散歩の達人「中野・高円寺・阿佐ヶ谷」号に寄稿しました

6月21日に発売された散歩の達人に、暗渠(桃園川)で寄稿しました。
高山氏との共同執筆です。

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偶々、お話をいただいたとき、ここは支流がカオスだからと、「混沌」をテーマとした桃園川の該当エリア記事を書こうと思って。
そうしたら今回の特集ページをめくると、最初の方でも「混沌」がキーワードで。
まぁ、そうだよな。と思いつつ、「暗渠から見たこのエリア」が、街の特徴と重なっていることがやはりおもしろい。

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そして偶然か意図的なのか、暗渠のページが、目次の一覧からはどこにあるかよくわからない(暗渠的)・・・。
大好きな雑誌に書くことができ、非常に幸せでした。
ドバドバっと迫り来る物量、という、いまの散達からするとやや異色のページに仕上がっていることと思います。暗渠を良く知らない方が、「うわっ!」と少しでも気にしてくださったらうれしいです。

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板橋カレーラーメン紀行

「板橋マニア」という本が出ました。

Itabasi

地形、団地、境界、商店街、グルメ、ものづくり・・・各領域の魅力が詰まった一冊です。わたしも暗渠の項目で書かせていただきました。

お話をいただいたとき、ともに依頼を受けた高山氏は以前板橋暗渠にドはまりして、ずいぶん網羅的に板橋を攻めていたからいいとして、わたし・・・。断片的にしか巡っていなかったので、迷いました。けれど、取材期間が半年近くあること、板橋の面白さは気になっていたこと、等から、受けることにしました。そしてとにかく通おう、と。

ここからが、今回の記事の背景です。
板橋と言えばしっとりチャーハンやあぺたいとの焼きそばなど、B食充実のイメージがあり、自分的課題店も多く。そして打ち合わせ時に、S&Bの本社が板橋であることを知りました。ふむ・・・S&Bとの関連を探るため、カレーか何かを行く度に食べるのはどうかしら。兎に角、暗渠だけではなく板橋という街に何度も足を運ぶことは重要である。何度でも行きたくなる・・・という引力を持つ食べものは、ラーメンしかない。

・・・こりゃ、カレーラーメンだな。カレーラーメンは、高校の学食でたまに特注していた。なつかしい。醤油ラーメンの上にカレールーが載った代物。あの懐かしいカレーラーメンを提供するような、町中華に行こう。

どんどん暗渠とズレてきていると思うかもしれないけれど、実はわたしはこういう遠回りの努力をすることがとても好きだ。修士論文を書き始める最初の時期、「これは体力が要る気がする」と、キャンパスのランニングから始めた過去がある。最終的な成果物とは何もつながらないことかもしれない。しかし、わたしにとっては大切な土台となる。

さて、カレーラーメンである。

板橋区内のカレーラーメン店を、町中華中心にリストアップした。
普段杉並区で出会う中華屋には、カレーラーメンが置かれていることはまず、ない。そのため、何軒も出てくることにまず興奮を覚えた。S&Bのお膝元だからだろうか・・・?いやいや、早合点せず、とにかく黙って食べてみようじゃないか。

というわけで、以下、カレーラーメン食いの結果(感想)を羅列していきます。

1軒目。カレーとラーメンの店 くっく大番。上板橋。

Oban

カレーラーメン600円。
14:30頃入店すると、既にできあがった男女ひと組、おじさんふたりがそれぞれ盛り上がっている。
バイス?と思ったらそんな色だが「梅サワー」を飲んでいた。
パチンコ帰りのスナックのママもきて、飲みはじめる。・・・ここは飲み屋か?
おつまみに、 カレールー がある。成る程カレールーがあるなんて、これは良い飲み屋だ。
やってきたカレーラーメンには、コーン、もやし、のり、チャーシューと、うつくしい配列。
日清カップヌードルカレー味の匂いがする。これは好ましい。
学食のようなやさしいカレーは、下に沈んでいるので麺をひっくり返して食べると良い。
チャーシューは分厚く肉肉しい。
満足する一杯であった。これは好きな感じだ。イイゾイイゾ、板橋カレーラーメン。

