日本閣と、逃げ出した鯉のはなし

東中野に、日本閣という結婚式場があります。

近くに、暗渠好き・階段好きの方に人気の高い、某階段を擁する暗渠があります。

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この川が流れ込んでいたのが、日本閣の敷地です。

そんな理由だけでも、「日本閣に行ってなにか食べたい。」とわたしを突き動かすには十分でした。とはいえ、都合良く日本閣での結婚式に出られるわけではない。ランチを食べるにもなんか高価だ・・・(美味いとも限らないし)。
そんななか、日本閣のスペースは現在じつはほとんど高層マンションとショッピングモールなのだということをやっと知りました。そして、その中に以前本郷で食べてなかなか美味しかった「栄児家庭料理店」も入っているのだということを、つい最近知りました。

行って、坦々麺を食べねばならぬ。

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JR東中野駅の東口を出ると、もう、すぐに入口です。下に桐ケ谷ガードが通っています。こっち側に来るのは10年ぶりくらいです・・・

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ずいぶんでっかいマンションだなあ。向こう側は神田川。
ま、まずは食欲を満たしましょう。ラーメン!ラーメン!

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汁無し坦々麺。

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まぜまぜ。

山椒が効いて、だいぶビリビリしましたが、ちょうど辛いのが食べたかったので、おいしゅうございました。

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そして伏兵がこれ。
ランチタイムは、水餃子が食べ放題なんです。食べ放題ですよ?(ラーメンと合わせて千円。)ほんで、この水餃子がおいしい!

あー、餃子ってなんでおいしいんだろ。

ゲフー。ごちそうさま!

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日本閣の裏にある大東橋には、年頃の娘は渡るとき振り返ってはいけない(そこで亡くなった女性の霊がついてくるから)などという言い伝えもあったそうで、昔は寂しい場所だったのだろうと思います。
今はなんだか、一帯はぴかぴかで、昔の雰囲気を感じることはできません。この木だけは、ずうっとあったかもしれないけど・・・

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この壁と階段は、やや昔からありそうですね。以前は駅に行くにはここを上って行くしかなかったのでしょうか。

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帰りは、桐ケ谷ガードをくぐって帰りました。先日、HONDAさんが桐ケ谷橋の欄干を発見されていました。この辺りの地名が桐ケ谷だったので、桐ケ谷橋もこのあたりにあったのでしょう。手持ちの資料で、ちょっと南の方の公園にあるらしいことが書いてあったので、そ のうち行ってみたいと思います。

日本閣の歴史はとても面白く、非常に川と縁のあるものです。
大正3年に鈴木磯五郎というひとが釣り堀を始めたのが最初と言われますが、その釣り堀は以下のようなかたちで始まっているのです。以下、地元の方のお話です。

「蚕糸試験場ってね、この2千メーターぐらい行くと農事試験場があったんですよ。そこに大きな池がありましてね、そしてね、雨とか水がでるとね、そこから水が流れ出して、そこのね、魚がみんなわたしの方の池へね、川へね、どんどんどんどん流れ込む。<中略>水がひいちゃうと、こんなでかい緋鯉だとか、鯉がね、たらいに一杯ぐらい難なく捕れちゃう。農事試験場からみんな流れる。
それでわたしんところでね、釣り堀をおやじが始めましてね、あれでも、わたしが覚えましても、三百坪くらいの釣り堀でしたね。それで、こっちの、農事試験場から流れてくる水をね、池へ入れるわけ。」

ところが、エゴの実を使って毒流しをした水が釣り堀に入り、持ち主が懲りてしまう。そこに日本閣創業者の鈴木氏がこの釣り堀をやらせてほしいと申し出、金魚の釣り堀を始める。
「釣り堀しながら、こんだ、お昼になるとお茶を出してた。ね、お茶を出して、こんだ、お昼を出すようになった。なかにはね、「一杯やりてぇんだけど、どうだろう」って。そう言って。「そいじゃ出そうじゃねぇか」って出して。そして、だんだんだんだん伸びたのが、今の日本閣。(「続 中野の昔話・伝説・世間話」より)」

近隣のひとびとは、鯉こくをつくるとき、この釣り堀にバケツを持って鯉を買いに行ったりしたのだそうです。関東大震災以降、畑を売って儲ける農家が増え、そういったひとたちが新井(の花街)から芸者さんを呼んで遊ぶ場所として繁盛したりもしたそうです。

HONDAさんが蚕糸の森公園から小沢川に注ぐ流れがないかと探索されていますが、その元になっているサイト、出典はおそらくこれだと思います。HONDAさんと味噌maxさんがこのことでやり取りしてた気もするんですが、検索で引っかからなかったのでおいときます。

ただしこの物語、このあたりの土地勘がある人だと、引っかかりを覚えるんじゃないかと思うんです。
わたしの場合、まず、「ん、蚕糸試験場に池なんかあったっけ??」
そして次に、「それにしても、蚕糸試験場?遠っっ!」 と、引っかかりました。

まず、蚕糸試験場に池があったかどうか。
現在、池はありますがこれは井戸水をくみ上げて循環しているもの。この地に湧水池があったという記述はみたことがありません。たしかに、蚕糸試験場では多くの水を使うので、排水が気になりはしますが・・・(HONDAさんが歩いた道が排水路だった可能性はあると思います)。
明治42年の地図を見ると、この場所に蚕業試験場はありますが、建物が整然と並んでいるのみで、池は見当たりません。

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昭和23年の航空写真(gooより)でも、池らしきものは東端の丸いものと、入り口付近にありそうに見えますが、いずれも小さく、鯉がいっぱいいるようには見えません。そもそも、ここが溢れたとして、小沢川に流れ込むような川も無いのです。
また、仮にあふれたとしても、東中野に到達するまでにはかなりの迂回を強いられます。以下の地図を見てみてください。

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蚕糸試験場から鯉が逃げたとして、その先は小沢川から神田川と流れて行くのですが、その行程は緑色の点線です。遠!・・・流路はこのように曲がりくねっており、日本閣の場所に鯉が集中して流れ込むのは不自然です。
ちなみに、水色の丸を2つ書きましたが、北側の丸は小沢川蛇窪支流(仮)の途中にあったとされる沼(大正時代のもので、写真も残っている)です。また、この近辺に養魚場があったという話もあります。
南側の丸は神田川沿いですが、いまの中野車庫の位置にも、かつて養魚場があったといいます(3号池まであるなかなか大きいもので、昭和23年頃まであったとのこと)。このような、蚕糸試験場よりずっと神田川に近い位置にも、鯉がいそうな場所はあったのに、話題に出てこないのは違和感があります。

そこで、わたしが考えている仮説はこうです。
蚕糸試験場ではなく、農事試験場だったのではないか。中野の谷戸運動公園のあたりにあった、農事試験場のことです。ここには長いこと池がありました。それから、隣に城山がありますが、城山にはもっと大きな池がありました。そして、この付近を水源として谷戸川が流れており、谷戸川をつたって鯉たちが神田川に行けば、東中野はすぐなのです。

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そもそも、引用したお話においても、「農事試験場」という表現が出てきます。こういった、地元の方のお話は、ときに記憶違い、勘違い、聴き取り違いなどを含むのでしょう。原文の2千メーターという表現は、日本閣と蚕糸試験場との距離ですが、これは後付けではないかと思うのです。
そうすると、「農事試験場からの流れ」は谷戸川のことをさし、谷戸川は神田川の西(旧住所は川添)を北上し、日本閣に注ぐので、なんともしっくりとくるのでした。

ちなみに日本閣、大正3年に「鈴木や」という釣り堀として始まり、大正9年に割烹料理店に、昭和10年に結婚式場になっています。昭和20年に空襲で全焼したものの、同26年には再開、現在に至るということです。

釣り堀はどうなったのでしょうか?
・・・関東大震災を機に、大正13年に阿佐ヶ谷に移転し、現在も「寿々木園」として営業しています。そう、桃園川支流といえる、相沢堀(阿佐ヶ谷川)沿いにあった、あの釣り堀!そういえばあそこは、鯉も釣れるけど、金魚も釣れる・・・東中野の歴史が残っているのだなあ、と、感慨深くなりました。
谷戸川の鯉でもって谷戸川河口ではじまった東中野の釣り堀。その後、阿佐ヶ谷の相沢堀沿いに移転。そう、どちらも桃園川の支流沿いなのです。日本閣と桃園川、実は実は、隠れた縁があるようです。桃園川好きにとっては、うれしい発見、な、おはなしでした。

<参考文献>
「続中野の昔話・伝説・世間話」 中野区教育委員会
「見たい聞きたい記録(のこ)したい-なべよこ観察隊-」
「中野城山居館跡発掘調査報告書」 中野区教育委員会
「青梅街道周辺地域」 中野区教育委員会
「杉並の川と橋」 杉並区郷土博物館
「昔をたずねて」 青少年育成東部地区委員会環境部
「東中野今昔ものがたり」 東中野地域センター
web「すぎなみ学倶楽部」

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紅葉川をねちねちと歩く その12 熱海湯支流(仮)と温泉山

秋だから歩こうだなんて思っていた紅葉川。気づけば秋も過ぎ、雪も降り・・・、それでもねちねちと、だいぶ下ってまいりました。

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前回の、感動の開渠を見た後。南町、袋町と、うだうだ歩いてやってくると、長い下り坂に出会います。坂を下るときというものは、いちばん低いところに川があるはずだと思うので、いやでも胸がおどります。通過してきた「袋町」、池袋的な由来だったら良いのになと思ったのですが、水ではなく道が行き止まり状態だったので袋町、と書いてあるものが多いです。じっさい、大部分が丘の上です。

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その、袋町からの下り坂はクランクになっていて、そして、低いほうへ低いほうへと足を運べば、そこにはひとつの谷があるのでした。このT字路が谷として確認できる最初の場所です。

