サクシュコトニ川エスカロップ

わたしの中学校の修学旅行は、北海道でした。
そのときに「好ーきーですー、サッポロー」の歌を、バスガイドさんから叩き込まれたため、今でも札幌に行くと、しばしばその歌が脳内リピートで流れてしまいます。・・・だから今回は、ときどきその歌が流れながらのさんぽ。

好ーきでーすだーれよーりもー♪

出張で札幌に行ってきました。北海道大学。入った途端に、この親水空間!

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ここは、野川公園!?

・・・ほかにも、構内に水辺がいくつもいくつもありました。ただし、最初の印象は、ただそれだけ。

札幌市内は、ほとんど碁盤の目であり、地形もあまり凹凸があるようには思えないので、実のところ暗渠にはそれほど期待していませんでした。ただし、駅名を見ると、川に因みそうなものがときどきあります。何か支流暗渠のようなものが見つかりはしないかと、ふらっと「中の島」という駅で降りてみました。

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中の島、という地名から想像するのは2つの川に挟まれた島か、湿地帯のような場所です。じっさい、中の島は、札幌を流れる大きな川、豊平川と、その支川である精進川の間の島になっているように見える場所でした。
これが、精進川です。

それから、駅前の地図に「水産庁北海道さけますふ化場」とか「独立行政法人さけ・ます資源管理センター」とか載っているので、思わずそこまで行ってみました。

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この左手の建物がそれです。すぐ脇を、精進川が流れています。施設の中には、孵化させる空間っぽいものがありました。

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付近には、斎場や「水車町」という町もありました。川沿いなんだな、と感じます。ただ、期待するような支流暗渠や旧河道らしい空間にはいっこうに遭遇しないのです、碁盤の目がひたすら続くのです。・・・こんな、2つの川に挟まれた土地でさえ。

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しかし、銭湯はありました。東豊湯。積雪のためでしょうか?こんなつくりです。

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気になるマンホールもありました。「札下」とか「ト札下」とか書いてあるんです。・・・札幌下水道なのかな、しかし札とは読めない・・・札幌の札と、北海道の北を合わせた文字なのかな。そして「ト」はいったい何なんだ・・・と、悶々としていたら、やなぽんさんが教えてくださいました。これは、札幌市下水道のもののようです。それから、「ト」がつくのは、中の鉄筋が太い増強蓋である、ということまで教えていただきました。ほか諸々、ぜひこちらを参考に。→以下、札下マンホの説明記事(やなぽんさん、ありがとうございました!)
http://yanapong.blogspot.jp/2011/11/blog-post.html
https://sites.google.com/site/machiyomi/tetsubuta/hokkaido/sapporo#3

そういえば、札幌って碁盤の目に沿って「北〇条西〇丁目(〇内は数字)」のような住居表示の仕方が多く、とても独特ですよね。白汚零さんが、札幌は下水道幹線の名付け方も独特で、アルファベットと数字の組み合わせなのだ、と仰っていたのを思い出しました。

・・・それにしても、暗渠がないなあ。暑い日だったので、珍しくガラナなんか飲んでみたけれど、自販機の隣にゴミ箱がある確率が異様に少ない。あと、信号が”勝手にスクランブル”っぽいところが多い。色々とユニークな街だなあ、ここは・・・。

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ふう。とりあえず昼ごはん。
みよしのの餃子カレー。今回初めて食べた札幌B級グルメですが、ハンバーグカレーみたいに、コレは大アリ。しかも380円なんです!カレーは野菜とひき肉のやさしい味、餃子は福しんぽい味。学食みたいでいいなあ。近所にあったらいいなあ。周囲の人の餃子カレー注文率も高かったです。愛されてるのね。満足!!

・・・で、暗渠のことはほぼ諦めかけていました。

しかし、北大をうろうろするうち、どうやら冒頭の親水空間を流れている川は、昔から流れていた川を整備したものらしい、ということがわかってきました。

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その名は、サクシュコトニ川というらしいです、どうやら。
というわけで、今回歩けたサクシュコトニ川を、遡る感じでレポートしたいと思います。

この写真は、復活したサクシュコトニ川がひととおり整備された空間を流れおえ、暗渠に入っていく出口のところ。

・・・サクシュコトニとは、どういう意味なのか?アイヌ語で、
サ=浜のほう
クシュ=通る
ということから、サクシュ=浜のほうを通る(この場合の浜=豊平川)、なのだそうです。また、
コトニ=窪地
から、「窪地を流れる川のうち、豊平川に最も近い川」という意味になるようです。

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さきほどの出口から上の流路をながめると、こんな感じに、美しい窪地にある草原の中を、控えめに、しかし淀むことなく、さらさらと流れています。

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ちなみに、暗渠を経てもう少し下流に行くと、新川という川に合流するようです(もともとは「コトニ川」に合流するということでしたが)。新川に合流する流れはほかにもあって、北大隣にある競馬場の周囲(の、道路下でした。元同僚がタクシーの運転手さんから「この道路は暗渠だ」と別な場所で言われたそうですが、こんなふうに大きな暗渠が下をくぐる道路が何本かあるのでしょうか)を流れてここで開渠となるこの川たちもそのひとつ。この水はどこからやってきたのでしょう・・・

ほんとは色々気になりますが、時間も体力も限られているので、北大キャンパスに的を絞ります。さきほど草原の中を流れていたサクシュコトニ川、つぎに出逢ったのはこの場所でした。

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以前は水量も豊かで、サケが遡上していたといわれます。都市化が進み、1951年ころから水量が減り始め、枯れてしまったそうです。そのとき、上流部は河川としての役目が終わってしまったけれど、下流部はサクシュコトニ川としてその後も存続していたといいます。
このあたりの地点は、その、存続していた部分にあたるみたいです。

「遺跡庭園」北端までは昔の風情そのままに、灌漑用水や自然水等の水路として利用されている、と案内板にありました。それがだいたいこの場所なのですが・・・

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遺跡庭園というのは、これです。

正しくは「遺跡保存庭園」。大学構内のサクシュコトニ川の両岸には、竪穴式住居跡が多数残っているのだそうです。それらは、明治期の絵地図にも地面の窪みとして描かれています。現在は埋まってしまい、見えないものが多いですが、この「遺跡保存庭園」の中にはまだ窪みが残るといいます。

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ひろいひろい、原始林の中を歩いていると、ふとこんな風に、穴らしきものと「アイヌの住居」と描かれた立札があります。この一帯には深さ50センチ、直径5~8メートルになる穴が30以上もあるのだそうです。奈良時代末~平安にかけての村落。

・・・これが大学の中・・・?ひとり、こんな原始林の中にいることがとても不思議に思えてきます。

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遺跡庭園の脇には、空の水路がありました。雨水の排水路なのか、必要な時だけ水を通す用水路なのか不明ですが、この先はサクシュコトニ川につながっていました。

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もう少し上流には、こんな空間。

傍らに牧場?と思ったら、酪農生産研究施設・中小家畜生産研究施設という北大の施設でした。牛さんたちがのんびりと暮らしていました。

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自然そのままの姿の水路が、注目もされずに流れています。自然すぎて、脇を歩くことさえできません。カラスが行水をしていました。

そして次に人目に触れるのが、

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ここです。
かつて川が枯れてしまった時期に、埋められてしまった部分がこの間に挟まっている(=暗渠区間)ようですが、残念、見られませんでした。

1998年ころから、埋め立てられた部分を開削して浄水場から導水する計画が始まったらしいです。(最初は湧水かと思っていましたが、残念ながら処理水のようです。東京と似たようなことが行われているのですねぇ。)
2001年の北大125周年「サクシュコトニ川再生事業」において、その計画は更に進み、再生事業は2003年~2004年あたり。
 http://circle.iic.hokudai.ac.jp/vrmap/Articles/2003SKR/
このサイトを見ると、今回追った水路のうち、まだ暗渠だったもの、通水してないものなどがみられます。また、
http://www01.hokudai.ac.jp/bureau/populi/edition17/toku2.html
このサイトを見ると、サクシュコトニ川は北大キャンパスの形成に少なからず影響を与えていたようだ、ということがうかがえます。

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もう少しだけ上流。とても澄んだ流れがさらさらと流れ、ひとびとがくつろげる椅子があります。明らかに、学生だけではなく、市内のひとたちがこの空間を楽しみに来ていました。

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その、ひとびとが見つめる先は、・・・大野池。こんなに綺麗な池。湧水池かと思うほどです。これまで書いてきたように、この水は浄水場からきている処理水のはずですが。

その上流は、冒頭の野川公園のような親水空間であり、

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遡ってゆくと、ここが始点でした。処理水の出口にあたるところです。

再生したサクシュコトニ川の、源流?地点です。

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なので、川を追うのをやめ、駅へと向かおうと思っていました。すると、先ほどの地点から少し進んだところに、「河」と書かれたマンホールがあったのです。

後で調べてみると、近辺で見たいくつかの「河」マンホは汚水ます表記だったりで、何者なのかよくわかりませんでした。しかし、このときわたしはこれを見て、「もしかするとこの先にまだ上流があるかもしれない」という気に、なぜだか、なったのです。

引き寄せられるように、やや南のブロックに行きました。

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すると、ガクッと下がる空間が出現しました。・・・この雰囲気は、すごくあやしい・・・!!次のブロックに回ります。

すると、

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あった・・・!!!

これはまさしく川跡・・・!

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振り返ると、さらに上流があります。

サクシュコトニ川の跡は、いまでも残っている・・・!