2軒目。喜楽。板橋本町、稲荷通り。

Kiraku

店に入るとまず、空の丼を前に、ぼーっと甲子園を見るおっちゃん。
町中華らしい良い雰囲気だ。
カレーラーメンは、基本メニューには載っておらず、追加メニューで貼ってある。780円。
カツカレーにカレーポテト春巻、追加メニューのうち半分はカレーものだ。
(カレーポテト春巻は再訪して食べたが、この手があったか!という美味なものだった。)
板橋の町中華、ここに限らず、カレーラーメンは追加メニューであるケースが少なくない。
・・・なぜだろうか?どこかの時点で、「S&Bの街だというアピールをしていこうぜ!」という意識が芽生えたのか?どうもS&Bが頭から離れない自分である。

やってきたカレーラーメンには、新妻のような可愛らしい花型人参が添えられ。
麺は細麺。リフトすると、、スープがなく全部カレールーのタイプ。
こういうタイプか、、、麻婆ラーメンでも出会ったことがあるが、普通に啜ると火傷するやつだ。
こちとら猫舌なので本当に用心が必要だ。レンゲに避難させながら、慎重に食す。
豚バラと玉ねぎの家庭的カレー味だが、おいしいので最後まで飽きなかった。
お昼どきは盛況だったらしい(わたしは14時前後に行くことが多い)、きっと人気店なのだろう。

3軒目。上板橋、新華。

Sinka

駅から店まで、くねくねと住宅街を通る不思議なルートだった。川跡のせいもあるのかな。
ここは商店街で、近所に共栄軒(後述)もある。町中華が並んでいて素敵。
カレーラーメン、600円也。
やはりメニューの後半に書いてある。
おばちゃんが丁寧に作る。
見た目は地味。豚肉と玉ねぎのカレーを、醤油ラーメンにオンしたもの。
麺は昔風の中太麺、これは好きなタイプだ。
優しく懐かしい味・・・年取るほどにしみる味。。
ここまでの3軒、カレーの味が大体一緒なのも面白い。

さて板橋区、ここいらは高低差がものすごい。
杉並暗渠に慣れている身としては、派手すぎてなんだか恥ずかしくなってくるくらいだ。
東武練馬なんて駅に向かう道がまるまる谷で、油断ならない。
カレーラーメンを食べては暗渠を歩き、土地の雰囲気を身体にしみこませようとする。夏だったものだから、暑い。2017年夏の思い出はきっと、「板橋カレーラーメン」になるだろうな。

4軒目。共栄軒。新華の至近。

Kyoeiken

メニューにカレーラーメンがある位置が、ここはまた独特だった。
ラーメン類では後半で焼きそばより後だが、味噌ラーメンの方がさらに後だ。このメニューの法則のようなものを考え出すと、これもまた奥が深そうだ。
カレーラーメン550円。
隣の人が頼んだ肉そば?の肉の様子がすごくて、ガン見してしまった。すいません。
カレーラーメンは醤油ラーメンにカレーが乗るタイプ。
麺は黄色の中太、いや新華よりも細い。細いが歯応えがある。この麺も好ましい。
カレーは作り置き、にんじん、じゃがいも、玉ねぎ、豚肉。これまでのものと似ている。
丼が広口なので、カレーが混ざりきらないうちに、端っこで麺を醤油ラーメンとして食べるという、自由度の高さがあり、これもいい。

それにしても、カレーラーメンも、ラーメンもカレーライスもある店って、注文が混同することはないのだろうか?「カレーラーメンって言ったけど、カレーライスとラーメンの意だった」、とか。。。そんな余計な心配をしながら麺を啜った。