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その谷は一本の道になっていて、しっとりとした飲み屋さんが並んでいます。小栗横丁という、名前の付いた通りのようです。

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この通りはずっと、両側を崖に囲まれているしっかりとした谷です。その谷底感を味わいながら歩いていると、突然左側に暗渠サインである銭湯が現れます。・・・熱海湯。ふるくて良い雰囲気です。なんとなく名前からして「湯が熱そうだ」と思っていたのですが、実際に熱いみたいですww 

そしてこの道、いくつかの資料により、川があったことが明らかになっています。たとえば、「神楽坂界隈の変遷」では、紅葉川下流部にあたる大下水に、神楽坂下交差点のあたりで合流する、”若宮町近辺から流れてくる裏町の下水”として書かれています。
「神楽坂界隈」では、この道を牛込城の東濠とし、”はっきり解る濠跡””湿地的な水濠の可能性””両崖の高さからいって、かなりの水量があったことさえ想像される”などと記しています。前者は江戸期、後者はさらに前のことをさすわけですが、今日見つけた新宿区のwebでも、ここには”片側(北側)に幅一尺ほどの小川が流れており、この地に湧水が豊かであったことの証である”なんて書いてありました。もしかすると、結構最近まで(たとえば昭和まで)小川はあったのかもしれません・・・。地形からしても、細~い谷が結構な崖に対して鋭く入り込んでいるので、湧水量はわりとあったかもしれません。
ここは、熱海湯に敬意を表し、紅葉川熱海湯支流(仮)と名付けてしまいましょう。

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熱海湯の裏は、すぐにこんな崖です。熱海湯支流(仮)は、長さとしては短いものですが、谷頭だけではなく途中の崖からの浸み出しなどもあったかもしれませんね。

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写真が全然うまく撮れてませんが、熱海湯階段。「東京の階段」にも取り上げられており、この曲がりっぷりが良いと、”景観”で高得点を叩き出しています(「東京の階段」は、紅葉川の谷に絡む階段率が高い気がします、なんだかうれしいです)。階段の上にはちらりと鳥茶屋別館が見えています。鳥茶屋、太~いうどんのうどんすきは食べたことがありますが、むしろお昼の親子丼を食べていません。食べてみたいものです。
それから、神楽坂といえば、花街でもあるわけで・・・この階段を上ったさきに見番があります。今回は写真がないのですが、花街のことを書いたサイトを探すと、写真はいくつも見つかります。たとえば新宿区のサイト。

それから、それから。地元の方の思い出話を集めたものの中に、面白い記述を見つけました。

今の「マサ美容院」のあたりですが、明治も終わり頃まで崖がありまして、温泉山なんで呼んでおりました。今の銭湯とでもいいますか、大衆浴場がありまして前側にはちょっとした休みどころもあり、何となく温泉気分になれそうなつくりで、夏の夕方などは浴衣を貸してくれまして「ええ、ご案内!!」なんて景気のいい声をかけられたものです。
おもて通りには「温泉」って書いた大きな幕が下がってました。階段を上って風呂に行くんですが、この辺の人はたいがいここにはいりに来ました。(「神楽坂界隈の変遷」より)

この温泉山、正確な位置が書かれていないのですが、現在神楽坂近辺を検索すると”マーサ美容室”が神楽坂3-6で出てきます。その位置は丁度、熱海湯支流(仮)の谷から崖を上ったところであり、熱海湯階段を上ったところともいえます。つまり、この場所がかつての”温泉山”であった可能性は高いと思います。
ここからは更に想像ですが、なぜこんな、熱海とは縁のなさそうな場所なのに、”熱海湯”と名付けられたのか、などと考えてみると、もしかすると熱海湯の前身は温泉山の風呂屋だったのではないかと思えてくるのです。場所もほぼ隣。その”温泉感”を引き継ぐべく、熱海と名付けたのではないか・・・想像がふくらんで堪りません。できればお風呂に入りに行って、伺ってみたいところです。

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お風呂上りにはちょうどよい、牛乳屋さんもありましたw
この地が「牛込」だったことを考えると、牧場の名残?なんて・・・w

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その先、道が新しくなってしまいます。東京理科大がちょうど校舎を新築したばかりです。少し前は、もうちょっと見晴らしの悪い石垣があったような気がするんだけど・・・どうだったかなぁ。とりあえず、熱海湯支流(仮)の暗渠みちが残っていて、ほっ。

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もうちょっと下流へ。右側の石垣は理科大のものです。さっきから、大学の敷地に入ってきています。熱海湯支流(仮)は、この道の左側を流れたはずです。

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歩けるのはここまで。あと1ブロックで紅葉川本流に合流できるのですが、奥にみえる建物のところで道はストップです。建物の右側にある隙間のあたりを流れていたのかもしれませんが・・・。

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その隙間を外堀通りから見てみるとこんな感じ。うーん、ちょっと無理があるかな。ここだけ、名残がなくなっているかもしれませんね。
現在、下水道台帳を見ると、さっきまでたどってきた道の下には下水管がありますが、この隙間のところにはありません。

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さてさて、神楽坂までやってきたなら・・・すてきな飲み屋さんはいくらでもあります。その中でも、とくにすてきなのは、有名店ですが”伊勢藤”。このときはつきだしが3つ来たのですが、どれも独創的、そして美味。白鷹を燗で、ゆるゆる呑みました。紹介を見ていると「喋っちゃダメ」なのかと思っていたのですが、お客さんはそこそこ楽しそうに喋っていて、でも心地よい静けさがある、そんな店でした。

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今回の行程。熱海湯支流(仮)を緑色で示します。
かつてあったかもしれない、崖上の温泉山のことを想像しながら、熱海湯で湯につかる。風呂上りには、牛込に思いを馳せながら牛乳を飲む。そのあとは、もちろんお酒・・・そんなたのしみが、この一本の支流暗渠の上で味わえてしまいます。

これで紅葉川の支流は最後の一本です。けれど、江戸城ができる前、紅葉川の下流部右岸には、もしかしたら支流があったかもしれません。今は、跡形もないけれど。それについてもそのうち、調べてみようと思います。
支流の紹介はおいておくとしても、もうちょっと、書き残したことがあります。紅葉川の記事は、あと少しだけ、続きます。

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暗渠さんぽのおとも~あるきたべ・ほっこり秋冬編~

久しぶりに、暗渠さんぽをしながら食べたものたち=あるきたべ特集をしたいと思います。
今回は、秋冬にちょっとあたたまるような、あたたかそうな食べものたちを・・・。

いつかのさんぽで、食べたもの。

まず1つめは、わたしにとって堪らないビジュアルのコレ。

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とりの唐揚げ&揚げじゃがの串! on 指ヶ谷支流(仮)。
じゃがいもが大好きで、北関東の名物「イモフライ」なんて差し出されたらめちゃめちゃ幸せになれるわたくしです。とりの唐揚げだって、先日食べ放題100円のお店に行って唐揚げまみれになったくらいには好きです。
だから、夢のようなコラボ商品。売ってるお店がこりゃまた良い。

オリムピック、というレトロなパン屋さんが白山にあります。

レトロパン好きの方にはたまらないようなラインナップだったり、
「水ようかん」が挟んであるシベリアがあったり、
安売りパンの詰め合わせが端っこからわたしを呼んでいたり、
なぜかレジのところにヤキソバまで売っていておいしそうだったり、
パンの袋も素敵に昭和感。

そんな、油断ならない店です。・・・会計時に、この串を見つけて(しかも90円とかだったんじゃないかな)、小躍りし、そして指ヶ谷支流(仮)沿いで早速パクついたわけです。
この片手で持てて小ぶりなサイズは、まさにさんぽ向きと言えるでしょう。

つぎは、

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ひとくちカニクリームリゾットのコロッケ on 相澤堀(というか桃園川支流というか)。

阿佐ヶ谷駅前のかつて湿地帯だった場所で、年に数回、「大人の縁日」というものをやっています。これは、以前行ったときにたべたもの
これまたさんぽ仕様で、お祭り気分ももれなくくっついて、幸せな逸品でした。
もちろん、ビールもゴクゴク。

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できたてクロワッサン on 初台川。
もう食べちゃって、欠けちゃってますがミニクロワッサンですね。
代々木上原の駅前をさんぽしていたときに、かわいいパン屋さんがあったので(レトロ系じゃないほうの「かわいい」)、思わず入っちゃったときのもの。代々木上原の駅前って暗渠がうじゃうじゃしているのに、暗渠沿いに買い物し甲斐のあるお店があったりして、羨ましいです。
この後丘を登りながら食べたピロシキも上等な肉まんのように美味しかったです。
・・・奥に見える橋の欄干に感動しながらも、食べることを忘れない、の図。

最後は、デザート。

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ミニたい焼き on 竜閑川。
今川焼が今川橋のあたりで生まれたということをきいて、今川焼を買ってそこで食べようと思ったのだけれど、今川焼ってそんなに都合よく売っていないんです。そんな体験をした日。
代わりに、銀座でミニ鯛焼きみたいなのを買って、神田に持って来たんでした。でも神田駅でもミニ鯛焼きを売っていて、ちょっとショックだったのでした。加えて言えば、このときは竜閑川の流路も若干間違っていたんでした。
暗渠であるきたべをするとき、あまり人がいないような場所が多いので、写真をパチリとやるのはそんなに恥ずかしくないときもあります。でも、このときは平日昼間のオフィス街にひとり・・・結構勇気が要った気がします。いや、いいんだけど。

それと、おまけ。

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暗渠には、ときどき食べ物の罠が仕掛けられていることもあるので、引っかからないように気を付けましょう。  罠 on 紅葉川本塩町支流(仮)。

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紅葉川をねちねちと歩く その11 嗚呼感動の砂土原町支流(仮)