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これまで見てきた、札幌市内の風景とはまるで違う空間が広がります。ずいぶん高低差のある、崖下の川跡です。

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草が伸び放題ですが、川筋は確認できます。
蛇行して、

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こんな風に出てきました。

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曲っている区間は、こんな風にぼさぼさです。とても暗渠風味。
今回最初で最後の、車止め風のものがありました。たぶん、手すりとして使われていたようですが。

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さきほどの蛇行の後は、この裏を通っていました。「井頭龍神」・・・来てますねぇ。

ここは偕楽園という場所であり、かつて「龍神さんの池」があったといわれます。湧水池だったようです。偕楽園には鮭孵化の試験場などが設けられたこともあったといいます。

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偕楽園の脇はこんな風に丸く崖になっています。じわじわとしみ出るタイプの、湧水があったのかもしれません。

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偕楽園から先は、再びワイルドになります。これも川跡。

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護岸には不揃いの石や、陶器や、いろいろなものが混ざっていました。

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コンクリ蓋の出現。下水道台帳で確認してみましたが、この、サクシュコトニ川の上流部の真下には、とくに下水道は通っていませんでした。ここには雨水が流れることもあるのでしょうけど、たいして流れないのかもしれません。

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でもこのコンクリ蓋は、かなりの存在感をもって、行くべきところを示してくれます。

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草で覆われている場所もあるけれど、

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うっとりするような自由なかたち。

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さらに上流は空き地でした。
でも、サクシュコトニ川はしっかりと見ることができます。

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川跡として認識できる最上流部はここです。
ここで、途切れます。このさき、JRの高架の下をくぐり、すぐ隣が水源です。

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水源はここと言われます。

アイヌ語では、湧泉のことを「メム」というそうです。
豊平川扇状地の伏流水は、かつて市内の各地で湧いていました。サクシュコトニ川の水源は、この、京王プラザホテルの西隣にある、建設会社伊藤組の伊藤氏所有の家(住んではいないらしい)にあるメムです。中には入れませんが、庭は外からも見え、盛大に窪んでいることまではわかります。
るるぶのフリペには、ここについて「札幌市内にある最後の泉池があり、サクシュコトニ川の源泉が存在している」とありましたが、外から凝視しても、どうも水面は見えません・・・はてさて。

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明治期の地図にあわせて見てみると、今回たどった川跡は、この水色の流路のうち、もっとも東側にある一本です。

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前述の伊藤氏宅の隣のブロックには北大の植物園があります。北大の植物園は、東大の小石川植物園に次いで、日本で二番目に古い植物園です。その、園内にもかつてメムがあり、コトニ川水系の川が流れ出していました。先ほどの地図でいうと、一本西側の流れにあたります。

ちなみに、水系は異なりますが、札幌ドームのほうには「ラウネナイ川」「ウラウチナイ川」
などと、これまた由来が気になる川たちが今も流れています。

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最後は、エスカロップ(白エスカ)で〆ましょう。

エスカロップは根室のB級グルメですが、ずっと食べたかったもののひとつです。東京都内でも3か所ほど提供する場所を確認しましたが、どうも行けていません。札幌市内では東京よりもさらに多くの店舗が提供していると聞き、アクセスしやすい駅ビルで食べました。
・・・エスカロップの構成要素は、筍入りのバターライス、トンカツ、デミグラスソース、であるはずです。しかしこれは、筍ではなく玉ねぎのバターライス、薄切り肉を重ねたトンカツ、という変化球でした。おーい!筍のやつが食べたいぞー!!
・・・というわけで、エスカロップへの情熱は失せることなく、しかし、暗渠的にはだいぶ満足した、北海道のさんぽでありました。

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桃園川銭湯巡礼 その2 玉の湯と川名

右サイドバーの「おすすめ本」リンクに、久住昌之「昼のセント酒」を追加いたしました。そりゃあ、暗渠と直接関係あるかといったら、ない本ですが。。。この本との出会いについては、その1の記事の冒頭に書いているように、ちょっと運命的なのでした。

久住氏が、三鷹の銭湯に行く章があります。そこでは、風呂(千代の湯。充実した露天風呂があるし、生ビールやおつまみまで提供している、すんばらしい銭湯!)あがりに、すぐ近くにある古い飲食店のうち、「万平」と「ゴング」を見ています。しかし、久住氏はそこで「万平」を選ぶのです・・・いやいやいや、そこは「ゴング」だろう!!というのが、この本に対する唯一の不満です。わたしは「ゴング」の方に入り、美味いとか不味いとかではなく、「やっぱゴングだよなぁ!」と思ったのでした(ふんいき)。

さて。桃園川銭湯巡礼、その1は水源から天沼までの間の、廃銭湯および現役銭湯について書きました。その2は、ちょっと川を下って、阿佐ヶ谷が舞台です。

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阿佐ヶ谷駅北口を出て、目的地に向かいます。今日は、桃園川本流(上の写真)はスルー。

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さらに北にある、桃園川北側支流(仮)が今日のスタート地点です。北側支流(仮)と書いていましたが、ここはおそらく桃園川本流の旧流路のひとつでしょう。そう思うと、支流呼ばわりもなんだかな、というのが最近の心境です。(今年のうちに、旧流路についてはまとめたいと思っていますが、もうしばらくお待ちを・・・)

金太郎が居るし、本流の緑道よりこちらのほうが好きだったりします。この日はベンチに小鳥が居ました。一羽は、「・・・ぐぇ。・・・ぐぇ。」と(あんなのは初めて聞いた)、まるで蛙のような鳴き声だったので、わたしもたまらず蛙の真似をしながら、しばし小鳥と会話。

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その、桃園川北側支流(仮)の続きがこれ。そして、この流路沿いに富士見湯という銭湯がかつてあったようです。おそらく、右手手前のマンションかなーと。ここから富士山が見えたとは思えませんが・・・もう少し崖上からは見えたのでしょうか?

もう少し先に、K師匠曰くかつて水が湧いた場所というのがあるようなのですが、うろうろしてみても「湧きそう」感があまりわからず・・・

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もっと下ります。好きな場所のひとつ。

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この北側の流路は特に、コンクリ蓋職人さんの腕が冴えます。
直角、ゆるいカーブ、いずれもきっちりぴったりと蓋の間の処理が施されています。

さあ、もうすぐ玉の湯です。今日の目的地!

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このコンクリ蓋暗渠は、玉の湯に向かう参道なんじゃないでしょうか。

気持ちが昂ぶります。

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玉の湯
マッサージ風呂や薬湯風呂もあり、サウナもあって、なかなか広い。待合にソファもあるけど、アルコールは置いてないようでした。でも、今日はそのほうがいいのさ。風呂から上がったら、何も飲まないで次の目的地に行くのだから。

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・・・なぜ「コイン」が小さいのか。

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今来た暗渠みちを戻ります。縫い針車止め・・・ふふふ。

タオルを手に持って、ひらひらさせながら歩けばちょっとだけ乾くし、いい感じ。

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到着したのが川名です。まず、「焼鳥割烹」って謳っているのがいいです。割烹といっといてこの外観なのがさらにいいです。もう少ししたら、店先でもうもうと肉が焼かれることでしょう。

この、まだまだ明るいうちにってのがまた、いいです!

川名と言えば・・・、

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食べものの印象より、壁に並んだこのオヤジギャグの印象しかありません。・・・下ネタ多いな。

むしろ、もっともっとたくさん貼られていたと思っていたんですけど、記憶が変化しちゃったのかなあ。でも、前は貼ってあったギャグが無くなっているような気もするし。来るたびに増えてたり、張り替えてあったりしたらまた面白いんですけどねwそんなことはないようです。

さー、ビールを飲もう。

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なぜか、つきだしはフルーツ。オレンジがきたけど、向かいのテーブルにはぶどうも置いてありました。

ビール、ごくごくー!うめぇー!

焼鳥を待つ間、とりあえずと頼んだ煮込みが妙においしかったです。ごぼう、にんじん、大根、こんにゃく、ほかにもさまざまな野菜が入っていて、深~い味。

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で、焼鳥盛り合わせ。ん~、うまい。うまいうまい。
たしかメニューの中で高いのはお茶漬けやゴーヤチャンプルーなどの5~600円台のもので、基本的に100円~300円台で、コスパもなかなか良いと思います。

まだ18時にもならないうちに、席がほぼ埋まって、愛されてる感じがしました。   

今回の行程は以下。川名も玉の湯もばっちり暗渠沿いです。

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阿佐ヶ谷の地図って、ぐねぐね道がひときわ多くって、ほ~んと見惚れちゃう・・・。

銭湯排水が河川に流されていたその昔。いま歩いてきた川には、蔦の湯の、藤乃湯の、庚申湯の、富士見湯の、そして玉の湯の、排水がどぶどぶ流れていたのかもしれない・・・。冬には湯気が立っていたかもしれない。5軒分の銭湯のお湯。それっていったい、どれだけの人が使ったことになるんだろ?・・・上流から、銭湯のことばかり考えながら下ってくると、そんな排水まみれの想像もしてしまう。そしてビールの泡となる。そんな銭湯と、お酒の旅でした。

つぎは、さらに桃園川を下って、高円寺にまいります。

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暗渠沿いカフェ? その4”Outback Steakhouse”

ハテナがついてるように、”暗渠カフェ”のカテゴライズがおかしくなってきてますが。
当初は”暗渠を眺めながら珈琲でも飲める店”のはずだったんですが。なんだか、暗渠沿いにある食べ物屋さん、みたいになってきてますが・・・ごほんごほん

まぁ、行きましょう。今回は、宇田川沿いです。

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富士そば前の、盛り上がった歩道。宇田川暗渠です。こんな風に、席から暗渠が丸見えなお店があります。

それは、渋谷のアウトバックステーキハウス

ステーキっていうより、その日はハンバーグが猛烈に食べたいと思う日なのでした。肉!肉食いてぇ!しかもアメリカンなやつ!行こうぜアウトバック!

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きたぁ。香ばしさとか荒々しさとか、好み~!
ビールぐびぐび~。

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ハンバーガーも、きたぁ。
赤ワインがぶがぶ~。
それにしても、付け合せのマッシュポテト、すんごい大きくないですか・・・。バンズのサイズがおかしく見えてくるこの感じ、アメリカで味わった気がしますよ・・・。

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きた瞬間、いちばん「わぁっ!」ってなったのが、この、ブルーミン・オニオンという名の丸ごとオニオンフライ。でかい、でかい、でかい・・・。
途中まで幸せに食べましたが、後からかなりきついことに。

二人で行ったのですが食べきれず、残りは持ち帰らせてもらいました。そして翌朝も半分くらい残っているブルーミン・オニオンを食べるはめになったのですが、それもなかなかきついものがありました(もう随分前の出来事なのに、あの感覚は今もよく覚えてますw)。

暗渠を目の前に、あんだけお腹が苦しくなった記憶も珍しいです。。。

この、アウトバックの2階の窓際席に座れば、夜だってばっちりこの眺めです。

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でも実は、向かいの”富士そば”のほうが、もっと暗渠ばっちりだっていうw
この富士そばで、かつ丼で一杯などやってみるのも、いい暗渠酒かもしれませんね

後日追記:この記事に関して、富士そばにはアルコールは置いていないのでは、という話になりましたが、どうやら渋谷店ではアルコールを置き始めたようです。グッジョブ!

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梅見る暗渠、清水口支流(仮)

今回は、千川上水から杉並方面を潤すために分水されていた、六ヶ村分水(当ブログでは千川分水と表記)のひとつを辿りたいと思います。

六ヶ村分水については、すぎなみ学倶楽部に図入りで説明があります。
それを参照すると、これまで当ブログでは、切り通し口(井草川上流として紹介)、四面道口(四面道口からの田用水として紹介)、天沼口(桃園川上流、追分用水として紹介)、阿佐ヶ谷口(相澤堀として紹介)については記事にしています。今日は、残るもののうち、清水口から分水されているものについて扱おうと思います。

なお、リバーサイドさんがこの暗渠を妙正寺川の四面道支流として紹介されていますが、上記の「四面道口からの田用水」(これは四面道から南側へと流れるもの)と区別するために、ここでは「清水口支流(仮)」と呼びたいと思います。

清水口支流(仮)は、千川上水の水を引き入れ、途中であちこちの湧水を合わせ、妙正寺川に注ぐものです。

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四面道交差点の北側に、このような排水場の建物があります。
で、ここが清水口支流(仮)の始点でもあります。・・・ここから入っていこうと思う人なんて、きっとあまりいないんじゃないかな。

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・・・でもね、抜けられるんです。

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入るとすぐに、広さはそこそこあるんだけど、裏道っぽい空間。(リバーサイドさんが通られた時よりも、整備されているかも!)