5軒目。曙軒。板橋本町。

Akebonoken

板橋本町は駅にS&Bの広告があり、お膝元感がある。
そこから少し歩く。ここはかなりいい面構え、店内も溢れる昭和の雰囲気で良い。
カレーそば、650円。
メニュー上の順番は真ん中である。
さて・・・ここ、カレーが黄色いのだ!新潟のバスセンターのようだ!
しかも、これまでのカレーと違う味付け。カレーは作りたてだ。
具は豚肉と玉ねぎのみ。醤油ラーメンにかけたもの。
麺は細めで柔らかい。
ただ、醤油ラーメンとしてもカレーとしても味が薄かった。
まあでもこれこそ町中華っぽい。ともいえる味わいだった。
わたしはラーメンにある程度の濃さを求めてしまうのだが、町中華は薄味であることが少なくない(という印象)。

6軒目。西台、キッチン西田。

Nishida

キッチンという名前の割にガチ町中華屋。
人気店かもしれず、2人で足りるのではという広さの店内に3人も店員がいる。
カレーラーメンはメニューの最後に鎮座、780円なり。
醤油ラーメンの上にカレーが乗るタイプだが、なんと醤油ラーメンの具がまんま乗っていて、アガる。
麺は透明感のあるタイプ、醤油ラーメンに合うやつだ。
個人的好みでいうと、カレーラーメンの場合もう少し強い方がいいな。。
豚肉と玉ねぎのカレー。チャーシューと豚肉、白髪ねぎと玉ねぎが被るが、それもいい。
なんというか、包容力あるメニューだ。

7軒目。大山。ちょっと歩いて清華。

Seika

広めの店内。
やはり14時前後だったのだが、先客はチューハイでベロベロの男性2人。
ああここも良き「飲める町中華」なのかもな。
オーダーすると、酔っ払い2人に「カレーラーメンだって」、と反応される。
店の人、「結構2階で食べてますよカレーラーメン」、と返す。
聞き耳を立てつつ、酔客に絡まれないように縮こまる。
2階。そういうのもあるのか。
メニュー上のカレーラーメンは微妙な位置で、650円だった。
だんだん、値段を見ただけでどういう形状のものがくるか、読めるようになってきている。この値段は、見た目が地味なタイプではないだろうか。
・・・そして想像通りのものが来る。醤油ラーメンカレーのせ。
カレー、豚肉と玉ねぎ、人参少々。あれ、豚肉が煮込まれてないやつだ。
つまり、カレーは注文後に作られている模様。
麺は硬めの縮れ麺で大変好み。おいしかった。

次に行こうとしていたのは、志村三丁目の吉村屋。

Yosimuraya

カレーラーメンがあり、しかも吉村だなんて、今回の目玉ではないだろうか。
しかも、出井川暗渠のすぐ隣なのだ。パーフェクト!
期待に胸を膨らませ、駅を降りる。
・・・と、高架下に並んでいるはずの店たちがなくなっていた。
地図を見ると、まだ載っている。食べログ閉店情報もまだ追い付いていなかった。
どうも、最近なくなってしまったようで・・・
しょんぼりしょんぼり、引き返した。

気を取り直して八軒目。板橋本町、一元。

Itigen

ネット上に情報はないものの、カレーラーメン大師匠のcurryyokoさんに聞いたもの。
実はここ、店構えが前から気になっていた。
綺麗にリフォームされた感があるが、以前はさぞかし雰囲気のある町中華であったろう。
カレーラーメン780円。
本当だ、メニューにあった!位置は真ん中あたり。
テーブルふたつ、カウンター2席の可愛らしい店内。
おばさんが1つ1つつくっている。アットホームさが最高潮。
半ラーメン付きメニュウもいいな。
麺は細め、しょうゆ、カレー後乗せ。
カレーは今作ったっぽい、厚切りの豚バラ肉、玉ねぎ、にんじん、グリンピース。
店の雰囲気と合った、やさしい味わいだった。