ちょっとだけブログの書き方を変える事にしました。
開設当初から、左右に写真と文字を置いていくスタイルにし、なんとなくそれを変えないできていました。ブラウザによってはズレてしまうけれど、設定を直せばなんとかなるのでと、構わずにきましたが、最近設定を変えてもズレちゃうという人がいたので、これからは写真を真ん中に置く書き方にしてみたいと思います。

さて、前回に続いて、紅葉川本流を少し下りますと、以前ご紹介した長延寺谷支流(仮)の河口を過ぎ、もう一本の支流に出会うことができます。

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出会う・・・というかこの支流、河口部分は既に痕跡がありません。上流のほうをウロウロしていたときに、たまたま見つけたものなんです。

それは、鰻坂のあたりを歩いていたときのこと。鰻坂の由来は、鰻のようにクネっていたからのようです。

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(1つ前の写真の奥を拡大)道の向うに、ちょっとした谷のような場所があります。段々になってます。

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残念なことにその谷っぽい部分は道にはなっていなかったので、並行して走る牛込中央通りを歩きつつ、コの字ウォーク(lotus氏命名)を駆使しての探索です。牛込中央通りは、このように外堀通りに向かって下ってゆくのですが、

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この道を下って行こうとすると、右手にも崖、

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左手にも崖が見えます。さきほどの谷部分は、ここでは、この写真の崖下すぐあたりです。

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鰻坂から見えたほのかな段差がどうやら川跡のようなんですが、どこから始まるかがよくわかりません。この写真より上流(北)には、谷のようなものは見当たりませんでした。

この近辺の路地は旧区画が残っているためか、複雑なものです。コの字ウォークも、ひとつ曲がり角を間違えばだいぶ面倒くさいことになります。そんな、天候の悪いときに行くと実に手ごわいエリアなのですが・・・。下流に行くにつれ、谷がはっきりしてきます。

そして・・・

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なんと。

開渠がありました!

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ほぼ痕跡が見当たらないこのエリアに、開渠が残っているだなんて。
市ヶ谷の駅のすぐ近くに、開渠があるなんて。

ここを見たときのわたしのテンション・・・いやぁ、すごかったです。家の下をすり抜けるように走る、わずかな開渠。まるで宝物!
何度か見に行きましたが、水の流れは確認できませんでした。
大発見!と思っていたところ、ふろっぐねすとさんがさりげなく書いてらっしゃいました。さすがです・・・そしてそのふろっぐねすとさんの旧サイトは最近なくなってしまったようで(猫またぎさんが言及されてます)、とても残念なことです。

この川について、「神楽坂界隈」では、”最高裁判所長官邸から払方町へいく道にある不自然な凹地”があり、”市ヶ谷濠へ落ちてゆく”と記しています。さらに、もっと北側までつながっていたが、ならされてしまった可能性もある、という推測をしています。
前述のように、北側については現在手がかりは無い状態です。それから、「不自然な凹」というほど、不自然なのかどうか、自分にはわかりません・・・

Sado

・・・そんなわけで、上流端をつきとめるのは難しい。今回歩いたさいに川っぽいと思ったものを、地図に水色で示します。市谷砂土原町にあるので、砂土原町支流(仮)としておきましょう。すぐ西に長延寺谷支流(仮)の谷があります。

さっきの感動の開渠から下、河口部分は市谷田町にもかかり、もう谷っぽさは失せてしまいます。「砂土原」という名称の由来ですが、本多佐渡守の屋敷があったので佐渡原と呼ばれたことと、市谷田町を埋め立てる砂土取場であったことの両方からきているもののようです。つまり、やはり市谷砂土原町も市谷田町も、地形が改変されているようです。

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外堀通りを歩きます。つまり本流に合流。
たぶんこの歩道のあたりが、紅葉川暗渠なのだな、などと思いつつ。

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少し東に歩くと、日仏学院があります。古さと白さが良い感じの建物。崖の上にあり、下から見るとこんな聳え方。

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フレンチを気軽に食べられるレストラン(ラ・ブラスリー)が併設されています。
ある日のランチ。千円ほどで、ちゃんとおいしいのです。ランチにはこのワンプレートのほか、2種類ほどコースがありましたが、コースも抜かりなくおいしかったです。
春や秋に、テラス席でワインを飲むのも気持ちいいでしょうね~。

日仏学院の前の坂は逢坂といって、築土神社の飛地社があります。築土神社と書きましたが、これは筑土八幡神社(実は牛込川の流路脇にありました)と以前ならんで建っていた津久戸明神社(第二次世界大戦で全焼し九段北に移転)が残したもの。
そして、お社の前には「堀兼の井」の案内板もあります。掘兼とは「堀りかねる」の意で、苦労して掘った井戸とされ、ほかにもいろいろな地で同名の井戸を見ることがあります。
ここの市谷の堀兼の井には、
「昔、妻に先立たれた男が息子と二人で暮らしていた。男が後妻を迎えると、後妻は息子をひどくいじめた。ところが、しだいにこの男も後妻と一緒に息子をいじめるようになり、いたずらをしないようにと言って庭先に井戸を掘らせた。息子は朝から晩まで井戸を掘ったが水は出ず、とうとう精根つきて死んでしまったという。」
という伝説があるのだそうです。
・・・。

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そしてその案内板のすぐ近くに、こんな現代的な井戸が佇んでいるのでした。あたかも簡単に機械で掘ったような井戸が。。。
いや、まさかこれが掘兼の井だったりするのかな・・・

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また別のある日。
外濠にある、カナルカフェでワインを。紅葉川とも縁のある、お濠を目の前に。
こっちは、イタリアンですが、ここのグリーンカレーも好きです。

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すずめ、カモ、鯉、電車、水面などをながめながら、ゆっくり時間を過ごします。

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あそこらへんに、牛込駅の駅舎があったんだよなぁ・・・なんて、見上げたりしながら。そういえば、牛込駅跡のお店もイタリアンですね。

そろそろ紅葉川の河口が近づいています。前半部分から、すでに積み残しの多い紅葉川探索ですが、いよいよ次回は最下流部の支流をご紹介したいと思います。

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紅葉川をねちねちと歩く その10 外濠との関係

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そろそろ、紅葉川編を再開したいと思います。紅葉川については、9つの記事を書いてきましたが、その殆どが支流中心でした。(支流が面白いからなんですけどね。)

今回は本流に戻りたいと思います。前回、左岸の長延寺谷まで行ってしまいましたが、戻って戻って・・・本村町あたりまで戻って。ここは坂町~本塩町あたりの本流跡です。

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防衛省が見えます。防衛省敷地内にも湧水池があったことについては、以前触れました

実は、この付近の紅葉川本流って、さまざまな描き方をされていて、なんだか難しいのです。ある地図では靖国通り沿いに描かれ、ある地図ではわたしがいま立っている靖国通りの一本南に描かれる、といったように。付け替えられたのかもしれないし、アチコチ流れていたので表記が一様でないのかもしれないし。

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ある地図では、こっちに本流は進みます。

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道はカクッとクランク状に曲がっていますが、川もこう曲がっていたかもしれないし、そうでもないかもしれない。
後日追記:このクネクネ道、地元の方が「昔は川だった」と仰っていたそうです。昭和ひとケタ生まれ(推測)の方のようなので、紅葉川らしき水路についての「昭和初期に暗渠化された」という下水道局の記述と併せて考えると、実際にご覧になった可能性もあると思います。
いまでも、この近辺は大雨が降ると水が集まってくるといい、そんなことも川の名残と感じてしまいます。(44zippyさん、情報ありがとうございました。)

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ともかく、地形も道の感じもさして特徴がなく、比較的暗渠っぽくない道だと思います。

が、ここをまっすぐ流れて、

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外堀通りに出ます。これは川が出たところから南側を眺めたところ。

ある古地図では、この道に沿って四ツ谷駅のあたりから小川のようなものが流れてきています。この歩道のあたりでしょうか。

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その四ツ谷から来た流れは、ここを下って行って、紅葉川本流と合流するようなんですが・・・やっぱり、跡形もないですね。

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ここは市谷八幡町の交差点付近、上流方向を振り返ったところです。
富久町、四谷4丁目、愛住町、河田町、荒木町、本塩町、など、あちこちの水をあつめてきた流れが、ここでまた四ツ谷方向から来た水とあわさり、市ヶ谷駅の方向に流れていくのです。

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川の感じがわからずとも、車の流れだけは、今でも脈々と。

最近は足の怪我のため、タクシーで移動することが増えたのですが、この場所をよく通ります。もちろん、いつも紅葉川のことを想像しながら通っています。

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さきほど、流路の描かれ方が一様でない、と言いました。今回歩いた紅葉川本流は、この地図に緑色でプロットした部分です。
ほか、たとえば明治19~21年の地図には黄色部分まで、明治28年の地図には濃い水色部分まで、紅葉川らしきものが描かれています。また別な地図には、薄い水色のような流れが描いてあったりもします。

地図には一定以上の小さな水路は描かれないので、地図だけを鵜呑みにするわけにもいきません。現在の地形や建物からは推測もしづらいし、この近辺はとくに川跡探しが難しいエリアだなあと思っています。

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もう少し本流を下ると市谷八幡があって、その次の市谷左内町のブロックが、妙な区割り!
このお隣に長延寺町があるので、通ろうとしたら、通り抜けられないのでした。
この区割り・・・おそらく昔からあるのだと思うんですが、なぜこんなにも袋状なのか。気になります。

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こんどは、流路から外れ、市ヶ谷の駅のホームから紅葉川方向を見ます。

合流口らしきものが見えます。これは下水道台帳を見ると、外堀通りの南側の雨水管(前掲の地図の四ツ谷から来る緑色部分)と、靖国通りを通る下水管に接続しており、後者は大量に雨が降った時にのみ溢れる仕組みだと思われます。
紅葉川の名残、というと、船河原橋の合流口が挙げられやすいように思いますが、この合流口も紅葉川と関わりがあるものだと思います。

