&フィールドワーク)、
カルカルでの境界集会、
4月のイベントが無事終了しました。
雨だったり、予定時刻より早く始まったり(笑)、いろいろありましたが、ご参加のみなさまにも、スタッフのかたがたにも、たいへんお世話になりました!どうもありがとうございました。
遡って先月の各種暗渠イベントにお越しくださったみなさまにも、改めて御礼申し上げます。
ひといきついたら、またエンジンをかけなおしたいと思います。

あ、そうそう、そうこうしている間に、東京スリバチ地形入門と東京暗渠散歩に増刷がかかりました。ありがたいことです。

今日は徒然書きになっちゃいますが・・・中央線ガードなすりつけ事件の追記をば。
あの記事を書いた後、中央線高架化の時期等について、情報をくださったかたがいらっしゃいました。おふたりの許可を得て、ここに掲載します。tweetをつなげるため、原文を多少変更しましたがお許しください。

「骨まで大洋ファン」さまからの情報。

交通技術1962年8月号に「中野―三鷹間線路増設工事」開始の記載あり。
昭和36年に高架工事着工とあるため、国鉄と杉並区の争いはスルーではないか。
「昭和32年頃から議論されていたという記載を考えると昭和33年に揉め事になるというのも奇異な感じが」とも。


(→「頃から」あたりが割と微妙なことで、当該エリアでは少し後から話が来たのかもしれません・・・あるいは「32年頃」という記述そのものがずれている可能性。などと、わたしとしては思います。)

「ふろっぐねすと」さまからの情報。

現在の中央線ガード(馬橋架道橋)は、昭和41年、中央線中野~荻窪間が複々線化されたときに完成。青梅街道の天沼陸橋の部分がネックだったので、この高架部分は昭和40年には完成していたのではないか。昭和41年の複々線化に先立って、先に中央線高円寺~阿佐ヶ谷間(前後を含む)の高架化も行われている。
複々線の用地を使って、複線の線路を1本ずつ上に上げていく。こちらは、昭和39年にはでき上がり、それから残った用地で、複々線にした。中央線の桃園川をまたぐ盛土部分は、昭和39年に高架化されて解消し、現在の形になったのは昭和41年。高架複々線の計画はおそらく昭和32年ごろにはできていると思われる。
昭和33年に杉並区と係争があって、同時進行で国鉄側は高架複々線化を計画中、高架化が6年後の昭和39年、そして昭和41年に現在の形、という流れ。杉並区と国鉄の係争は、「もうすぐ高架複々線にしてガードを広げます」という話になったのではないか。

(なるほど!とすっきりする結論!)

おふたりの情報を合わせると、ちょうどこのなすりつけ事件の最中か後に、国鉄が話を出して、いつのまにか騒ぎは収まったのかな、という気がします。骨まで大洋ファンさん、ふろっぐねすとさん、ありがとうございました!

その話題のガードの写真を、オマケで。

Gado
その昭和33年の杉並新聞の写真です。
この2年前、常磐線において、ガードの低いところをトラックが荷物を満載して通ったら上がぶつかって、線路をひんまげてしまい、列車が転覆したという事件があったそうで・・・

たしかに、そんなことになったら怖いし、この写真を見ると地元の人が騒ぐのも、さもありなん、という感じがしますね。

・・・ん。常磐線の低いガードっていうのも、もしかするともとは水路用だったりとかしないかしら・・・?(謎は続く・・・)

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松庵川展のおしらせつづき

松庵川展、西荻案内所にて開催中です。

バーやクイズなどミニイベントをいくつか終え、きょうあすは、ゆったりと展示を見ていただく時間となります。これまでいらしてくださったみなさまには、本当に感謝です。

本日のイベントは、夜から。
18:30頃-暗渠花見酒マラソン松庵川編、です。

Shouangawaten

展示物は西荻の地で得た、何にも載っていないオリジナルの情報も多々。

Shouangawaten2

 

杉並暗渠オリジナル顔ハメ、

Shouangawaten3

暗渠化工事、暗渠パズルなど、体験コーナーっぽいものも設けています。
暗渠サインパウンドケーキ紅茶とオレンジ味も、限定販売。
バーは終わりましたが、「どぶ」「どぶのうわずみ」「どぶクリームソーダ」はまだ販売しているので、一杯注文し、飲みながら展示を見るということも可能ですよ。

明日28日18時にてこの展示も終了。
西荻案内所は31日に閉所です。もし近くに来られることがあったら、ふらりとお寄りいただければ、たいへんうれしいです。どうぞよろしくお願いします!

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