9軒目。本蓮沼、いわ井。

Iwai

注文後、すぐにメニューを下げられてしまった。
ワードの打ち出しっぽいメニュー表に、カレーラーメンは手書きで付け足してある。
カレーラーメン(辛口)、750円。
注文後、おじさんが勢いよく炒め始める。カレーから作り始めるようだ。
久しぶりの、麺埋もれタイプ(同じタイプの喜楽は距離的にも近い)。
具は、大きめの玉葱と大きめの豚バラ。
麺は中太縮れ、透明っぽいが硬めで好み。
が、あっつい。このタイプは熱いよ・・・
もやさまでも熱がっていたが、三村は普通に食べられるのだろう。
麺は少し多い気がする。お腹いっぱいになった。
お、胡椒がS&B!店内にはっきりS&Bがあるとうれしい。
器の下げも早い店だった…しかし写真を見直すと、このぴしっとした清潔感はどうだ。

10軒目。レストラン銀月。板橋本町。

Gingetu

清水稲荷の商店街、喜楽につづき2軒目である。
ここは、リサーチ時には引っかからなかった店だ。
しかし銀月は店構えが良すぎ、ナポリタンを食べに行ったら、カレーそば(注文後に気づいた)が堂々あったので再訪となった。
カレーそば600円、メニュー中腹にある。
近所の中高齢者で賑わう店内、最高。
着丼は早め。
醤油ラーメンによく煮込まれたカレー、グリンピース。
これまた新しいタイプ・・・カレーラーメン界のミートソースや。
ミートソースをくずさないように、大切に麺と絡めて食べる。優しく深いカレー。具は色々なものがとろけている。が、時折大きめの豚肉が出て来る。
麺は細めで透明感のあるタイプ。
近隣の2軒が汁無しタイプだったからここもかなと思っていたが、まるで違う。
中盤、カレーは勝手にスープと一体化していく。
第2形態に入った。
味は全て混ざっても薄め、でも悪くない。
最後、丼の底から具を拾う。人参や玉ねぎの破片を楽しむ。
他の客はほとんど定食ものを食べていた。お盆に洋風の皿、小鉢に味噌汁に。
嗚呼、昭和のレストラン、だなあ。

11軒目。下板橋。点心。

Tensin

谷端川が目の前である。
奥に座敷、あとはカウンターだが、もちろんカウンター入口近くに陣取る。暗渠を見るためにね。
古くていい感じの店構え。常連さんとお店のコミュニケーションも、いい。
清潔感もある。
カレーラーメン530円は、メニュー中盤にある。
ラーメン370円だと・・・!
カレーは器に入って保存されている、豚と玉ねぎと人参、角切りの具。
しょうゆラーメンにカレーあとがけ、その時に長ネギもプラスされる。
普通の太さのたまご麺、シンプル。うんうん。
黙々と食べながらメニューを凝視。オムライス、玉子焼きライス、目玉焼きライス、オムレツライス、が、別々に書いてある。値段も違う。・・・違いが知りたい。
しかしここ、最高の暗渠飯屋だな。

12軒目、成増。奥州軒。

Oushuken

駅南口からまっすぐ歩き、住宅街に入った先、奥まったところに出現する。
なぜこんなところに?と思うが、そうか、グラントハイツが近かったのか。
カレーソバ680円。メニュー中盤、焼きそばの後にある。
午後は休憩なしのようだが、明らかに休憩タイムの15時ちょい前に行ってしまった。
古き良き町中華。
隠れ家的位置なのがさらにいい。
電話がしばしばかかってきて、そのつど壁にメモが貼られる。出前かな?常連さんに愛されてるんだろうな。
着丼。カレーはあとがけタイプで、どろりと全面を覆う。
具はよく煮込まれた玉ねぎ、やや厚切りの豚肉。
麺は透明感のあるタイプ、細身だがバランスは良い。
ややしょっぱいか?・・・満足する塩っけとのギリギリのラインを攻めて来る。
後半に入ると、なんとアイスコーヒーのサービスがついてきた!
おばちゃんありがとう。ふと見るとおばちゃんは餃子を包んでいた。
嗚呼餃子もおいしそう・・・

さてさて、板橋区の町中華にいき、カレーラーメンを食べるだけの記事、ここまで読んでいただきありがとうございます。
もう少しだけ続き。

板橋だけで展開していた一人企画なもので、そんななか作り上げた仮説は、

1.板橋区は他区に比べてカレーラーメンを出す町中華が多い
2.メニューに新たに追加されている店舗が少なからずあり、それはS&Bのお膝元であることと関係がある(願望)