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市ヶ谷駅をもういちど。
飯田橋側のお濠より、市ヶ谷側のお濠にいるカモのほうが、かわいくってお気に入りです。それから、この外濠の下には有楽町線の留置線もあって、紅葉川名残の合流口が見えて、市ヶ谷フィッシュセンターもよく見えて、そしてここは駅・・・なんか色々な素敵さを秘めた駅ですね。

ところで、紅葉川について考えるうえで難しいなと思うことが、この、外濠との関係です。この辺りの外濠は紅葉川の谷を利用して作られたとされますが、紅葉川自身がその後どうなったかについては、文献上あまりはっきりしないのです。

古地図を見ていると、上述したように、上中流部も年代により微妙に描かれ方が異なっています。下流部も含め、紅葉川流路には色々な付け替えがあった可能性があるし、外濠と一体化したのか否かについても、なかなか読み取ることができません。「東京ぶらり暗渠探検」では紅葉川に割かれるスペースが残念ながら少ないのですが、外濠造成時に紅葉川は濠に取り込まれた(ので消えた)とする説と、外堀通りの北側を流れ神田川に到達していたとする説とある、と書かれています。

あまりに気になるので、自分でも調べてみました。いくつか関連する記述を抜粋してみましょう。

①「千代田区史 上」に外堀に関する地図があり、「長延寺川の谷」(=紅葉川の谷)が利用されたように載っている。

これだけでは、紅葉川自身がその後どうなったかはわかりませんが、

②鈴木理生氏が「季刊 神楽坂まちの手帖10号」に書かれた「神田川・外濠・神楽河岸」では、外濠は江戸時代初期に「喰違見附の土手の最南端を谷頭にした小さな川」と、「三光町交差点辺から靖国通りを経て防衛庁前から市ヶ谷濠に合流する川」の2つの谷を利用して作られた、としている。
③「東京の公園と原地形」(田中正大著)によれば、外濠の北側は長延寺川の谷を利用しているとされる。この長延寺川(=紅葉川)を堰き止めたものが飯田濠、牛込濠、新見附濠(明治以降)になっている市ヶ谷濠は市ヶ谷見附に堤を築いたものだが、長延寺川本流ではなくてその支谷を堰き止めたもの
④「神楽坂界隈」(新宿区郷土研究会著)では、紅葉川らしき流れを「外濠川(仮)」とし、外濠はジク谷(注)を利用したものとしている。(注:「ジク谷」は以前愛住町支流(仮)のときに川田窪のこととしましたが、この文献ではジク谷は市ヶ谷近辺の谷全体をさしているようです。)

②の1つめの川は、更なる紅葉川水源のようにも見え、胸が高鳴ります(③の後半も同様)が、いまは外濠の話なので置いておき。・・・②の2つめの川は紅葉川と同じ流路ですが、「市ヶ谷濠に合流」という表現により、外濠に取り込まれるように読めます(そして面白いことに、この説を取ると、最後から2枚目の合流口が②の2つめの川の直接的な名残のように見えてきます・・・)。
③、④も紅葉川自身が外濠となった、という書き方であり、外濠造成以降の紅葉川については言及されません。一方で、

⑤「江戸名所図会」の市谷八幡宮では、八幡宮の階段を下りきったところに、水路が描かれている。その護岸の低さや幅の狭さからいって外濠とは考えにくい。「東京の空間人類学」(陣内秀信著)でも、この絵について「下には川が流れ」という解説をしている。
⑥大正11年の東京市牛込区の地図を見ると、外濠の北西にしっかりと水路が描かれている。それは、富久町から来る流れが現防衛省の前を通って来る流れとつながっているようだし、最終的に神田川に注いでいる。
⑦「神楽坂界隈の変遷」では、明治20年内務省地理局図をもとにした地図に、外濠に並行する水路が載り、「市ヶ谷田町ヨリ流ル大下水」とされている
⑧「川の地図辞典」では紅葉川のことを、「現防衛省の南側を現在の靖国通りに沿って」、「四谷見附方面からの流れを合わせ」、「市谷から飯田橋へ外堀通りに沿って流れ」ているとする(菅原健二著、「川跡からたどる江戸・東京案内」も同様)。

⑧については、いつの時代を指すかにもよるでしょうが、江戸と言っているので、外濠が出来た後になお、また別に紅葉川の流れがあったのだと読むことができます。
⑤、⑥、⑦については、外濠と並行する水路の存在を示すものであり、これが紅葉川なのかどうかが非常に知りたいのですが・・・、

わたしとしては、外濠は紅葉川の谷をたしかに利用しているけれど、紅葉川の流路は外堀通り沿いに小川となって生きつづけた、と捉えたいな、と思っています。「江戸の川あるき」(栗田彰著)の紅葉川の項で、下流部分は大下水扱いされていた、と書かれています。この大下水が、上記⑤~⑦の水路にあたるのだ、と考えることが出来ます。
だいぶ自分の願望にまみれた考察ですが、市ヶ谷~飯田橋間を歩く際、この足元に昔は紅葉川が流れていたんだ、と思えたらうれしいし。この後紹介するいくつかの支流、それから、牛込城まわりの崖からしみ出した湧水などが、明治や大正も、神田川までさらさらと流れつづけていた、と思えたらうれしいし。

外濠との関係を考えるとき、いくつか紅葉川の別名が登場しました。紅葉川については、色々な呼称と流路がみられます。それについては、最終回にまた、お話したいと思います。またも写真が暗渠感に乏しいものばかりでしたが、今回はこれにて失礼つかまつる。

後日追記:コメント欄でのsumizome_sakuraさんとのやり取りにおいて、新たに探した情報。
紅葉川下流部に関して、1641年に石垣の大下水(幅約1.8m)が作られたという記録が「御府内備考」に残っているそう。市ヶ谷近辺の町の下水も流していたとのこと。昭和初期に暗渠化されて現在は市ヶ谷幹線になっている(下水道局webより)。

お濠を掘ってみたものの(紅葉川兄)、しまったこれじゃ水が処理しきらんじゃないか、ってことで、新設された紅葉川弟。異なる運命を辿り、いまは外濠と市ヶ谷幹線とに分かれて、わたしたちを助けてくれる紅葉川兄弟・・・。
とも考えられるし、石垣の大下水はもとからあった水路を強化したものと捉えれば、旧紅葉川=親であり後に大下水、濠=子、とも考えることが出来る。

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桃園川グルメエリア

あけまして、おめでとうございます。
新年1発目の記事には、やっぱり桃園川を持ってきたくって。かねてよりしまっておいた、小ネタ記事でご挨拶に代えたいと思います。

桃園川を歩いていると、本流であれ支流であれ、食べ物屋さんに遭遇することはあまりありません。どうしても川からちょっと逸れて何か食べることになるのですが、その「ちょっと逸れて」も、川が目視できないくらいの距離であることもしばしばです。

ところが、川からそれほど離れずに、しかも秀逸なお店が2軒もあるエリアがあります。

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そのお店とは・・・
一軒目は、「伊賀」です。
すでに、味噌maxさんがこのお店の威力について良質なレポをされています。

いや~・・・ここ、前を通ると確実に気になっちゃうと思います。だって、だって、・・・ハンバグ!!

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おそるおそる入って、ハンバグ頼みます。店内には伊賀方面のなにかが貼ってあり、だから伊賀なのか?と、ちょっともやっとしたことを覚えています(前すぎて詳細が思い出せない;;)。

ハンバグ定食。これがうまい!!ハンバグはやわらかく、ソースがこれまた好みの味。目玉焼きの焼き加減絶妙。スパゲティもうまい!ご飯がすすみます。コスパがとても良いです。

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これはハムカツ。
さっくさっくです、揚げたてですよ奥様!!

この2品を食べただけですが、むむぅ・・・このオヤジ、デキルな。きっと料理のセンスが良い人だな!そんなことを思いました。

他にもいろんなメニューがあって、どれもうまいんじゃなかろか。外観も中の雰囲気も実に良いし。たまに行ってはいろいろ試したい店です。

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外観はこう。
宮園荘、という古びたアパート?の1階にあります。この地は確かに以前は宮園でした。2階への入り口は、ここが宮園だった頃でストップしているかのようでした。

「きたなシュラン」も来たみたいです・・・どうも、素敵だと思って入る店、きたなシュランと被る確率高いです。

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店から外に出て、ふっと左に目をやると、道路のところに桃園川のモッコリが見えます。

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桃園川本流の中でも、「宮園橋」の欄干がそのまま残っているという名所の一つ。

そんな良い場所のすぐ近くに、伊賀はあります。

他にも、桃園川の旧本流の「かうしんばし」、西町天神支流、牧場跡開渠など、桃園川関係のワクワクが詰まっているエリアでもあります。

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もう一軒は、伊賀のはす向かいにあります。「イルプリモ」というイタリア料理店。(この写真は以前の記事の使いまわしですが・・・)
よしながふみが「愛がなくても食っていけます」で絶賛している、濃厚イタリアン。この写真はボンゴレですが、これだってねっとり美味しい!ほか、蟹やエビのトマトクリームのパスタ、リゾット。ジェノベーゼ系。なんでもおいしいです。ランチがちょっとお得で、ワインでも飲んじゃったらとってもしあわせです。

この、中野~高円寺においてもわたしが良店と思っている2軒が揃っている、桃園川グルメエリア。暗渠さんぽのついでに、ぜひお勧めしたい場所です。

今年も、こんなふうに色々食べつつ、暗渠を歩いていきたいと思いますので、どうぞ、よろしくお願いします。今年がみなさまにとっても、少しでも良い年でありますように!