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放置バイク?が何台か置いてあって。

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おおきな二本の樹木がにょっきり。

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道路をまたぎ、ここからは、少し、入ってもいい雰囲気になります。おさんぽしている方もいらっしゃいました。

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それでも、地面を見ると、ぼさぼさしています。

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少し歩くと、用水路らしく直角に曲がり、車道と合流。道路の妙に幅広い位置を走ります。あの、幅広い場所が終わるところで暗渠が曲がるわけなので、とてもわかりやすいですw

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畑が現れます。とつぜん、ずいぶん大きな畑が出てくるのですが、この畑の敷地も含め、ここらへんは井口さんという名字の家が多いです。・・・そう、井草川のときに書いた、「草分け井口氏」の子孫と思われます。ちょっと古めで立派なおうちだな、広い敷地だな、と思うときには、井口家率が高い気がします。

さて、いま歩いてきている道、住所はずっと杉並区清水です。清水、という名のとおり、以前は湧水が豊富だった地といわれます。
ちょうどいま歩いている付近は、通称「水の出るところ」とか、「清水頭」と言われていたそうです。

そして、この辺の話で、以前から気になっていたものがありました。それは、まいまいず井戸のこと。
荻窪風土記で、井伏鱒二氏が以下のように記述しています。

ところが私のうちの近所の曽我医院のそばに、昔から清水と言われていた大型の四角い古井戸がある。(そのため、この土地を清水と言ったり、清水町と言ったりした)最初、これは丘の斜面にあったまいまいず井戸の枡形の段々を削り取った残欠ではないか。そんな風に言われているそうだ。

これもじゅうぶん、興味を引く記述なんですが、これに対し、

この辺りは井戸を掘るのに苦労する所ではないので何かの思い違いであろう。

と、羽鳥氏が「杉並の川と橋」内で井伏鱒二氏をバッサリ。
このバッサリっぷりがおもしろくて、妙に気になっていた場所でした。

そして、井戸の持ち主と身近な井口氏が種あかしをしてくれています。
結論から言うと、やはり、まいまいず井戸ではない、ということです。以下、時系列にまとめると、

・もともとは低湿地(3~40坪ほど)にあった湧水池(池は半坪ほど、崖下にあり、細流が流れ出ていた)で、常時清冽な水がこんこんと湧いていた(~昭和10年頃まで)。
・湧水は田圃に使えないので、持ち主の井口氏が南側から土を運び、盛土をして畑に作り替えた。その時に、池に大きな土管を埋め込んで、湧水を小川に流した(昭和10年頃)。
・昭和23年、通りがかりの祈祷師が、「これは水の神に対する冒瀆だ」的なことを言い、確かに家には長患いの者が居たので、泉を復元することにした。そのさい、土を取り除き、土止めのために漬物石を円形に積み上げたすり鉢状の形とした。

こういった経緯で、井戸にしてはちょっと気になる形状のものが、この地に生まれたわけです。通りがかりの祈祷師っていうのがまたおもしろい!

その井戸が、こ・れ・だ。

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確かに、石で覆われた穴がそこにあります。覗き込んでみましたが、残念ながら湧いているさまは確認できませんでした。というか、水面が見えませんでした・・・。
前出の井口氏は、平成7年の清掃時に湧き出るさまを見た、というので、普段は蓋をされるなどして、水面は見えないのだろうと思います。
平成7年時点での湧水量は、「10リットル入りのバケツを満たすのに約10秒」・・・たのもしい湧きっぷりですね。いまも、こんこんと湧いているといいのですが。

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井戸があるのが、その竹林の中。すぐ下を支流が流れます。車止めが見えている道が清水口支流(仮)です。
つまり、この井戸で湧いた水は、清水口支流(仮)にすぐに流れ落ちているわけです。今こんこんと湧いているとしても、すぐに下水管に落とされているということなのでしょうか。

ここで水路は再び直角に折れ、

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また、妙にふくらんだ道路の左端をつたって北上し、右に折れます。

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ちなみに、井戸のはす向かいに井伏氏が書いていた”曽我医院”であった場所があります。70年代の住宅地図では曽我医院は現役でしたが、いまはもう閉めていらっしゃるようでした。

この周辺には他にも、川底からもくもくと水が湧いている場所がいくつかあったといわれます。このように多くの湧き水があったことから、江戸中期頃から「清水」と呼ばれる場所となったのだそうです。

水路では昭和10年頃までは藻エビが採れ、ギンヤンマが乱舞していた、とのこと・・・。

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さ、直角に曲がった後の暗渠を追いましょう。コンクリ蓋はないのですが、車止めがあるのでやっぱりわかりやすいです。この支流は親切でいいなw

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流末が近くなってきました。暗渠は二手に分かれます。

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二手に分かれるとき、目の前にパァッと梅の花が広がりました。
暗渠沿いに梅林。梅見にもいい暗渠かもしれません。季節じゃなくってスミマセン・・・

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そしてこの道のつきあたりで桃井のほうからの流れとあわさり、沓掛田圃を潤し、妙正寺川へと注ぎます。今日はいったんここまで。この続きは、柄杓屋口からの分水、つまり桃井を通る支流のときにでも。

今回の行程は以下です。

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さて、ご飯でも食べましょっか。
荻窪駅に戻って、北口でなにかレトロなものでも、と思っていたら、

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がーん!富士食堂が取り壊されている・・・!!

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荻窪の北口は、どんどん歯抜け地帯になっているのですが、つい先日休業→復活をとげた食堂が、突然消えたことには結構なショックです。

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十八番も開いていないし・・・。カレー腹だったので、タマームというお店でカレーを食べることにしました。うん、これはこれでおいしいんだけど、井之頭五郎のスベッてるときのパターン、みたいな心境です。

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・・・と思っていたら、後から路地内に富士食堂の新店舗を発見しました。ほっ。
まだ開店準備中といった感じでした。

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てづくり感あふれる地図。以前みつけた井戸は、ちゃあんとここに反映されていました!井戸は3つあったから、3つめは新しいのかなぁ?

この路地ももうすぐ失われてしまうのかな、と、お店が減ったことに気づくたびに鳥もと旧店舗の喪失感を思い出します。しかし、やきやや鳥もとのように、古き良き店舗がいったん失われても、近くでまた営業していてくれるってのは、なんだか安心します。富士食堂、オープンしたら食べに行くぞーー!

<参考文献>
井口昭英「井草のむかし」
井伏鱒二「荻窪風土記」
杉並区教育委員会「杉並の地名」
杉並区郷土博物館「杉並の川と橋」

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暗渠さんぽのルーツ

なんで、蛙が好きなんだっけ?
緑色好きが先か蛙好きが先か、忘れてしまうこともあるけれど、もともとは緑色。
中学生のときに諏訪湖のほとりで見た、東山魁夷の「緑のハイデルベルク」。
この絵に使われた、緑の持つ豊かさにやられ、そして緑色が大好きになった。
これが、蛙好きのルーツ。

なんで、暗渠が好きなんだっけ?
時々聞かれて、理由が1つではないから、うまく答えられないこともあるけれど、
もともとは地下が好きだったことによる。
小学生のときにやった、龍泉洞の研究・・・、いや、実はもっとさかのぼって、
幼少期にかこさとしの「地球」という絵本の、地下に広がる世界に目を輝かせていた。
つまりはこれが、暗渠好きのルーツのひとつ。

今回GWに帰省して、「地球」という絵本にどれだけ惹かれていたかということを、
あらためて味わったのだけれど、さらに、もっといろんなことが繋がった。

これまた、中学生のときにとても好きになった場所がある。
社会科のグループワークで行った、地元の人もよく知らないようなお寺。
今回、久しぶりにそこに行ってみることにした。

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深沢不動尊。山形市のはずれの、山奥の谷戸にある。

立札には「不動明王を祀る、近郊近在になりひびいた古い不動尊。奥の院には多数の石仏あり。八竜川の水源地。」と、ある。

今回車で行ってみて、その山道の長さに驚いた。中学生や高校生だったときのわたし・・・自転車や徒歩で、こんな山道を延々上っていたのか。

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このように、清冽な水が流れてきている。たぶん水源はすぐそこ。

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谷戸には水の流れる音だけがし、人は誰もいない。
何度来ても、そうだった。・・・誰も来ることのない場所。
石仏だけがある。

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足元に目をやると、石段の下からも水が勢いよく湧いている。

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朽ちた鳥居。

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この上に奥の院があり、そこにあった風景がもっとも好きだったのだけど、通行止になっていた。

この奥では、たくさんの石仏が崖にならび、あちこちから湧水が滴っていた。周辺はこれまでの写真のように、鮮やかな緑に覆われていて。幻想的な石仏群、湧水、緑。

いま見えるこの石段の一段一段も、実は湧水で湿っている。こんなふうに緑と湧水により演出された絶景は、ほかに見たことがないように思う。

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これは手水?
参拝客は僅かにいるのかもしれない。

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上の写真の、石段の下からもまた、だくだくと水が湧いていた。

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駐車のためか、参道にはひそかにコンクリ蓋暗渠もあった。

今回いけなかった、石仏群の写真を載せているサイトが少しだけあった。
深沢不動尊・鬼越
深沢不動尊(←こちらも奥の院に行けていないようです)

滴る水と、緑。緑色好きなわたしにとって、あのときからここは、山形で一番好きな場所のひとつになった。

たぶんこれが、湧水好きのルーツ。

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さてまた違う風景。山形市内には歴史ある石積み用水路が何本も走る。
これは御殿堰。と、桜。

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洗い場もたくさん残されている。
思い返せば通学路にも、洗い場がいくつかあった(誰ももう使ってはいないけど)。

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扇状地だからか、水路はどこも勢いよく流れている。
ほぼ直線かと思いきや、蛇行するところもある。

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家々の隙間を縫って、人知れず。

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御殿堰は鰻屋さんの横も通り過ぎる。
ここの鰻はなかなかおいしいので、よく出前で食べていたものだ。もしかしたら、この水路で鰻が採れていた時代もあったのだろうか?