の2つ。

これを、カレーラーメン食いの第一人者、curryyokoさんに「どうでしょう!」と投げつけてみました。

すると・・・yokoさんは東京近郊の自らが食べ歩いたカレーラーメン一覧表を見せてくださいまして、

・板橋もあるほうだが、江戸川区、葛飾区、墨田区、台東区、それから大田区がカレーラーメンを出す店が多い
・カレーラーメンには町中華ありき
・町中華には工場ありき。なので、上記の区に多い
・S&Bとの関連についてはちょっとわからない

という、ことでした。
成る程。わたしの仮説1はまあアリとして、仮説2は違うのかも・・・

そしてyokoさんの表をもとに、23区のカレーラーメンを出す店データを整理してみると、
(あくまでもyokoさんの訪問店の数であり、完全なデータではありません。閉店しているものもありそうです。という注記をしつつ。)

カレーラーメン店を出す、かつ、町中華のお店上位は、

1位 大田区(38軒)
2位 葛飾区(34軒)
3位 墨田区(33軒)
4位 板橋区(28軒)
5位 江戸川区(27軒)

であり、下位は、

23位 目黒区(2軒)
22位 文京区(3軒)
21位 品川区(5軒)

でした。

さらに、カレーラーメンを出す店全体のうちの町中華率を上記の区で算出すると、

墨田区 89.2%(33/37)
葛飾区 85%(34/40)
江戸川区 79.4%(27/34)
板橋区 75.7%(28/37)
大田区 71.7%(38/53)

文京区 50%(3/6)
目黒区 28.6%(2/7)
品川区 27.8%(5/18)

(ちなみに杉並区は 12/18、66.7%で色々と中くらいでした。)

板橋区は、カレーラーメン的にも町中華的にも、1位ではないけれど上位にある。
ということが、データからはわかりました。

それから、食べ歩いた感想として、600円前後の安価なものが多く、なおかつ、麺が好みのケースがわりとあり、満足度が高いということ。
カレーラーメンがなくても他の町中華で惹かれるお店もしばしばあり、何度でも食べに行ってしまいそうです。

最後まで暗渠に触れない記事で、失礼いたしました。
次回からは暗渠に戻そうと思います。

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東京人「夜散歩」号に寄稿しました

現在発売中の東京人、2018年3月号に暗渠で寄稿しています。

蟹川(先日の忍者暗渠散歩の近くです)、
六間堀と五間堀、
藍染川の一部、
コラム的に戸越銀座。

夜の闇の中にさまざまな幻影が見えてくるように、エピソードを幾重にも重ねました。
それから3つの項も、それぞれがつながるような細かい仕掛けをしました。
六間堀と藍染川は「夜店通り」、藍染川と蟹川は「茗荷」。
蟹川と五間堀は「峯島家」です。今回調べていて、丸八倉庫の創業者も峯島家であると知り、結構興奮しました。

六間堀は、ちくまの暗渠文庫に書こうかと構想していた時期もあるのですが、取材時間を捻出できずに断念していました。こんなふうに夜の妖しさをも含ませた記事にできて、幸せです。編集部のみなさま、お世話になり、ありがとうございました。

Tokyojin1

他の記事は…
上野さんの「夜散歩のススメ」、八馬さんの夜の橋の解説と写真が、紙でじっくり見られる贅沢。
闇歩きのおもしろさ。
フリートさんの引き出す飲み屋さんの語りは本当に貴重。
茂世さんの「行灯から街灯まで」、なんて素敵な切り口なんだろう。赤坂のちいさいおうちも凄くいいです。

ぜひぜひ読んでみてください。

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世田谷線沿線本の暗渠こぼれ話


先月末に発売された「世田谷線沿線の本」に、暗渠で寄稿しています。
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そのこぼれ話をひとつ。