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風船爆弾と、別世界につながる暗渠 後編

またも、更新が遅れてしまい、いつの間にか世の中は大晦日です。
実は足の骨を折ってしまい、なんだかんだと、PCに触れないまま時が過ぎていました。全治3か月ということなので、おそらく今後しばらく暗渠さんぽが出来なくなってしまいます(幸い記事は溜まっているので更新できますが)。今年はずぅっと思うように暗渠のことも出来ずに来たので、来春以降、もう少しできたら良いなあと思っています。今年やる予定だった、「桃園川旧流路と名称の謎について」をメインのテーマに、それ以外にも行きたいところ、縁のあるところなどを来年に持ち越したいと思います。
というわけで、今年最後の更新は、前回の続きの生田近辺の記事となります。はじまり、はじまり~~。

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さて、専修大学の敷地のある山から、下ってゆく道路に出て、向ヶ丘遊園駅をめざします。山間の住宅地のようなところを、暗渠はいねがー、と、きょろきょろしながら。

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すると・・・あった!あった!これもきっとすぐ上から湧いているはずです。

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さらさら流れています。クランク状に曲がって下る。
五反田川支流のようです。たまらず、追います。

しばし住宅の間の道なきところを流れ、

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上流部分ではみごとに蓋暗渠となるのでした。

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しかも、こんなふうに、ジェットコースターみたいな下り方をして!!

龍の腹のようでもある!カコイイ

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蓋が、雑に開いているのはご愛嬌(川崎だから)。

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ちょっと、違う大きさの蓋がまぎれているのも、ご愛嬌(そう、川崎だから)。

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こんなにのどかな場所でなんで暗渠にしてるのか、よくわからない感を醸しつつも暗渠は曲がりくねり、

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また別な流れと合流します。
両側の山からぞくぞく湧いてるみたいです。

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この合流する流れは、建築資材で蓋されまくってます。

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さらに、上流のほうからも1本下ってきてます。この道の先には、地図には何も書いてありませんが、戸隠不動尊跡地というものがあります。平成5年に焼失してしまっているようです。

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いま遡ってきた水路は写真右奥から手前に来るもの、戸隠不動尊跡地方向から来る流れが写真左手前から奥に行くもの。

さらにさらに、写真左方向からも一本伸びてきて、こんなふうに合流しまくっています。

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その、左からの流れは山の麓を這ってくる蓋暗渠で、これがなんとも気になります。自転車で見えにくくなっちゃってるけど。
山を登ってたしかめにいくと・・・そこは、

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こんなんなんってました!
ほたるの里!!?
水路が、湿地が、田圃が・・・・!!

このあたりから、「なにこれー!」「すごーい!!」と、筆者歓声をあげまくります。

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山から下りる、ウッドな階段がありました。その先は・・・

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パラダイス!!!

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湧いてる!!なんかジャバジャバしてる!あきらかに湧水!!

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池あり!

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田圃あり!

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ワイルドな水路あり!

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ワイルドな水路の来る先を見つめると、ここがどこなのかわからなくなってきます。いまは昭和なのだっけ。ここはどこなのだっけ。

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谷戸の、両側を小さな、けれどたのもしい小川が走っています。これは、西側の一すじ。

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これは、東側の一すじ(藪の中ですね・・・)。小さな滝のようなものもありました。すべてが自然のままです。

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両側の小川のほかに、谷戸の中央をくねるようにして何すじかが流れています。

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ふと、ノルウェイの森の「野井戸」のことを思い出しました。
もし、いま足元にあるウッドデッキがなかったなら、とても気を付けて歩かねばならなくて、きっといくつもいくつも野井戸があって、いくらでも落ちてしまうかもしれない。

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そんなことを思いながら、ウッドデッキの下を見てみたら、じゅくじゅくと水が湧いていました。いちめんの湿地帯だったんですね。

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しかし、こんな場所があったなんて、ぜ~んぜん知りませんでした。比較的最近できたのかと思ったら、やや古めの看板もあって「ハンノキ林の植物」のことが書かれていました。見上げてみます・・・ハンノキはどれかな。
平地の湿地にはハンノキを中心とする高木林があり、湿地独特の植物群落をつくっていたけれど、いまは湿地が開発されほとんど見られないので、このハンノキ林は貴重。とのことです。

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まむし看板の出現です。まぁ・・・いる、よねぇ、きっと。週末でしたが、かなり人が少なめなので、まむしもノビノビ生活してるかもしれませんね。

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谷戸を登っていく形で歩いていきます。相変わらず湧いてます。でも、なんか、水がそんなにきれいじゃないのです。油分のようなものがまぎれてたり、王禅寺みたいな黄色っぽい感じがあったり。なぜだろう?土の性質なのかもしれないけど・・・、入り口のほうの湧水は澄んでいたのに。

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ミニ谷頭みたいな場所もちょこちょこあって、そういうところにはこんなふうに池ができていたりしました。やっぱりそんなに澄んでいなくて、生き物のざわめきも感じないけれど。・・生き物のざわめきは、むしろ、この崖の上部から聞こえてくるのです。

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ちょうど、専修大学の校舎が崖の上に建っているのでした。いくつかの楽器のおと、学生が生活する感じが、尾根のほうからしてきます。なんとも不思議な感じです。大学生たちは、この崖下にこんな自然があること、知っているのかな。知らないんじゃないかな。それとも、デートに使ったりするのかな。。

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この谷戸はいまは草地・湿地だけれど、以前は水田だったようです(gooの昭和38年航空写真)。
両側に水路、斜面は雑木林。真ん中に水田や畑が昔からあって、周りを囲む雑木林は、まきや炭、肥料を作るために育てられたものなのだそうです。案内板によれば、どうやらカブトムシやクワガタがいるらしいです。あ、もちろんホタルの里なので、ゲンジボタルも。

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それにしても、コンクリ蓋暗渠を追ってきて、こんな景色に到達するなんて。思いもよらぬ、ぜいたくな暗渠さんぽとなりました。

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だって、谷から上がればすぐに、この風景ですよ・・・。

今いたところはどうやら、生田緑地の一部のようです。生田緑地で有名なのは日本民家園やばら苑の方面でしょうか、川崎市内最大の緑地で、昭和16年からあるようです。今回は歩いていませんが、生田緑地周辺にはいくつか戦争遺跡があるようで、なかでも驚いたのは地下壕です。生田緑地の地下(東口駐車場の奥)には、「高さ2~3.5メートル、幅2~4メートル、総延長268メートル」の大きな地下壕が残っているというのです。東芝が軍需の地下工場にしようとしたところ、使用前に敗戦となってしまったもののようです(「フィールドワーク 陸軍登戸研究所」より)。
ほか、枡形山には探照灯基地や、高射砲陣地があったといわれます。前出の専修大学キャンパスには、戦時中は日本電気生田研究所があって、電波兵器の研究をしていた、ということです。

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さあ、尾根に戻って終わるのではなく、ちゃんとさきほどの湧水の行く先を見届けたいと思います。最初に小川を見つけた地点まで戻って、下流を臨むと、さっそくコンクリ蓋暗渠がありました!しかも、横のガード付タイプの、幅広な立派なやつです。

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道路を横断するという、萌えポイントもしっかりと押さえてくれています。

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山の下をじりじりと流れて、

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唐突に、ものすごい角度で曲がりますw

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コンクリ蓋の終わった先は、写真左側の手すりに囲まれた中で、開渠になって、そして小田急線をくぐります。うっはー、見どころが多すぎ!

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暗渠の終わりを喜び勇んで見に行くと・・・、あれ?水量、これだけ・・・?あんなに湧いてたのに・・・

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まあ、いいか、とりあえず先に進みます。線路を渡って、続きを探します。川崎において水路を見つけたいときには、アレです。アレw ゴミ捨て場w

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やっぱり、ゴミ捨て場の下にありました。こっち側は2連で、後ろには物置みたいなのが見えます。

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ずいぶんアクロバティックに置いてあります。・・・どうやって出し入れするんでしょ・・・

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水路は何も気にせず、流れてきます。

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反対側もゴミ捨て場で、珍しい(お手製だろうな~)からし色の木蓋でした。

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もうすぐ五反田川です。いい感じの眺めです。

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トリプルゴミ置き場、気に入っちゃったので何枚もw 道路を横断する暗渠も見えますね。

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こんなふうな、ざっくりとした支流暗渠もありました。

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いよいよクライマックスです。ジャバァー!
なるほど!水量が少ないと思ったら、下を雨水管が通ってたんですね。むしろそっちのほうが多いかも。

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しゃがんで見てみると、合流口の間際までは開渠で来ていることがわかります。

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それにしても、ゴール地点の五反田川はずいぶん曇った色でした。すぐ近くに二ヶ領用水が流れていますが、こっちのほうが水質はずっと綺麗です。
この後、仙川に寄って下水道写真家:白汚零さんの展示を見させていただき(お話もしていただき、ホント感謝です!2012年下水道カレンダー、および来年の暗渠内写真を楽しみにしています)、下北沢に寄ってテト家をひやかして(コンクリートドリンク、良かったなあw)帰ってきました。

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さてさて、今回の行程です。水色が今回追った五反田川支流の暗渠&開渠。「ホタルの里支流(仮)」とでも言ってしまいましょうか。そしてその、ホタルの里の湿地帯が、水色の枠内です。湧水に癒されたい人に、おすすめです。個人的には、暗渠蓋が途切れた直後の、別世界突入ぶりにしこたま感動しました。

さて、これで今年の更新はおしまい。ずいぶんと記事を書けない時期が続いていましたが、それでも読みに来てくださった方、コメントくださった方(ツイッター上でも)、本当にありがとうございました。来年も、どうぞよろしくお願いいたします。

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風船爆弾と、別世界につながる暗渠 前編

何か月も前の写真で記事を書くことに早くも飽きてしまい、
なおかつ久しぶりにいろいろ歩けた日があったので、
今回は川崎にとんで、軍事モノと自然派モノで一本、書こうと思います。

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ここは生田の駅です。
降りると、いきなりワイルドな崖がお出迎えしてくれます。
今なら、紅葉も付いた、秋の渓谷のような景色が待ってます。・・・ちょっと、びっくり。
ここ、駅前だよねえ??