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鰻屋さんの付近は寺町と呼ばれるところ。
今の町名は違うのだが、旧町名でわたしたちも呼んでいた。今でも、お寺がたくさん並んでいる。

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御殿堰は寺町を駆け抜ける。

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墓地のなか、ひときわ音が大きく聞こえる気がする。

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いま、墓地があったのは専称寺。最上義光が駒姫のために建てたという、山形では有名なお寺。

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中学生のある夏、水彩画の宿題が出て、専称寺の境内を描いたことがある。
近所の友人と二人で、この場所に何日も通って、ミンミンゼミの鳴く中、だまって絵を描いた。いや、少しは話したかもしれない、好きな異性のことなどを。
ここ、この水路の縁のあたりで絵を描いたような気がする。

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水路は、寺の中を抜けるときは開渠で大きな音をたて、道路を横断するときは暗渠となる。

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そのさき、市街地を越えて、西部の田畑のほうへ流れてゆく。

この、御殿堰と、八ヵ郷堰にはさまれた場所に、実はかつての花街がある。

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今は飲み屋街となっている。しかも結構好きな感じ。

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花小路、という。アーチが架かる。
近年はレトロ飲食街として観光地化し(ようとし)ているようだが、このアーチはだいぶ前からあるように思う。

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よくみてみると、ところどころに花街の名残があった。
祖父の時代には、芸妓さんもたくさんいたらしい。

わたしにとっての花小路は、子どもの頃の通り道でしかなく、大人になってからもあまり縁がない。
けど、いつも一緒に登下校していた友人(武井咲似)がこの花小路のなかに住んでいて、わたしは何の男気なのか、より遠方のその子を家まで送ってから帰っていた。だから、たんなる通り道とはいえ、とても愛着がある。

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今回、徘徊していたら不思議な並行する水路を見つけた。
ひとつはただの側溝だが、もうひとつは民家の小さなお社から流れ出、下方にある神社(花街のなかの)の脇に抜ける、高いところに人工的につくられた開渠だった。そしてこれは、友人宅の目と鼻の先にあったのだった。
・・・わたし、毎日のようにこれを見ていたんだなあ。けれども、水が流れていたのかいないのか、まったく記憶にない。

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さきほどの花小路のアーチの向こうには、「いっせんみせ」と呼んでいた駄菓子屋さんがあった。いまはもう廃業しているが、店の姿はそのまま。幼稚園くらいの頃から、通っていたと思う。

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いっせんみせを過ぎ、角の駐車場。
???

この日はこの近くで飲み会。

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飲み会はシーロムというタイ料理屋さんだった。
このお店で、高校のとき初めてイエローカレーを食べた。辛くて吃驚したことをよく覚えている。そのときも一緒にいた部活の友人と、「ぐるぐるグルメ」という小サークルを作り、食べ歩きをしていたのだった。ひとりで「山形食べ歩きマップ」を手描きし、市外の友人にプレゼントしたりもしていた。

・・・たぶん、わたしの食べ歩き好きは、このあたりから始まっている(もともとは家族がそうだったからなんだけど)。

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あちこちにある用水路。

わたしは、こんな風景を脇目で見ながら、暮らしていたのかもな。

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コンクリ蓋暗渠も、それ以上にあちこちにある街。

地下、暗渠、開渠、湧水、花街、食べ歩き・・・、東京で出会って燥いでいたこの風景は、実は故郷で深く付き合いのあったものたちらしい。
そんなことが、今回つながった。

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これらすべてが、このブログのルーツ。

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桃園川支流を歩く その45 高円寺南二丁目支流(仮)と、品数の多い料理店

高円寺南二丁目に、ちょっと気になる中華屋さんがあります。
その名は、真華

いえね、遠目に見ててもそんなに気になる外観じゃないんです。「あぁ、昭和だなぁ。」って思うくらいで。

でも、近寄っていくと、

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・・・ん?

ラーメンに、ライスに、コロッケ(2コ)?

あんまりこういう売り方って出会いませんよね。
右上に写っている「中華ランチ」700円も、妙に少年ゴコロをくすぐる命名ですよ(中華ランチについては、上記のリンク先にレポートがあります。なんと、「トルコライスの中華版」!?ゴクリ。)。。。五目焼きそばの上にもいろいろ乗ってまっせ。

うーん、なんなんだ、ここは・・・?メニューを凝視すると、

ハンバーグ・ギョーザ定食680円
アジフライ・ラーメン・ライス定食800円

とか。
「ラーメン&ギョーザ」とか「ラーメン&半チャーハン」とかじゃないわけです。

さんざん迷って、「真華定食(ラーメン・ハンバーグ・ライス)680円」にしました。初訪問なので、お店の名前を冠しているものを、というのが決め手の一つです。いやぁ~、ハンバーグとサラダがついてるのに680円て・・・wプククw

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ラーメンは、シンプルなしょうゆ。ナルトがうれしい。手作りだから安いのかな?と思ったハンバーグは手作りではない感じ(お新香も然り)。
連れはイカリングフライ、アジフライ、コロッケなど揚げ物もりもりの定食を食べておりましたが、冷凍もののようでした。つまり、以前書いた田むらとは対照的なわけですが、これはこれですばらしきB級グルメ店!だと思うのですよ。近所の常連さんもちらほらやってきます。

ラーメンは若干ケミカルですが、それがむしろ、ライスにバウンドさせながら食べるにあたり、いい感じ。さて、いざ、ラーメンライスをば!

ラーメンライス、食法その一!基本型、汁麺飯汁、始め!
まず、ラーメンの汁をひとすすり。ついで、麺をひとすすり。麺を口に入れたまま、飯をガバッと大きくひと口!麺と飯をいっしょに咀しゃくする。これがラーメンライスの醍醐味!

ラーメンライス食法その二!汁海苔飯麺汁!
汁をひとすすり。素早くラーメンの上の海苔をすくい取って、飯をまいて口に入れる。同時に麺をすすりこむ。海苔と麺と飯!この三者混合の味の豊かさを味わうー!

ラーメンライス食法その三、メンマ飯麺汁!
メンマをおかずにご飯を食べる!三口、四口歯ざわりを楽しんだところで、麺をすすりこむ。そして汁を大きくひとすすり。ごくーんと全部ひとのみ!

ラーメンライス、食法極意、乱汁乱麺乱飯乱汁ー!
要するにガツガツズルズルサバサバやるべし!とにかくやるべし! (美味しんぼより引用)

・・・に、加えて時々ハンバーグも食べるわけです。うは、たのしーーww

と、いきなり食事で始まりました、本日のさんぽ。
この、真華のやや東に、桃園川の支流なのではないかと思っているものがあるのです。
実は、以前同じ場所についてレポートしています。そのときは、桃園川緑道から南下し、ビルの地下に埋もれるところで追跡をやめています。が、その後、もっと上流に暗渠サインぽいものをみつけたので、補足しようというわけです。

今回は上流から。

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地形的には川跡らしくない道です。北に向かって下る以外は、平らだし道は真っ直ぐだし、谷でもありません。微塵も。
ただ、なんとなぁく、ここに段々の田んぼがあったなら、しっくりくる風景だなあと思うんです。(明治の古地図では、桃園川の周辺に田んぼはあるのですが、この位置まであったかどうかは微妙です。)

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でも、ここに流路が書いてある古地図なんてひとつもないし、正直言っていまでもここに支流があったかどうか、自信がないんです。
でもでも、なぜかこんな道沿い(お店が殆ど無い)に、唐突に染物屋さん(=暗渠サイン)が現れます。

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そしてもうひとつ、支流を思わせるものが。この隙間、他の建物どうしの隙間よりも明らかに広いんです。そして出口に雨水ます。うーん、気になる!

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でも、隙間より下は暗渠サインどころか道さえもしばしなくなります。仕方がないので、横からまわります。傾きが気になる。

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回ってゆくと、出たぁ、クリーニング屋さん。その、クリーニング屋さんの隣の未舗装の小道が支流暗渠と思っているものです。

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小道沿いには、以前はなかった空き地がありました。

前はこの場所に、廃屋がありました。ほんの最近までだと思います。だって、前回の記事=2009年には、あったのだもの。思えばとても、存在感のある廃屋だったのにな。

ちょうど、写真を撮っているときにご近所の方が出てこられたので、ここにドブがなかったかを尋ねてみました(おじさま、ありがとうございました)。すると、その方の知る限りここは道であり、昔から私道だった、ということでした。

わずかな暗渠サインを見つけてはうれしくなり、しかし古地図や地元の方の証言でかき消されてしょんぼりし・・・一喜一憂。

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そしてこの小道の出口がここ。この、桃園川緑道(杉並区内)の白いレンガのマークは支流の合流口と重なることが多いので、支流サインと呼んでいるものです。

今回はこんなふうに、川跡なのかどうか非常に微妙ですが、カウントします。高円寺南二丁目を通るので、また、ほかにこれといった支流名も思いつかない立地なので、高円寺南二丁目支流(仮)と名付けたいと思います。
上記のようにあまり自信がないので、括弧を2つつけたいような心境・・・。

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いちおう、地図にするとこんな感じ。
いつの日か、白か黒かはっきりさせたい!中華ランチを食べながら、ね。

<引用文献>
美味しんぼ29巻 小学館

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江戸川橋の用水路に排水路

牛込川や紅葉川の資料をあつめているとき、気になっていた場所がありました。
それは、蟹川の河口近くに走っているらしき下水路。水道町西側、かつ改代町東側に町境界を示す下水溝があり、神田川に注いでいたといいます。そして、その跡が今もわかるというのです。

・・・ある日、ベジタリアンの友人と江戸川橋の「ボナ!つぶつぶ」という雑穀料理の店に行ったついでに周辺を散策したら、なかなかいい場所だったので、昼間に再訪することにしました。そして、再訪の際に上述の下水路を見てみることにしました。

神田川の、石切橋のすぐ近くです。

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・・・って、なんだよ!その下水溝跡って、ボナ!つぶつぶの横なんじゃないか(写真右手が店舗です)。
えーと、言い訳をしますと、つぶつぶでご飯を食べたのは夜であり、わたしは遅刻をしていたので江戸川橋駅方面から焦りながら早足で歩いてきたのであり、この暗渠はちょうどその反対側に位置しているのでした。

ともかく。ボナ!つぶつぶのすぐ横を走っている、水道町と改代町の境(というか、最初の数メートルは新宿区と文京区の区界)である細い細い道。これが実にいい感じなのです。

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ざくざくと入っていきます。・・・塀の上に大きなクリップが見えますが、ふとんを干すためでしょうか。

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それにしてもひたすら真っ直ぐです。さらに狭まりそうな予感。

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ぎゃー!すばらしい!せまーい!!

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壁もいろいろ。ちょっとすてきな煉瓦がのぞいていたり。
しかしこの狭さ、境井田支流(仮)に迫るものがありますね。

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真っ直ぐはしばらく続きましたが、ちょっと広い道に出ます。

ああ~、もう終わっちゃった。
振り返ります。

しかしその南側にもまだ町境の直線は続きます。

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ちょっとの間広い道となって、その先の町境は直角に折れて、蛇行し始めます。

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その、折れる場所がここ。さっきまでの細くて良い雰囲気が戻ります。
この下水溝の流路に関する記述は、わずかに次のものだけ。
”流末は築地片町から改代町南側往来を横切り北方向へ直線に流下し東古川町の東境界を通り、江戸川に落ちていた”・・・うぅーん、どこから始まる流れなのかが、よくわかりません。この写真の道はたしかに改代町の南側なのですが・・・。

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その南側にある良い感じの道も間もなく終わります。
ん、右側の壁は、なんかの工場?