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崖下を流れるのは、五反田川という川です。
さっそく、五反田川の支流暗渠が向こうから走ってくるのが見えます。合流口からは湧水のようなものが滴っていました。

落ち葉の間を縫って、ゆったりと曲線を描き・・・紅葉もいいけど、暗渠もね、っていうくらい、カーブするコンクリ蓋のうつくしさったらないです。

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てくてく歩いていくと、明治大学の生田キャンパスにたどりつきます(この日、道でマンホール写真を撮りまくっている女の子がいました・・・親近感w)。

キャンパスは崖の上にあるのですが、それにしてもだいぶキツイ上り坂ですね。

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このキャンパスは、谷に囲まれた土地にあります。この地図における敷地の境界線は殆どが崖のようなもので、北に向かう2つの谷戸に挟まれています。
なぜそんな立地なのかは、後述する、以前の所有者の意図に拠ります。
ちなみに、地形図や航空写真を見ると、2つの谷戸は南端でつながっているようにも見え、不思議な地形です(そう見えるだけなのかもしれないけど←今回はそこまで歩いてない)。

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そういえば、崖の上。
ってことは、その下には?
・・・やっぱり、ありました、一流。

ここは登校路門という門らしいですが、その門の真ん前をちいさな流れが横切っていきます。おそらくそれほど遠くない場所で湧いてきた水が、こんなに深いところを通って、

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門の所でだけ暗渠になって(このゴミ袋の下で、かつ、階段の下)、

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そして線路のほうに向かい、五反田川に合流するようです(この藪の中)。

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さて、門から急斜面を上ってゆくと、さっそく軍事遺構があります。
生田神社と、その境内にある登戸研究所碑。ここ明大生田キャンパスは、旧陸軍の研究所(登戸研究所/正式名称は第九陸軍技術研究所)があったことで知られています。登戸研究所とは、兵器開発の第一科、生物化学兵器やスパイ用品開発の第二科、偽札製造の第三科、製造工場の第四科からなる、秘密戦のための研究所です。勤めていた人でさえ中で行われていたことを知らなかったり、そもそも、その存在自体も、秘匿とされていたものです。

そして戦後、慶応、北里、巴川製紙などがこの地を使い、1950年に明治大学が購入、今に至ります。生田神社は、明治大学が豊穣の神などを祀りなおしたもので、もともとは弥心神社という、陸軍軍事技術有功章の賞金で建立された神社です。その当時は、戸山ヶ原(登戸研究所の前身)から分祀した、発明の神が祀られていたといわれます。また、殉職した勤務員を慰霊したり、勤務員が徴兵された時にはここで出征式を行ったりしたのだそうです。

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・・・見るものは色々とあるのだけど、大学に来たならば、学食を覘くのが自分的お約束です。
お~、学食、やってました。そばのお店で、「ぶた天そば」と「ミニカレー」。しめて520円也。
ぶた天、もっと薄い肉だと思っていたのに、わりと厚くしっかりしてました。そばも中太のしっかりめ。味は、カレーもそばも、ちゃんと学食味!これがおいしいんだよね~~。けっこう多かったので、お腹いっぱいになりました。

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お隣にも学食棟があって、しかも、その前には次なる軍遺構がありました。
消火栓です。少し埋もれちゃってますが、陸軍の☆マークがついてます。

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キャンパスの南側へと歩いていくと、喫煙所のところがとても良い眺めでした。

谷を挟み、向こう側の崖上には団地が見えます。この団地、大学とは無関係のようですが、実はかつてはここと同じ陸軍の敷地で、第四科の製造工場があった、とされています(工場、と言っても5~6人ずつが作業する小規模のもの)。
また、四科の敷地は生田中学校あたりまであったとされますが、前掲の地図では、中学校の敷地にかかるかのように、地下を貨物線が通っています(破線)。まだ文献を見つけていませんが、工場で生産したものを、貨物線を使って運んでいたのでは?と、想像してしまいます。

それから、なぜこのような崖上に建っているのかというと、電波兵器の開発のため高台に、という意図があったようです。もとは新宿の戸山ヶ原にあった秘密研究所ですが、1937年に登戸実験場(後に改称)をつくり、電波兵器の実験を開始しています。

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さ、キャンパスの北西の端につきました。ここが登戸研究所資料館です。
外からだと新しく見えますが、もともとコンクリート製の、第二科の戦争遺跡で、それをきれいにして保存しているようです。生物兵器開発が行われていた建物で、史料によっては「枯葉剤研究室」と載っています。それを、2009年まで明大農学部の研究棟として使用していたそうです。

今も内部には、古い水場や、暗室へのアプローチ(クランク)がそのまま残っています。
12月17日まで風船爆弾の展示をやっていたので、それを見にきたのでした。風船爆弾(「ふ号兵器」)は、第一科の開発による、実際に使われた兵器であり、おどろくほど高い技術(高度維持装置や着弾時の自爆装置など)と、日本の知恵(和紙とこんにゃく糊)があわさったもの。そしてその和紙は、埼玉県小川町に流れる清流を使って、手すきで作られたもの、という、ここでも「川」が関わってくるものなのです。
他の科のこともたくさん説明されていて、気合の入った展示でした(お金も手間ひまもかかってる感じで充実!)。複雑な気持ちにはなるものの、記憶しておくべき内容が多く、かなりおススメの資料館です。

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資料館はキャンパス内でも標高が高いところにあり、すぐ下に軽い崖がありました。そこらへん一帯は農学部のものらしく、いろんな植物等が育っていましたが、なんとミニ田圃みたいなものもありました。そして、そんなに寒い日ではなかったにもかかわらず、日陰にある田圃の水はしっかりと凍っており、「この程度の天候で氷ができるんだったら、そりゃたしかに東京の川沿いにも氷室ができるわけだ」などと、妙に納得したのでした。

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あ、そうそう、これも地味に遺構です。
資料館前に、陸軍時代の防火水槽がありました。まるくて、まあまあ大きいです。

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資料館のすぐ南には、弾薬庫があります。じつにひっそりと。
弾薬庫と呼ばれていますが、登戸研究所で作られたもの(小型缶詰爆弾、鞄型カメラや蛇毒入り注射器、毒入りチョコレートなど)を入れておく場所だったようです。

登戸研究所の建物は、次々なくなってきており、2011年まで残っていた五号棟(贋札の印刷工場)が2月の見学会を最後に解体されてしまった今、当時のまま残る建物は、この通称・弾薬庫ばかりとなってしまいました。

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図書館の近くには、二個目の消火栓がありました。
かつては火薬を使うような兵器も開発されていたこの地には、もっとたくさんの消火栓があったはずですが、構内に現存するのはこの二個のみなのだそうです。

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これは花壇のようになっていますが、資料館前の防火水槽をみてしまうと、これも同様、防火水槽に見えてしまうんですが・・・どうかな?

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おおきなヒマラヤ杉たち。
このヒマラヤ杉は、登戸研究所時代の写真にも写っており(もっと若い姿で)、当時からあったものだそうです。また、このヒマラヤ杉付近は当時の道のかたちがそのまま残っているのだそうです。

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そして、ラストの遺構がこれ。動物慰霊碑です。
1943年に陸軍技術有功章の賞金(当時の1万円、いまの1千万円ほど)の3割ほどを使って建てられたものだそうです。実に大きな立派な碑なのですが、敷地の端も端といったところに、ひ~~っそりと立っています。
動物実験を行っていた科が建てたそうなのですが、登戸研究所に勤めていた方でも、違う科の方はご存じなかったりするそうで、前出の弥心神社(同時期に建立)に比べて圧倒的に知名度が低いようです。現在たまたま明大の農学部がそのまま動物慰霊祭などで使っているため現存するけれど、もしそうでなかったら、残っていなかったかもしれない・・・?とてもひっそりとした碑だったようです。そして、この、「動物」のなかにはおそらく、実験対象となったヒトのいのちも入っているのでは、というふうに考察されている・・・重みのある碑です。

ところで、この慰霊碑の後ろの空き地が崖下になっており、かつ草ぼうぼうなのでとても気になり、動物を捨てた場所だったのではなどと想像めぐらせていましたが、大学の方に聞いたところ、3年ほど前まで建物があったそうで。たしかに、後で資料を見ると、しっかり民家らしきものが建っているのでした。

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慰霊碑は、ほぼ正門の所にあります。正門を出ると・・・そこに広がるのは、お隣の谷戸でした。明治大学のお隣は専修大学で、専修大学のグラウンドのようです←明治大学のグラウンドでした。このグラウンド・・・昔は田圃で、川が流れていたことでしょう。

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坂をっていると、気になる感じで道端に祀られている神様が。その地面には、じっとりと湧水が・・・そう、ここは川崎だし、湧水やら開渠やら暗渠やらをもう少し追って帰ろう、と、もっと歩く決心をします。うん、向ヶ丘遊園まで歩いて行こう。

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早速、ちょっと粗い素材の全面包囲型暗渠発見。その暗渠は直角に入り込んでくる支流をもっているようで、

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その支流は今まで見たこともないような、ヒューム管剥きだしタイプ!!
こんなんアリですかー?

さすが川崎、やっぱりすごいぞ!

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と、思っているうちに、あっさりと五反田川のほうに流れて行ってしまいます。

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さて、先ほど見たグラウンドのある谷戸の、下のほうを横断しようとすると、おお、調整池!
しかも、この調整池、専修大学が管理してる!!
いままで、自治体が管理している調整池しか見たことなかったので、ちょっと興奮しました。

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へぇ~、見た感じは平均的な調整池という感じです。
大学もがんばってるのねぇ。
この下流にある住まいを、守ってるのですねぇ。

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今日は乾いてますが、耳を澄ますと、どこかからせせらぎの音がします。
お、あの草ぼうぼうの中に水路が一筋。

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ここから五反田川方面に注ぐようです。

さてさて、この後、もうちょっと探検は続きます。が、長くなってしまうので、後編に分けて書きたいと思います。

陸軍中野学校、そして登戸研究所に関する記事(しかも暗渠に絡めた)を、書いたわけなので、そのうち習志野にも行かなけりゃなぁ・・・とも、思ったりするのであります。そして、これら秘密系の施設のうち、前者二つが、同じ大学の敷地になるという不思議。

<参考文献>

山田朗 2011 文化財講演会「明大キャンパスの戦争遺跡」講演資料
姫田光義 監修 旧陸軍登戸研究所の保存を求める川崎市民の会 編 2009 フィールドワーク陸軍登戸研究所 

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京都の平地では暗渠と出会えないの巻

なんだか急に、寒くなりました。
未整理の写真をながめていると、まだまだ今年のあたたかい(というか暑い)時期のものがあって、いまの寒さとは差がありすぎて、記事にするのも妙かな、と思ったりもします。

けれど、寒い時期の写真がいっぱいあるわけでもないのです。なので、今年の春~夏の記事をいくつか書こうと思います。
夏に、京都に出張する機会がありました。

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自分の発表があったり、飲み会があったりで、なかなかさんぽをする時間もないけれど、朝早めに起きてぶらぶらしてみました。

早速、ものすごく素敵な銭湯を発見!錦湯です。
このつくり・・・東京で見てる銭湯とはまるで違うかたち。

入ってみたくてたまりませんが、朝御飯前の時間なので、開いてはいませんでした。

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時間は限られているので、とにかく帰れる範囲で歩きまわります。

残念ながら高低差の無い場所で、暗渠らしいものも全然なく、おのずと注目するはマンホール。下水道蓋が東京のものとちょっと似ていました。

側溝の蓋にも、なかなかすごいものがありました。・・・私・・・!?

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鴨川まで出て、川べりを歩きます。もちろんお店はどこも開いていないので、川床の下を流れている水路を見ながら歩きました。

京都には何回か来ていますが、これまで気には留めなかった場所です。・・・なんとなぁく、裏側部分を見たくなったわけですw

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鴨川もながめます。

流れはずいぶんと浅くて、広い。そして、整備されていて、水もきれいな印象でした。東京の各開渠とはだいぶ異なる印象です。

後からタクシーの運転手さんに聞いたところ、鴨川は以前は”暴れ川”だったのだけど、底を浅くして広げることで、今は大丈夫、とのことでした。その”浅さ”がとても徹底している印象でした。

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上の写真の右端に、暗渠の吐口のようなものが見えています。

拡大。暗渠のように見えるけど、後方には向こう側が見えます。つまり、河川が合流しているようです。

琵琶湖疏水の分流が、まわりまわってきているように地図では見えましたが、よくわかりません;;

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川床の下の流れに戻りましょう。

鴨川同様、浅い水路にちょうどよい勢いで水が流れていきます。淀みも嫌な匂いもなく、しかし魚は棲んでいなくってちょっと味気ない。でも、クレソンが群生してました!あぁ、むしゃむしゃしたい。

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四条大橋からあるき始め、三条大橋まできたところです。橋の下には、写真内に見えるようなミニ橋があって、ミニ調整池のようなものがあるように見えます。

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うーん・・・ミニ調整池っていっても、この大きさではあまり役に立たない気がする・・・不思議な空間でした。よくわからないまま。

そろそろ、朝御飯を食べて宿に帰らないと、集合時間に遅れてしまう・・・。川沿いを離れます。

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また銭湯。明治湯です。

やっぱり、東京で見慣れている建物とは違うようです。
京都ではこういうタイプが多いのか・・・?帰ってからwebでみてみたところ、町家ふうのつくりが多いとのこと。2階は住居になるものらしく、この2階の存在がだいぶ印象を変えていると思います(集会場でもあるのかと思ってました)。東京だったら、上までズドーンと屋根、ですからねぇ。換気の仕方とか、異なるのでしょうか。

また、京都市内の銭湯は大正・昭和初期から残る建物が多く、前掲の錦湯なんて、昭和2年からあるとのことでした!リンク先の、洋風銭湯もすごいですねぇ。実にカッコイイ。これらも見てみたかったです。

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もひとつ銭湯。ここは桜湯の入口。

桜湯は、錦湯と明治湯にみられた町家ふうのつくりではなく、ビルの中に入っているようでした。
それにしても、この”サウナチェリ”の看板が秀逸。”チェリ”だし、添えられた絵がかわいすぎるし、串かつおでんも同列だし・・・
がつんがつんと響いてくる看板です。

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朝のさんぽはそのくらいにして。
あとは、同僚たちと行った観光の記録です。同僚たちとはぐれないようにしつつ、水関係のものを撮った記録といいましょうか・・・。

タクシーで龍安寺へ行ったのですが、その途中にあった暗渠っぽいもの(向こう側の歩道)。

同僚はわたしの暗渠趣味を知っているので、「運転手さんになんか訊きなよ~」(告っちゃいなよ~、的なノリで)という話になって、おそるおそる質問をしたところ、前述の鴨川の話のほか、

・堀川通の「堀」は、明治まであった運河であり、伏見からの入口だった。今は親水空間。
・お土居(おどい)が北の方に残っていて、これは鴨川の氾濫を防ぐ堤防の役割もしていた。北野天満宮内にも残っている。

などと情報をいただけました。運転手さん、ありがとうございました!

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龍安寺につきました。入るとすぐに池が見えてきます。鏡容池。かつてはおしどりがおり、おしどり池とも呼ばれたそうです。
この池、出現する角度にと~っても違和感を覚えたのですが・・・

やはり人工池のようです。後ろの山から湧水はありそうなので、それをどーんと土を盛って(そこにいまわたしが立っている)せき止めたようです。

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だから、目の前は池、立ってるところは盛り土、背後には急峻な崖。という、違和感ありまくりな地形になっているのでした。まさにダム!日本庭園ダム!

ふと目の前には石が二つあり、「水分石」と書いてあります。いったい、どんな面白い由来のある石なんだろう、って不思議がっていたのですが・・・、池の水量を測るための石なんだそうでした。

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帰りの新幹線まで、あと1箇所くらいしか行く時間がなさそうです。なるべく近くをということで、なんとなく、古典で見たことのある仁和寺にいこうかということになりました。

ぶらぶら歩いて向かっていると、小川発見!
ちょうど、背後が山です。朝のさんぽでは不発だった、谷と水路。北部に来ると地形に起伏が出てくるのですねぇ。

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で、ワクワクしながら歩いていましたら。

きたーーー!

アレが道路を横断しているじゃないですか!!突如しゃがみこんで興奮し始めるわたくし。

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その下流はこうでした。
さきほどの開渠とそっくりな感じで、流れ落ちていく水路。
どうやら、さっきの流れもこの流れも、同じ御室川(桂川の支流)という川に流れ込むようです。

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その、上流部は暗渠として続いていたので、鼻息荒くしてさかのぼります。

同僚たち、「これなの?これなのね?」とついてきてくれます。やさしい!

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でも、すぐに開渠に戻ってました。
このナナメっぷりがちょっといいですね。柵の向こうで開渠になり、ずっと山奥まで続いている様子。

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すぐそこにあった、町内会の地図に水路が描かれています。なんか良いですねぇ、水が豊富です。

右上に「原谷へ」と書いてありますが、この原谷(はらだに)という場所は左大文字の山の奥の一帯をさすらしく、別な地図を見ると原谷から市内へ向かう道は「氷室通」と呼ばれるようでした。・・・氷室!!

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もう、興奮し続けています。京都、山間部には水の豊かな気配がします。

ここは仁和寺の敷地の脇なんですが、石垣からジュクジュクとした浸み出しがみられます。

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そして、仁和寺の敷地を囲う、石垣のところにはこんな滝のようなものがありました。
ナニコレ!ナニコレ!ってなって、ガン見していたところ、背後から「それ、なんだかわかるー?」という声。・・・向かい側の敷地にいらした庭師さんが、声をかけてくださったのでした。
庭師さんによると、これは排水溝なのだそうです。石垣の上に敷地があって、そこに雨が降るとここを通るのだけど、雨の日はそれはもう滝のようにここをジャバジャバと流れるのだそうです。
面白がって、この開いてる箇所に手を突っ込んで写真を撮ってみましたが、空の土管があるだけでした(ちょっと、こわい)。

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上部はこうなっています。

ここから雨水を落とすわけです。いったい、どんだけの水が押し寄せてくるんだ・・・

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で、石垣のすぐ下には、一見ふつうの側溝が伸びています。
雨の日はさきほどの滝も含むわけなので、結構な許容量のはず・・・

その側溝は、おとなしく下っているように見えますが、

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なぜか下流に向かうにつれて、逆にだんだんと蓋が盛り上がってきて、

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ぶつっ。

っと、こんなふうに終わります。なんだこれw

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よくわからないけど、とりあえず仁和寺に入ります。

お寺の山門からふと見下ろすと、ささやかな側溝が手前を流れていますが、横断歩道のこちら側に橋のようなものが見えます。水路が通っていたであろう橋。

で、ここで観光はタイムアップ。

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ランチは先斗町で、花柳というお店で軽めのコースを食べたり、酒に菊を浮かべたりしました。元・お茶屋さんという、空間が良い感じ。

ほんとは、外の床で食事がしたかったのですが、いかんせん9月。川床が暑過ぎて、断念してしまったのでした。考えてみると京都には何回か行っているのに、一度も川床で食事をしたことがない・・・。

さてさて、暗渠のさんぽはほとんどできていない今回の旅。ただ、有名なお寺の周辺にも、楽しめそうな暗渠関連のものがある、ということもわかりました。南側にも起伏のある土地がある、ということを聞いたので、次に京都に行く機会あらば、南端と北端を攻めよう、と思っているところであります。