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いえいえ、銭湯でした。竹の湯
それが、銭湯はだいたい載っているマイ地図になぜか載っていないのです。近辺に3軒の銭湯を見つけましたが、いずれも載っていません。なんでだろう?

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竹の湯の向かいあたりで、北から支流のようなものが合流します。
鉄板蓋が少しだけ見えて、あとは植物がのっかっていて、家と家の隙間を走ってくるのですが、1ブロックいったら消えていました。
何かの排水路だったのでしょうか?この近辺は地下水位が高く、水が湧きやすいようなので、すぐそこで湧いていたのでしょうか?

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道なりに進むと、伝久寺、田中寺という寺の前をカクカクと通ります。
伝久寺内にはかつて池があり、そこを水源とした小川が北へ流れ、西に曲って蟹川に合流していたという記述もみられます。したがって、この道はその蟹川支流であるようです。その小川は下水扱いとされ、伝久寺前あたりから板や石で組まれた、実にしっかりとした下水遺構が出てきたそうです。

道としてはさっきまでの暗渠とつながっているかもしれないのだけど、こちらは西流して蟹川に向かうという・・・。蟹川の河口近辺には、何筋もの細流がみられるので、いま来た道もなんとなく蟹川につながっている、細流のひとつなのかもしれません。

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ブッw

その小川跡にはこんな看板がありました。さすが印刷業の街。付近にはたしかに印刷会社が何軒もあり、フォークリフトが何台も停まっていました。
近辺をフォークリフトが走行するすがたを想像すると、地元の田舎道をトラクターが走っているときのような、妙にほんわかした気持ちになりました。

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再び新宿区と文京区の区界に出てきたので、うろうろします。また、横から支流暗渠のようなものがやってきます。

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未舗装の道路もありました。ここも水路だったでしょうか。

いま歩いてきた道は、改代町をぐるりと囲んだ道ともいえます。このあたりは、もともと低湿地帯であり、明暦大火の後に居住者の労力により埋め立てられ、畑になった土地です。
改代町にある印刷会社が工場を再建するときに、地下からその埋立の形跡が出てきたそうです。遺構は、赤松材(比較的たくさんの)が交互に縦横に組まれ、その上に塵芥の層があり、その上層に盛土がされていたということです。

あの不自然な真っ直ぐさといい、人の手のかかったものなのでしょう。流路の全貌といい、わからないことが多いですが、ひとまず次の目的地に移ります。

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すぐ近くに地蔵通り商店街があるので、浪花家のたい焼きなどを食べつついきましょうか。この商店街、なかなかほのぼのしていて良いです。
地蔵通りの入口には地蔵があり、これは神田川があふれたときに流れ着いたものだといわれるそうです。こんなところにも、川繋がり。

次の目的地は江戸川橋とくくるには少し遠いかも。神楽坂駅のほうが近い、矢来町をめざします。矢来町の西端に、イイものがあるのです。

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その、イイものをめざして、夜に徘徊してました。例によって道に迷い、適当に歩いていたら、突然こんな地形が現れたのでした。

ぽっかりとひらけた低地に、お墓が並びます。きっと蟹川が削った谷でしょう。しかし、あまりに唐突で、想像以上に標高差があったので、「うぉー!なんだここ!!」ってバクバクしましたw

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あんなものを見てしまうと、崖下がどうなっているのか確かめたくなってしまいます(大抵そこに暗渠があるから)。

崖下に向かうべく、早稲田通りを歩いていると、暗渠好きな人だったらたぶん即座に入りたくなるタイプの道が出現します。

入ります。すると、

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その先にこれがあったのでした。
階段界ではきっと有名なはず、マンホール階段。「東京の階段」で一番好きな階段です。マンホール自体が階段になっている、味のある階段。これが見たかった(=イイもの)のだけれど、たまたま暗渠っぽいと入った道にあったので、感動もひとしおです。
・・・ただし、自分が思っていた姿とは少々違っていました。本もしくはリンク先には、古い大谷石の間から雑草の生える以前の姿が載っているのですが、今は写真の通り、すっきり整備されています。

それにしても、なんかここ、暗渠っぽいんだよなぁ。

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マンホール階段の上に出ます。崖下だけれども、谷底よりは高い位置にある、ちょっと不思議な道路があります。・・・しかも、奥は行き止まり。

ちょうど近所の方がいらして、目が合ったので、立ち話をさせていただきました。その方の仰ることには、
・この道路は、以前は酒井家の用水路であったと言われる。
・その方が住み始めた40年前には、この道は未舗装で、歩きやすいように石を置いていた。
・この道もそこに下りる階段も私有地である。
・近所(矢来町)で家を建てるときに、地下から用水路が見つかった。
・このマンホール階段は、以前から危ないので、修繕を依頼していたが叶わなかった。震災後にいよいよ歩きにくくなったので、都に言って直してもらった。
と、いうことでした。

マンホール階段が名所らしく、ときどき写真を撮りに来る人がいることもご存知でした。見た目には味があってすてきな以前の姿も、地元の方からすると使い勝手が悪いものだった、ということなのですね。

それにしても、このちょっと高くなっている道がかつて用水路だったとは。たしかに町境になっているし、あり得る気がします。

うん、満足。そろそろお昼ごはんを食べに行きましょう。

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江戸川橋の近くの、蕎麦人弁慶で昼からいっぺえ。蕎麦味噌に板わさ。それから日本酒は岩手、あさ開の「水神」。なんとも、暗渠さんぽにふさわしい酒ではないですか。

岩手であさ開に寄ったことを思い出しながら、呑みました。

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それにしてもこのお店、ツマミがけっこう充実してるんです。そして、うれしいことに「ちょこっと蕎麦」というメニューがあるのです。そうそうそうそう!それなのよ!飲んで食べたら、〆に蕎麦が欲しいけど、ときにはちょっとで良かったりもするのよ。そしてやってきたちょこっと蕎麦は、しゃっきりとしたおいしいお蕎麦でございました。
呑兵衛の気持ちをようわかっていらっしゃる、優良店でありました。

今回歩いた、江戸川橋あたりの下水溝暗渠と用水路暗渠。どちらも、古地図では水路としては描かれていませんが、町の境として、そしてその雰囲気に水路の名残をとどめており、ちょこっと歩きに相応しいかもしれません。

<参考文献>
神田川ネットワーク「神田川再発見」
伏見弘「牛込改代町とその周辺」
松本泰生「東京の階段」

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桃園川支流を歩く その44  エトアール・ヨコギール支流(仮)

久々に戻ってまいりました。杉並、そして高円寺。
今回は、桃園川に注ぐ、短い短い支流です。

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エトアール通り。高円寺駅からパルを下ってきて、右折するとあります。
入り口に、富士川食堂という有名な食堂があります。

以前、この通りのもっと奥のほうにある桃園川支流を、「エトアール通り奥の支流」として紹介していました。そこはコンクリ蓋が劇的な途切れ方をしていて、水源までの流路について、考え甲斐のある暗渠です。・・・先日、ミッシングリンクを探るさんぽをしてきましたが、それはまた別の機会に。

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エトアール通りは、昔からある味わい深いお店と、新しい古着屋さんやカフェが混在する、たのしい通りです。

見慣れた、高円寺の街並み。

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・・・?

見慣れすぎていて、これまでまったく気にも留めていなかったのですが、エトアール通り沿いにコンクリ蓋のようなものがありました。

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狭い路地。ずっとコンクリ蓋が続くように見えます。

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こういった蓋の場合、たんなる敷石で終わってしまう場合も少なくありません。ですが、この、目地の詰まり方と、それから途中にマンホールが挟まれているのを見ると、これを暗渠と思っていいのじゃないかと思います。

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(違う日に撮影)奥まで行ってみましょう。

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後半は新しいアスファルトでした。

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最後に、かわいい顔をしたパンダ顔マンホール蓋が鎮座。

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流末は桃園川に注ぎます。
すぐそこに見えるのは宝橋です。ということは、わたしの暗渠趣味の始まりの場所でもあるんですが、こんな目と鼻の先に気づかぬ支流があったとは。なんておもしろい!

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実は、エトアール通りを挟んで、反対側にも水路は続いていました。

なので、ここは、なにも考えずに”エトアール・ヨコギール支流(仮)”と呼ぼうと思います。
桃園川の、ささやかなささやかな支流です。

はい、支流のことはこれでおわりw つぎは、エトアール通りの隠れ名店をご紹介しましょう。

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エトアール通りには、魅力的な食べ物屋さんがいっぱいあります。先に触れた富士川食堂はザ・定食屋さんだし、ほかに、餃子専門の小ぶりな店構えがすてきな柳亭、外で食べようか中で食べようか迷う粉もののあまから亭、ランチビールが290円の天丼屋さん・・・。

以前の記事では「揚げ物中心定食屋さん」と表現していた、とんかつ田むらに入ります。

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そんなにインパクトのある外観ではないため、中がこんなすてきなことになっているなんて、思わないかもしれない。

で、デリシャスランチ630円!? すすすすスペシャルランチ、630円??? この内容!この値段!

まず迷います。
別な黒板にも、 「取合せ定食 650円」なんて載ってます。取合せ定食の中身は、

1番:メンチカツ、イカフライ、生姜焼、ライス、味噌汁
2番:串かつ、エビフライ、ハンバーグピカタ、ライス、味噌汁、サラダ
3番:文化サバ、野菜サラダ、味噌汁、ライス

です。はぅぅ・・・。
このほかにも、トンカツとかの通常メニューぽいものがずらり、です。

とりあえず瓶ビール。付属の小鉢はほうれん草の胡麻和えだったのですが、その味付けが自分のものととても似ていました。つまりこの店は、あえる直前にゴマをすっているし、もしかしたら作りたてかもしれない。そしてなにより、他の料理も自分の好みの味付けである可能性が高い!かも。

なんて、ワクワクしてきます。

さんざん迷って、デリシャスランチにしました。

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どーん!!  デリシャス!!