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堀ノ内支流(仮)のみどころ

実にひさびさ、杉並区に戻ってまいりました。といっても、お得意先の桃園川ではなく、ちょいと尾根を越えて今回は善福寺川の支流です。
なかなか、人気があるようで、
いいらさん 善福寺川堀ノ内支流(仮)
リバーサイドさん 善福寺川の支流を歩く(堀ノ内支流)
猫またぎさん 善福寺川・堀ノ内支流(仮)をたどる

と、リンクさせていただいている方だけでも踏破率が高い印象です。微妙に異なる時期に行かれているため、これらの写真を見比べているだけでも楽しいです。

Hori0 さあ、それではわたしもスタートしましょう。新高円寺の駅から向かいます。

以前、小沢川の支流について書いた時も触れた、ane-cafe。当時はベーグルがなかったので、そんなことを書いていますが、今現在はプレーンベーグルなら売っています。おいしい”へそベーグル”(よしながふみ命名)。ほかにも美味しそうなパンや焼菓子があれこれ。おいしい。五日市街道のほうにひっそりとある名店です。

・・・さて、ここから堀ノ内支流に向かうには、寺町を突っ切るように歩かねばならないのですが、実は堀ノ内支流(仮)の更に支流か、あるいは上流端の可能性もあるものについて、書かれたものを見つけたので、そこを歩いてみたいと思います。

Daiho

地図上、水色の点線の道。(ピンク色のがane-cafeの場所。)
「高円寺 村から街へ」によれば、五日市街道沿いにはかつて、東から西への水路があったというのです。街道沿いのお米屋さんが、その流れで水車を回し、精米していたという話も載っています(その流れは青梅街道沿いを流れる水路からきていると推測されています。そしてこの資料においては、青梅街道を流れる水路=おそらく千川上水の分水の、高円寺周辺での目撃者が複数おり、中野方面まで流れていたとされます。以前、たとえばこの記事のコメント欄などで谷戸っ子さんとともに言っていたことが、当たっていたようだ!と実に嬉しい情報なのでした)。

Hori1

その、五日市街道沿いに大法寺というお寺があります。
大法寺の脇には、こんな風なあやしい道があります。

前掲の資料では、暗渠を随分探索されたであろう方が、この道について”昔水路だったと推定できます”と書いています。

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・・・つまり、根拠が実は乏しいのです。そして、それ以上の情報を今のところ見つけられていません。古地図にも無いし、下水道は途中までしかのびていないし、とくに町境でもない。

一方、両側にもっと太い道があるのに、あえてお墓の間を通る細い道だし、カーブしているし、道端にはやたら水分を補給したような大きな木もある。
慈宏寺満願寺小沢川上流の蓋暗渠、・・・墓地を走り抜ける暗渠って、案外多いと思うんです。

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なので、ここについては白黒つけられないけれど、「ここにあったら良いな!」と思うんであります。

さて、墓地を抜けると、住宅街の道になります。いっきに暗渠感が失せますが、逆にここらへんからこの道は堀ノ内と松ノ木の町境(=暗渠サイン)になるのです。

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こういう道端の違和感、護岸だったらいいんだけどなぁ~~!

前掲の資料では、この道を水路が通って行くと推定し、「堀ノ内小学校へ至りますがこの辺りから台地になるため、小学校の手前で水路は東に折れ更に南へカーブし済美山脇の低地を通って善福寺川に注いでいました」と続けます。水路が折れるくだり以降は、まさに堀ノ内支流(仮)のことです。

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さて。
まっすぐ進むと堀ノ内支流(仮)の始点と思われる場所(というか現在名残のあるなかでは上流端)に近づきます。

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ここここ!

ここが堀ノ内支流(仮)の始まりとして扱われる場所。

あれ、なにか建物が建ち始めているようです・・・。

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ちなみにこれはさらに半年前のここ。
奥まで見渡せますね。

背後に犬がいて、かなり吠えられたことを(しかも唐突に)覚えています。ここに来るビビりな人は、気をつけましょうw

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今の細道を入っていくと、新築のマンションに出会います。
ここに以前、子宝湯があり、何回か利用したことがあります。ふるくて、大きくはなくて、人もあまりいなかったけど、ザ・銭湯という感じで良かったのです。銭湯に向かう道にも味わいがありました・・・。

わたしは最初、堀ノ内支流(仮)は上流端に子宝湯があるので、銭湯の排水路として始まったのかなどと思っていましたがそうではなく、

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「杉並の川と橋」には、”子宝湯脇の低湿地帯(推定)”が水源のように書かれています。

しかし、その湿地帯らしき場所につながる、大法寺からやってきた道から延びるこの細い空間は、もっと上流があるということを支持するかもしれないですね。

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さて、そろそろ川を下って行きましょう。

子宝湯跡地の脇からは、コンクリート蓋暗渠が始まり、猫またぎさんが注目していた車止めが早々に姿を見せます。天沼にも同じタイプを見た、というようなことを言いましたが、良く見ると若干違う
ひとつ前の写真でも、奥に見えてますね。

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コンクリ蓋は道路を横断します。

この風景、大好きです。

なんというか、コンクリ蓋がトコトコ歩いているみたいで。

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さあて、コンクリ蓋は間もなく無くなってしまいますが、道の雰囲気はぐんと暗渠っぽくなります。

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ちょっとほっとかれてる感じもいい。

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きたー、これ、ちょっと嬉しい。

「水路内」って書いてあるの、実は杉並ではまだ出会ったこと無かったのです。
キャッキャします。

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近くには井戸もありました。

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ただただ東へと進みます。

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すると、縦置きの車止めに出会います。
初めて縦置きに出会ったのは松庵川でしたが、さすがにあのときみたいに大爆笑はしません。けどなんだか明るく楽しい暗渠に見えてきますw(まぁあんときは寄ってたりもしたしね。)

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横がちょっと高くなったようで、こういう閉塞感のある場所もあります。

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車止め、縦アンド横。
なんだか、楽しそうですねぇ~この方たちww

(金太郎が残ってた時代だったら、金太郎のダンスみたいになってたのでしょうか。)

Hori19_2

ふとあることに気付きました。

地面をよーーく見てみてください。

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これ、ゆるアスファルト暗渠!

なんと、これも松庵川で初めて見た物件です。
善福寺川堀ノ内支流(仮)、おそるべし・・・松庵川よりもずっと短いのに、松庵川に詰まってるミラクルがここにもある。・・・同じ業者さんだったのか??

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まっすぐ道路、荒玉水道道路と交差もします。

交差した後、暗渠はぐぅっと弧を描き、南へと進路を変えます。
妙法寺前の通りともぶつかり、そこにはこの暗渠最初で最後の給水ポイントw、古めの中華屋さん(ここ何度か一人で行きましたが、酔っ払ったおじさんに絡まれたりしたのでもう行かないw)、和菓子屋さんなどがあります。

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さてだいぶ下流側に来ました。だいぶ幅が広くなります。

このあたり、”堀ノ内田圃”とか、”南田圃”とか呼ばれている場所です。今は家が建ちそうですが、駐車場が並んでいて、1980年代の住宅地図でもここらへんは駐車場でした。田圃→駐車場、と来ているのでしょうか。

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さてもっと下流、というか河口です。

ずいぶん余白のある、違和感空間です。他の方々の記事を見ると、善福寺川のあげ掘と交わる位置だったようです。

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で、ゴール。
整備されてきれいな護岸にのぞく、堀ノ内支流(仮)さんの河口。

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近くには、あこがれのゲルンジー駐車場もあるので立ち寄ります。

泉麻人氏が書いてて気になった場所。

Hori27

かつてここにはゲルンジー牧場という牧場があったらしくて、その名残なのか小屋があって・・・という話を読んで、ずいぶん経ってから来ましたが、まだそれっぽい小屋がある!?

なんて、堪能して、お腹がすいたので、善福寺川沿いで鶏の唐揚げを食べて帰りましたとさ。

・・・と、〆たいところではありますが、もう一軒みどころがあるんです。

再度、堀ノ内小近辺まで戻ります。

Matu

場所としては、赤い場所のところ。(堀ノ内支流は水色、子宝湯は黄色で書いています。)

Hori28

そこに、なんだか気になるものがありました。

貯水槽?でも、民家に?

なんかの倉庫?でも、こんなコンクリで窓のない?

焼却炉?でも煙はどこから?

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・・・もっとも近いのは、銭湯のはじっこによくあるやつ(あれってなんなんだろ?汗)に見えたんだけど、銭湯にしては、煙突が無いし。杉並区の新旧銭湯はすべてプロットしてあるはずの、マイ地図にも記載がないし。

前にまわってみると、こんな感じ。

うーん、うーん、なんなんだ??

・・・ちょうど、お隣の通路を掃除していらっしゃるご近所のおばあさんがいらしたので、思い切って質問してみました。

Hori30

すると、ここはずぅっと昔に閉められてしまった銭湯だ、とのことでした。

その名も、松ノ木湯。
その方のお話によれば、さかのぼること戦時中。徴兵されて男性がいなくなったときに、閉められたということなのです。

なので、貴重な昔の銭湯遺構ということになります。その姿を遺していてくださって、ありがたいことだなぁと思います。

ひとつ前の地図でわかるように、松ノ木湯は子宝湯のとても近くにあります。おそらく、子宝湯は松ノ木湯が無くなってしまったので始められた銭湯ではないでしょうか。その、先に閉められた松ノ木湯はいまもその姿をとどめ、後に作られた子宝湯は最近閉められ、すぐさま真新しいマンションになっている。
そして、この2つの銭湯はどちらも、この堀ノ内支流(仮)の脇にあるのです。

謎の上流端、ふたつの失われた銭湯たち。道路を横断するコンクリ蓋暗渠に、縦置き車止めに、ゆるアスファルト暗渠に、水路と書かれた看板?に、古びて狭い道に、ひらけた田圃跡の道・・・堀ノ内支流(仮)はその短い全長からは想像もつかない、実に多彩な見どころをもった、贅沢暗渠だと思います。

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