少々待ちますが、それはすべて手作りしているからだとわかります。
ちょこっと添えられた白菜の漬物も、手作りの味がしました。
ぷりぷりのエビフライ。しっとりとしたメンチカツ。クリームが家庭的な味のカニコロッケ。歯ごたえのある鶏肉で思ったより食べでのあるチキンピカタ。つやつやとしたデミグラスソース。どれも美味しく、そしてとてもお腹いっぱいになりました。

とてもおすすめなお店ですが、さんぽと組み合わせる場合、この短いエトアール・ヨコギール支流(仮)だけじゃカロリーを相殺できなさそうですねww

エトアール・ヨコギール支流(仮)は、おそらく桃園川が整備された後の、そして高円寺が宅地化された後の、近くの施設の排水路じゃないかなと思います。こんな、商店街のすきまのちいさな暗渠。もしかしたら、あなたの街にもあったりするかもしれません。

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藍染川桜酒マラソン

去年、花見を兼ねて行おうと思っていた暗渠酒マラソン。
先日、無事に開催することができました。

久しぶりのマラソン記事なので、暗渠酒マラソンの趣旨について再掲しておきます。初回である竜閑川焼酎マラソンでは、以下のように決めていました。

企画コンセプト:(竜閑川の)埋立てられた掘割沿いを歩きながら、飲み屋を飲み歩く。遺構が少ないが飲み屋は建っている、下町系暗渠に対する新しい味わい方の提案。

さらに、細かいルールとして、
・川沿いを逸れずに歩きながら、適当な飲み屋を何軒かはしごする。
・メイン走者は掲げた種類の酒を1杯は必ず飲むこととし、伴走者はそれに限らない。
・つまみは自由。

を、掲げています。

これまで、焼酎縛りの竜閑川焼酎マラソン、ビール縛りの忍川ビールマラソン、を開催しました。そして、藍染川桜酒マラソンは前2回とは異なり、酒の種類で縛らずに「桜を見ながらの酒」、また、青空宴会も含む、という特別ルールとすることにしました。
※後半部では居酒屋に何軒も入ることを考えると、人数は少なめに抑える必要があったので、広く周知できませんでした。

・・・去年、花見どころではなかった春を過ごし、今年、まだ花見どころではない人もいらっしゃるだろう中、いろいろな思いを抱えながら、花見をする人はしたのだろうと思います。
わたしもいろんなことを思いつつも、それなりに準備をし、楽しみに臨みました。

では、マラソンレポートに入りたいと思います。まずは、巣鴨駅に集合。そこから、マラソンスタートです!

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源流である染井霊園を目指します。この辺の隠れ名所の一つだと思っている縄ばしご屋さんを通り過ぎ、霊園入口にあった「禁糞」という張り紙に衝撃を受け、のら猫に気を取られ・・・(こんな風になんだかんだと時間を取られちゃうのです)、霊園に入っていきます。

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染井霊園の桜は、残念ながらほぼ散っていました。なので、上を見上げても桜色ではありませんでしたが、そのかわり、地面は桜色の絨毯でした。歩いていると、はらり、はらりと桜が落ちてきて、それもまたよきかな。
ここ(目の前の窪地)に長池があり、藍染川の水源となっていた、といわれます。

と、いっても、

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藍染川の谷はこんな形をしています。(google earthさんありがとうございます。)古石神井川の谷を間借りするような形なので、源流部が所謂源流部らしいバランスをしていません。

長池は、お隣にある中央卸売市場(巣鴨御薬園跡)の土地までまたがる、大きなものだったようです。霊園には別な場所に丸池もあるという情報もありましたが、今回は突き止められず。

長池のほかにも、このあたりにはかつて至る所に湧水口があり、また、大根の洗い場もところどころにあったということです。今回の地図には載っていませんが、もう少し北にも谷がいくつかあって、川はそれらの水も集めて流れていました。

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長池から流れ出す川跡に沿って、歩き始めます。

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少し行くと、慈眼寺のところに不染橋の親柱(このまえ谷戸ラブさんが書かれてました)。わたしはマラソンのロケハンに来た1年前、この前を思いっきり通っているのに、見過ごしていました(がくーっ)。そしてその奥にある家のあたりが、少しだけ低くなっています。そこに、かつて釣堀藍染園という釣堀があったといわれます。
さっそく盛りだくさんな最上流部。このあたりは、「池ノ尻」という地名だった時代があるようです。

第一回目の給水にします。
給水ポイント(①)は、かつての海軍火薬製造所→外語大跡地、そして藍染川に西から迫る谷戸(の、公園)。そこで、レジャーシートをひろげ、チャーシューや玉子焼きやおにぎりと、日本酒をやっちゃいます。まだ午前中、11時にもなってないくらい(悦)。(なんと、給水中の写真を撮っていない・・・。)

ささっと飲み食いをしたら、大人な感じでさっと移動。支流が通っていたり、植木屋さんの伊藤伊兵衛宅の池があった場所などもありましたが割愛します。

本流に沿って下っていきます。

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やがて染井銀座商店街と流路が重なります(商店街の北に区境があり、そちらも流路のようですが)。
染井銀座商店街は、マンホールが桜型になっているすてきな商店街です。
さっきからわたしは藍染川と連呼していますが、場所によって呼ばれ方が違います。このあたり、即ち上流部では谷戸川と呼ばれていたようです(そして田端あたりまでは谷田川がとても優勢)。でも、ここでは用語の統一ってことで藍染川と呼ばせてください・・・

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染井銀座商店街は、猫のたくさんいる場所でした。この猫は犬と向き合ってくつろいでいたのだけど、シャッターチャンスをのがした!犬、逃げた!

さてそろそろ、2回目の給水です。給水ポイントは染井コミュニティ広場(②)。そこはすばらしき猫公園で、ろっちさんもレポートされていました。人なれしているし、とてもかわいい猫さんたち(またも写真を撮っていなかったので、ろっちさんの記事をご覧ください)。
桜もありつつ。缶ビールをプシュッ!と開けて、しばし猫さんとご歓談いたしました。・・・またも、給水中の写真がない・・・orz
ここではそんなに食事をしなかったけれど、猫の引力でなかなか長居した気がします。

で、伊藤つつじ園(崖下湧水をくみ上げた人工池)、染井跡(井戸跡、現染井稲荷)といった湧水ポイントはすっとばし、一行は大きい湧水池があったらしい林武平邸跡地を目指して、本流から逸れます。

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商店街から、豊島区と北区の区界に沿って南下します。その道は狭く未整備で、池からの流れはここを通っていたのかな、と思わせるような雰囲気が漂っていました。入口は魚屋さんで、バケツに入ったどじょうを「むかしはこの川で採れてたかな」なんて眺めたり。

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そして辿り着いた池跡は、たぶんだいたいここらへん。
左手に崖、そして道は中央のみ緩やかに凹んでいて非常に興奮する眺めでした。汽船会社で富を築いた林家の敷地はとても広く、庭内にはテニスコートと大きな湧水池があったそうです。

もうひとつ、目指した支流がありました。それは、駒込~西ヶ原にあったといわれる小川です。林家の池跡から東に回って、駒込3-6と3-8の間にあったという水源を目指して歩いていると・・・、

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突如現れる絶景。支流脇にある、妙義神社の桜のうつくしいこと・・・!
神社のロケーション自体、みごとな岬っぷりで、それだけでもため息が出るほどで・・・。この美しさはこの写真では伝わりませんねぇ。とにかく、藍染川散策をするならば、妙義神社は入れたほうがいい場所です、ホント。

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水源は上述の場所で、そのなだらかな谷頭で湧いた水と、津藩藤堂家下屋敷の下水とをあわせ、妙義神社の下を通り、このような狭い、いい谷を通って霜降橋の辺りで藍染川に注いでいたようです。妙義支流(仮)とでも呼びたいところです。

下流には亀の湯というどっしりとした銭湯があり(以前は妙義湯という名だったという)、その脇も小川は通っていたようです。ほかにもよく見ると、お店の名前などに「妙義」が残っていました。

合流地点である霜降橋霜降銀座のゆるキャラ、しーちゃんもお忘れなく!ちなみに霜降銀座商店街のページは川の情報も多くて秀逸)には、肉のホンダがあり揚げ物がいろいろあります。そこで、次の揚げ物を仕込み、次なる給水ポイントへ。
つぎのポイントは、実は流路を若干逸れてしまう(マラソン的にはダメなこと)んですが、んーーー、まああげ堀とかあったかもしれないしいっか!と、無理やり採用された、東中里公園(③)。またもレジャーシートを敷き、食べつつ飲みつつ桜を愛でます。   Σまた、給水中の写真を撮っていない!

で、青空宴会はこれが最後なので、ひととおり飲み食べきり、また移動します。

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つぎなる名所、中里用水ガードを通過。
「用水ガード!!?」と、暗渠のひとびとを盛り上がらせる、ニクい場所。

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しかも、ガード脇にはこのような埋め込まれた橋があります。以前HONDAさんが教えてくださって、ずっと見たかったものでした。
今みたいにガードされる前の、もう少しくだけた風景をHONDAさんが記事にしています

・・・ここまでの行程をいったん地図に示します。(yahooさんありがとうございます。)

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木戸邸の池と書かれたものにまだ触れていませんでしたが、ここも割愛してしまいました。旧木戸孝允別邸であり、湧水で池を作り、下水を藍染川に流していたそうです。その湧水池は、木戸邸の敷地が分割された際に3つに分かれ、うち一つにはわずかに湧いていたようですが、近年マンションが建てられてしまいました。
また、左岸にある古河庭園の池も、藍染川の水源のひとつといわれます。

また、駒込には三業地(神明三業地)がありました(往時は400人の芸妓さんが居たものの、戦争を通し衰退)が、若干当時の建物が残っていたらしいんですが、もったいないけどスルー。谷田川通りを下ります。

交差点でもたもたしていたら、昔のことを語ってくれるおじさんがいました。その方は水源も流末も把握していて、そして、はっきりと「谷田川」と仰っていました。「藍染川じゃない」、と。この川のことを藍染川と呼ぶのはもっと下流のほうであり、「ここではそうは呼ばない」という意思が強く伝わってきた瞬間でした。

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この近辺(田端)には田んぼが多く、洗い場が5つほどもあったといいます。それから、近デジだと細かい水路があちこちにあったりします。
谷田川通り、というダイレクトな名前の立派な通りもありますが、こんなふうな狭い道の方が実は区境であり、こちらも流路であったようです。

しばし、酒も飲まずに区界を歩き進める一行。

・・・それにしても、時々「あっちに地蔵があったから」とか、「いい看板建築があったから」とかの理由で、あさっての方向に人が消えては、小走りで戻ってくるのが面白かったですww

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動坂と交わる地点にはかつて谷田橋という橋が架けられており、それが田端八幡神社(けっこう上)にあるので、見に行きました。ここもHONDAさんが記事にされていますね。

もっと南に行くと、動坂遺跡という太古の湧水点があったのですが、そして谷戸ラブさんお勧めのパン屋さんもあったのですが、断腸の思いでスルー。

さらに下流へ行くとやがて、北区、文京区、荒川区、台東区の区界がぞくぞく現れる場所があって、さらに下ると、藍染川の氾濫をおさえるために大正2年につくられた、谷田川排水路の分岐点があります。”谷田川”排水路、と書かれた文献のほうが多い気がするんですが、その暗渠上につけられた名は”藍染川”通り(&藍染川西通り)・・・荒川区になってくると、藍染川って呼んでも良くなるということなんでしょうか。

その後の流路も、本流は文京区と台東区の境を、そして支流が台東区と荒川区の境を流れます。

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それが、ここ。藍染川の別称として「境川(区界なので)」というのがあることを、実感する瞬間です。すぐ西にはよみせ通りが通っているのですが、この細い支流のほうをあえて行きました。

このあたりは低湿地で、本流までの湿地帯が蛍沢と呼ばれていたようです。その名の通り、蛍の名所とされ、藍染川の別称として蛍川というものもあります。また、シジミ川とも呼ばれるほど、シジミが採れていたそうです。

うろうろしていたら、大使館というすばらしく気になるお店がありました。ここで給水できたら良かったけど、残念ながら休憩中。「大統領」があると思えば「質屋おぢさん」もあるし、ここらへんはすごいね。

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蛍沢からの支流を追っていくと、やがて区界の道ではなくなり、カーブを描いて本流に合流してゆきます。その、流末部分には防災倉庫があったり、この写真のようなあやしい空間に木の蓋?みたいなものがあったり、

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こんなふうな余った隙間となり、暗渠らしさがグッと上昇します。
この写真が合流点。もう少し下流に行くと、琵琶橋が架かります。
琵琶橋の架かる道の右岸側には団子坂があり、坂道には細い溝があり、きれいな水が流れて藍染川に注いでいたといいます。坂上の銭湯が捨て湯を流し、あたたかいので、子どもたちが長靴で溝に浸かっていたりしたそうです。

・・・ずいぶんながいこと、酒を飲んでいない気がします。疲れてきたのでよみせ通り沿いにある焼鳥屋Kに飛び込み(④)、喉を潤しました。焼鳥うまかったな、ここ。 ふぅ、写真(略

Kを出ると、すてきな屋根の工場。かつて、リボン工場だったとき、ここから色水が藍染川に排水されていたといいます。

しばし左岸ばかり見てきましたが、右岸にも湧水点があります。
千駄木2~3丁目には崖下の民家が湧水をためた池をつくっている、という記述を2つほどの文献で目にし、非常に見てみたかったですが現存しない可能性もあり、時間もないので割愛。

須藤公園は松平備後守の屋敷跡で、いまも立派な公園です。戦前までは湧水だけで滝ができていたそうです。いまでも湧きそうな地形ですが。

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そしてそれよりも気になっちゃったのが、須藤公園脇のあやしい埋め跡。
2個ありました。なんだったんでしょねー?これは。
今見返してみると、縁に水抜きが集中していて、それもなんだか思わせぶり。

だんだん急ぎ足になってきます。元根津(古い根津神社の社地)、海蔵寺といった、過去の湧水ポイントは時間がないのですっとばし、汐見小裏の崖をてくてく歩きます。この崖がまた立派で、大正までは豊富に湧水が滴り、”竹筒を崖に刺すだけで良質の飲料水が得られ、水道不要の地”とまでいわれたそうです。

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次は、太田ヶ原とも言われるやや高いところにある湧水池。太田道灌の子孫、太田備中守の屋敷跡であり、大きな池が2つあったようです。その跡は、どうなっているか知らなかったのですが、今はこのようなワイルドな公園として、崖下の池の雰囲気が残っていました!これうれしいなー。
ここから、藍染川に向かってほぼまっすぐに支流が流れ、そこにはウナギが棲んでいて、採って食べたという話まで残っています。

その支流に沿って下り、へび道(へび道の記事はこちら)をくねくね歩いて根津に到着します。

Aizomemap2


ここまでの行程は、こんな感じです。その後もみどころはあったのですが、以下の要領ですっとばしてしまいました・・・。

時間の都合で、まさかの根津神社の池たちを割愛。それから、根津には明治21年に洲崎に移転するまで、立派な遊郭がありましたが、それにはほとんど触れず・・・。
ひとつ前の記事で書いた、駒込邸内の2つの谷戸のうち、ひとつは藍染川の支谷で、それをせきとめて池にしていた場所がその後東大の野球場になったのですが、スルー。
藍染川の聴き取りをした文献には大概出てくる、「バンズイ(金魚屋で、藍染川氾濫時に金魚が溢れ、近隣の子どもが喜んで掬ったという)」跡地は横目で確認程度。
江戸期に藍染川の水はけを良くするために旗本5人で掘ったという五人堀についてもほとんどスルーで、むしろ根津の路地を練り歩いて孤独のグルメに出ていた「すみれ」を見つけてはしゃいだりしました。すみれで呑めたらすごく素敵でしたが、若干席が足らずに、「(おじさんの)膝の上なら空いてるよ」などと仰る先客の膝の上に同行者の男性が座る図を想像して「ウーン」と思ったりしました。

もう外は暗い。
急ぎ足で不忍池へ向かい、忍川ビールマラソンのときの集合地点で一本締めをしました。これで、2回分のマラソンがつながって、ちょっとうれしかったな。

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・・・で、打ち上げは上野の、肉の大山です。最後の給水のみ、写真が撮れていました(涙)。

大山は、とにかく秀逸な店。混んでいたので、入口の立ち飲みエリアで、やみつきメンチ(100円)をパクつきながらハイボールを飲みます。うまいんだこれが!

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そして中に入って、また飲みます。
今回初挑戦したのが、プレミアムメガ純ハイ。・・・でっか!
470円ほどで、めっちゃでかいです。持つだけで腱鞘炎になりそう。ってか重いんで持たないで呑んでました。そして濃いww飲んでも飲んでも減らない、果てしない!  最近出ていたジャン酎欲がちょっとおさまりましたw

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そして、大山ステーキ。この肉肉しいかんじと、ソースがうまいのよ。われわれ、3回頼んじゃったのよ。それから本日2回目のコロッケも食べなきゃね・・・カレーコロッケもうまいんだね。。

と、まあ、夜は更けていったのでした。

反省点としては、酒マラソンのわりに酒を飲んだくれなかったこと。
よく考えてみたら、酒マラソンはもともと、あまり遺構のない暗渠の楽しみ方として考えたものだったのでした。竜閑川や忍川のように、あまり凹凸のない、どちらかというとオフィス街でやると、ある程度酒に集中できるわけです。それが、藍染川のように遺構も支流もいろいろ楽しめてしまうところだと、寄り道しまくっちゃうわけですよ。。
なので、なんだか中途半端な感じになっちゃったなー、行程が長くなって疲れた人もいたかなー、なんて、反省しております。

この反省を次につなげ、またそのうちに企画したいと思います。ご参加のみなさま、グダグダ企画におつきあいくださり、ありがとうございました!

4/25 HONDAさんのご指摘により、陰影図内の長池の位置、および、第3給水ポイントの記述について訂正しました。

<参考文献>
上村敏彦 「東京花街・粋な街」
菅原健二 「川の地図辞典」
清水龍光 「水」
原祐一 「教育学部総合研究棟地点・インテリジェント・モデリング・ラボラトリー地点の成果 第一節 『向陵彌生町舊水戸邸繪面図』の解読と描かれた施設の検討」 東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書10
森まゆみ 「路地の匂い、町の音」
横山恵美 「豊島区の湧き水をたずねて」 豊島区郷土資料館研究紀要第11号

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三四郎池支流(仮)の流れる先は

昨年、三四郎池から流れ出す小川のことを書きました。
その、小川が注ぐ先のことも、少しだけ。その水路は明治の古地図に載っていたので、在ったことはわかったけれど、それ以上はわからぬままでした。

その後、たまたまスリバチ学会の飲み会で、この地のことにお詳しい考古学の原さんという方にお会いし、お話をうかがうことが出来ました。そして原さんの研究から、いくつか新たなことを知りました。

その情報も含めて、今回は三四郎池から流れ出した水の行く末について、ご紹介したいと思います。

いきなりですが、流末から遡ることにします。
その流れはおそらく、不忍池に注いでいたはずです(但し、時期によっては不忍池の外側を巡る下水路に注いでいたかもしれない)。

Kura1

となると、スタートはここ(河口)らへんです。
写真の奥に見えるのが不忍池。藍染川が注ぎこみ、忍川が流れ出す池です。今は両方の川とも、暗渠になっていますが・・・。

後述しますが、不忍池も埋められて以前と違う形になっているし、池の手前には大きなマンションやビルがぼんぼん建っていて、正直言って河口部の流路はよくわかりません。

Kura2

で、最初はそんなふうにいい加減にスタートして、遡ってゆくとします。
早速道がくねっています。

まず最初に出会うのは境稲荷という神社です。境稲荷という名は、忍が岡(上野台地)と向が岡(本郷台地=忍が岡の向かいにあったことによる)の境に鎮座することからついているそうです。
写真左手の赤い柵が、境稲荷のもの。

そしてこの境稲荷には、立派な井戸があるのです。

Kura3

本殿裏にあり、とても古くからの湧水であると言われます。江戸の地誌にも「弁慶鏡ヶ井」(弁慶が見つけたかららしい)とあり、名水として知られていたようです。

説明板によれば、この井戸は一時埋め戻されたのですが、昭和15年に再び堀り出し、東京大空襲で多くの被災者を飢渇から救ったのだそうです。

Kura4

そして、井戸のすぐ脇には東大の門があります。池之端門。
井戸とは至近距離ですが、いったいどのくらいの学生が弁慶の井戸のことを知っているのでしょうね・・・。

そして、この池之端門にも、水路の名残があります。

Kura5

橋の遺構です。

今回追っている水路は、つまり、三四郎池から流れ出た水は、この下をさらさらと流れていたことでしょう・・・。

Kura6

さらに遡ります。右岸を見上げれば、この景色。池之端門から入ってゆく長いカーブの上り坂があるのですが(この写真で車が通っているところ)、そんな急峻な崖の下に水路は流れます。

原さんによれば、この擁壁の内部にあったのは富山藩であり、明治期にここに射的場(後述)および道路がつくられたことにより、もともとの土手が削られて今の形に改変されたようです(「東京都下水道局 台東区池之端一、二丁目付近再構築 その2 工事に伴う発掘調査概要報告」より)。

ちなみに、今回の水路は、暗闇坂に沿い、東京大学の敷地の脇をぐるりと流れ続けます。

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通り沿いに氷室がありました。
暗渠サインのひとつと思っているものです。この道に水路が描かれた古地図を発見する前は、こういった暗渠サインを見つけては、ガッツポーズを(心の中で)したものです。

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そして氷室のもう少し先には、このような違和感空間があります。道が突如広くなり、いや、広くなりすぎ、空間が余っているのです。

先に行って振り返ってみると、こうです。

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妙に余っている土地に、車が何台も止められています。
公衆トイレが悠々と建っています。
たしかこの場所に、連続麻雀杯マンホール蓋もあったはずなのですが、今日はどれかの車の下に眠っているのでしょうか。

・・・暗渠を歩いていると、ときどき、このように妙に余った空間に出会うことがあります。桃園川の島田軒牧場支流(仮)では、こんなふうに。神田川支流の牛込川では、こんなふうで、ここにはかつて橋が架かっていたことが近代デジタルライブラリーでわかりました。

ただし、そういう余った空間をすべて水路に結び付けるべからず。三土さんによると、本郷にある三角地帯は、神社の参道の名残なのだそうです。あの三角地帯も、真ん中に車が止まっていたりして、今回のものと雰囲気が似ています。余談ですが、そこを最近歩いてみたら、三土さんが取り上げていた「宮前青果店」は、取り壊されてぽっかりと空き地になっちゃっていました・・・。

はてさて、今回の空間は、どんな事情で形成されたものなのでしょうか?

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疑問は置いておいて、とりあえずもう少し遡っていきます。

上段の擁壁、チーズドッグみたいだな・・・(と、このタイプの擁壁を見るといつもお腹がすく)。

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石垣には、埋まりかけた排水溝の名残を2つほど見ることも出来ます。原さんによれば、この排水溝は江戸のものではないとのこと・・・明治のものなのでしょうか。いずれにせよ、一時期はキャンパス内の排水がここから出て、三四郎池支流(仮)の水と合わさっていたのですね。

Kura12

やがて、弥生門に到着します。
三四郎支流(仮)が流れ出てくる場所であり、今きた水路との合流点にあたるはずの場所。ただし、前回の記事の後に得た資料によれば、実際の合流点は厳密にはここよりももう少し東(写真でいうとやや左)であったようです。残念ながら、現在の地形からの推測は難しいように思います。

三四郎池支流(仮)の記事のときには、目の前の工事現場の壁に、発掘された遺跡のかずかずが写真&説明付で展示されていましたが、今はもうありません。工学部三号館の工事も、少しずつ進んでいます。

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弥生門を過ぎると、その上は 言問通りまで道(暗闇坂)が続きます。

Kuramap_2 

明治の古地図を見ると、水路は弥生門より上にも(地図の緑色点線部)あるようだったのですが、水源が不明です。
江戸の古地図では、今きた水路が三四郎池の排水のための水路(=水色の点線部)として描かれており、緑色部分の水路は存在しません。しかし、明治期には側溝がある・・・後述しますが、明治期には黄緑枠の部分に射的場ができるので、その排水路ととることもできますが、それでは最上流部の説明がつきません。最上流部は、降雨時にのみ水路として機能する、普段は乾いた排水溝だったのでしょうか・・・?

ここで、水路を遡るのはひとまず中断して、少し腹ごしらえをします。

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今遡ってきた川跡沿いには、嬉しいことにカフェがあります。まさしく暗渠カフェ。
竹久夢二美術館の併設カフェ、港やです。

「野菜の甘みぎっしりカレー」を食べました。鶏肉のうまみ、それから野菜の甘みがしっかりとして、新妻のようなかわいらしさを感じる一皿でした。
実をいうとこのとき、もう15時くらいになっていて、軽食は済ませてあったしカレーを食べる必要は全くなかったのですが、暗渠カフェを見つけてしまったので食べざるを得ませんでした。そして美味しくいただきました!

・・・さんぽはもう少し続くのです。今歩いていた場所から少し東に行くと、東京大学の浅野キャンパスがあります。
冒頭に書いた新しい情報というのは、この浅野キャンパスにかつて池があったというものでした。

浅野キャンパスは、弥生キャンパス・本郷キャンパスの一部とともに、水戸藩駒込邸(1693~1869年)跡です。主に中屋敷として機能していたようです。

「向ヶ岡弥生町の研究」によれば、この、駒込邸の庭園は、忍ケ岡に植えられた桃と、不忍池の借景によるみごとな眺望であったようです。現在、不忍池をこの地点から見ることはできません。それは、ビルが建った影響もあれば、不忍池が埋め立てられたことにもよります。明治期に、不忍池に競馬場を作る(ブラタモリでやってましたね)さいに、池の北側を埋めた・・・つまり、その前は不忍池はもっと大きく、駒込邸の庭先から見えるほどであったというわけです。

そして「江戸の下水道を探る 享保・明和・安永の古文書から」によれば、1747年に、”雨水や下水が不忍池に流れ込み、その土砂などで不忍池がだいぶ埋まっている”から”いっそ埋め立てて町にして欲しい”という提案が町奉行から老中に出されています。そして出来たのが下谷池之端町。つまり、その以前は不忍池はますます駒込邸の近くにあったと推測されます。

・・・しかし、駒込邸内の庭園にも池があったのです。「向陵彌生町舊水戸邸繪図面の解読と描かれた施設の検討」によれば、不忍池を見下ろす位置に、なかなか立派な池があったことが明らかになっています。

Asano

原さんの「農学部生命科学総合研究棟地点の成果」内、Ⅳ-7図の一部を転載します。図の右側に立派な池が描かれています。3つの橋が架けられた、1つの長い池です。傍らに井戸もあったようです。
ちなみに、図の下側の水色の帯は、今回遡ってきた水路で、水戸藩駒込邸と加賀藩の地境に沿っていたことがわかります。

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いまの地図に合わせてみます。浅野キャンパスの地図はこんな感じ。そして、池があったらしい場所に、ものすごく雑ですが(笑)水色で描いててみました。

さあ、実際に、池があった場所に行ってみましょう。しずかなしずかな、浅野キャンパス内に入ってゆきます。

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情報基盤センターを過ぎ、池のあった方向に向かって歩きます。ほんとだ、低くなってます。今わたしが立っているあたりには、江戸期には庭園を臨む建物があり、目の前に美しい池のある整備された日本庭園が広がっていたはず・・・。

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ここらへんが、橋の架かる池があったあたりです。職員住宅が並んでいます。
歩いていてふしぎだなと思うのが、ここはたしかに邸内のほかの場所よりは低いけれど、写真左手には実はもっと低い土地があり、お寺が並んでいること。池があるとしたら、そのお寺の位置にあるほうが感覚としては自然です。

・・・しかし、原さんのお話によると、お寺と職員住宅の段差はほぼ昔のままであり、崖上であるこの辺も、水が湧きやすい場所であるらしいです。

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ここには、長い池のうち、もっとも大きく広がった部分があったはずです。
つまりここも駒込邸の一部でしたが、この場所は現在、大学敷地に挟まれた住宅地です。

この、本郷キャンパスと浅野キャンパスの間にある住宅地は、かつて射的場であったことで知られています。射的場は、明治9年に警視局によって建設され始め、明治21年に大森(現大森テニスクラブ地図で見ると形がそっくり!w)に移転するまで存在しました。その後は埋め立てられ、宅地化されました。今ではむしろ射的場跡のほうが土地が盛り上がっています。

この射的場をつくるにあたり、江戸期までは自然な谷戸の形をしていた土地を、改変したようです。駒込邸内にはもともと北と南に2つの谷戸がありました。南側の谷戸、つまりスリバチ状の場所を選んで、四方に土手を作り、さらなる谷地形をつくることで、両側の台地を自然の防護壁としたそうです。・・・ここで思い出したのが、マセ口川源流部にある深い谷にあったとされる射撃場。そうか、安全のために谷戸に射撃場をつくる例は、わりとあることなのか。笄川、馬尿川(←あまり谷が深くなさそうだけど)にも。岩手でも見かけました。

ちなみに、射場中央には長方形の池があり、古地図を見ると射場の半分以上を占める大きな池であったことがうかがえます。”射場の掘削にて発生した湧水や雨水が発射場に及ぶのを防いでいた”のではないかと原さんは考察しています。
この射的場には弾薬庫や食堂もあったそうです。食堂・・・わたしは先ほどカレーを食べましたが、カレーを提供するにはまだ早い時代でしょうか。ここでは何が食べられていたのでしょうね?

話を戻すと、射的場あった時も、ここには池があったわけですが、駒込邸時代の池はそれよりやや南東にずれています。原さん曰く、この場所にまだ「(駒込邸の)池が残っているはず」とのことだったので、非常に喜んで、「行ってきます!」と返したところ、「池は埋め立てられて、遺跡として残っている可能性が高い」という意味で仰っていたもようでした。。。いつか、この地下で発掘が行われ、池跡がでてきたら、どんなにか素敵でしょう。

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さて、その射的場跡住宅地の端っこから、前述の違和感空間へと伸びる道があります。違和感空間の写真を再掲します。

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実は、この空間は、駒込邸の切手御門(奥の家がある場所)の前であり(前掲の原さんの図にもあります)、水戸殿の表門通りだったのでした。その名残が、いまも区画に残っているのかもしれません。
しかし、もうひとつ、ここがこんなに広い理由を、水関係からも考えられるような気がしています。ここは、三四郎池支流(仮)と、駒込邸の泉水の合流地点だった可能性もあると思うのです。また、前掲のⅣ-7図のように、邸内の雨水の半分は切手御門に流れてきます。スムーズな排水、という意味でも、ある程度この場所に広さが要ったのではないでしょうか?

たんに、坂を上ったり大学内を歩いたりしただけの今回のさんぽですが、江戸のひとびと、明治のひとびとが随分と手を加え続けた土地、そして、池や川がつくられ、埋められていった土地であることがわかりました。そんな歴史を足の裏に感じながら、たんなる坂道を上っていくのも、またおもしろいかな、と思います。

・・・この記事は、本当は3月中に掲載しようと目論んでいたものでした(時間が足りず、かないませんでした)。この記事の周辺に、わたしが長らくお世話になった本務先の職場があり、そこもこの3月に退職したためです。そこで出会った、たくさんの人たちへの感謝の心をこめて、わたしを育て見守ってくれた、この地に対する愛情をこめて、この記事を書きました。3月はなんだか、感謝してばかりでしたが、ふたたび感謝したいと思います。
今回はそんな、個人的な思いのとっぷり詰まった暗渠さんぽでした。

後日追記:本記事は、2011年12月に開催された、スリバチ・フィールドワーク(原さんが解説員)と重複する部分があると思われます。
ここ(「長方形のスリバチ」「水戸藩主も眺めた丘」)も併せて参考になさってください。

<引用・参考文献>

原祐一  2007 「東京大学本郷構内の遺跡 農学部生命科学総合研究棟地点発掘調査報告 第Ⅳ章 農学部生命科学総合研究棟地点の成果」 東京大学構内遺跡調査研究年報7
原祐一 2009  「東京都下水道局 台東区池之端一、二丁目付近再構築 その2 工事に伴う発掘調査概要報告」
原祐一 2009  「向ヶ岡弥生町の研究 -向ヶ岡弥生町の歴史と東京大学浅野地区の発掘調査の結果- 徳川斉昭と水戸藩駒込邸」 東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書9
原祐一 2011  「教育学部総合研究棟地点・インテリジェント・モデリング・ラボラトリー地点の成果 第一節 『向陵彌生町舊水戸邸繪面図』の解読と描かれた施設の検討」 東京大学埋蔵文化財調査室発掘調査報告書10
柳下重雄 2005 「江戸の下水道を探る 享保・明和・安永の古文書から」

なお、原さんの研究成果の一部は、こちらで見ることができます。
東京大学埋蔵文化財調査室の刊行物

原さん、たくさんのことを教えてくださって、ありがとうございました。記して感謝します。

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