烏山川といえばザリガニを思い出す。

松庵川での取材時、銭湯のお客さんが語ってくれたのが、「川沿いで大人がザリガニを茹でて食べていた(自分は臭いので食べていない)」というエピソードだった。よくよく聴いていくとそれは、烏山川のことだった。あのおじいさんは、松庵川を通して烏山川を思い出していた、ということになる。

烏山川関連の資料の中で、なんだか好きなエピソードもまたザリガニだ。ある時代までは烏山川に居たのはエビばかりで、あるとき、ザリガニを捕まえた青年が「エビにハサミがついている!」と大騒ぎしたのだとか。数年後ザリガニは大繁殖、珍しくもなくなっていった。

だから烏山川というと、わたしはザリガニを思い出す。 烏山川にあるわずかな親水空間で目を凝らしたけれど、北沢川みたいにザリガニがいたりはしなかった。残念。


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それはそれとして、世田谷線沿線本、とってもオシャレなレイアウトで、わたし役のカエルもかわいくって気に入っています。編集さん、お世話になり、ありがとうございました。
書店さんで見かけられましたら、ぜひお手に取ってみてください。


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「はじめての暗渠散歩」

ちくま文庫さんから、「はじめての暗渠散歩」発売となりました。
関連する記事も書いていきたいですが、今日はお知らせのみ。
 

Hon1

下記、購入特典のつく書店さんたちです。

お近くなら是非、あるいはちょっと足を伸ばしてでも、ご活用いただけるとありがたいです。

 

あゆみBOOKS瑞江店(著者特製しおり配布)

 

荻窪文禄堂 (著者特製しおり配布)

 

高円寺文禄堂 (11/10トークショー参加)

 

往来堂書店 (藍染川下りさんぽ参加券)

 

SPBS(著者特製しおり配布)

 

ちなみに、暗渠しおりは7パターン。文庫本内では写真がモノクロになってしまうわけですが、それらをカラーで、キャプション付きで、あるいはボツにした写真を。4人がそれぞれに選びました。

 

明日、11月10日(金)19:00~20:00は、文禄堂高円寺店さんで著者4人でトークをします。

ご興味のある方は、ぜひぜひどうぞ!

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猫と暗渠~暗渠はニャンダーランドだ!~ 猫地名編

 
11月4日に、神楽坂で「猫でめぐる暗渠」というトークイベントを開催します。
そのイベントはもう満席になってしまったので(申し込んでくださったかた、本当にありがとうございます)、きょうはその宣伝ではありません。
「猫でめぐる暗渠」は、去年ひるねこBOOKSさんでやった「猫と暗渠」トークの続編でもあります。ただ、その第一回目にいらしていない方もいらっしゃると思うので、「第一回目のおさらい」(全部ではないですが)をしておこうと思うのです。
 
さてさて、去年、わたしは「猫と暗渠」で、こんな話をしていました。抜粋その1は、「猫地名と暗渠」です。
 
***********
 
東京近郊の猫地名といえば。
 
・・・浦安市「猫実(ねこざね)」、一択。
しかも、浦安市は「猫実川」まであるという、すばらしい土地である。

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「猫実川」なる、バス停まである。

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しかも、バス停「猫実川」は、ほんとうに猫実川の上に立っている、誠実バス停なのだ(左が欄干)。猫実川の暗渠上、と言ってもいい。
ここらへんでもう、猫と暗渠が両方好きな人は、若干心をつかまれるのではないか、と思う(たぶんね)。
 
・・・「浦安」というと、おそらく多くの人が思い浮かべるのは、ネズミーランドだろう。しかし、ある程度有名な話だが、ネズミーランドは埋立地につくられたものであり、古地図を見ても「無」である。いっぽう猫実は、浦安といえば猫実村と言ってもいいくらい、明治期の地図を見ると人口密集地なのであった。

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「東京時層地図」((財)日本地図センター)、明治9~19年より。右下にある村が、猫実村である。
 
そんな浦安の古きよき街について、暗渠と猫を絡めながら見ていこう。
 
まずは猫実川から。
猫実川には、開渠部分と暗渠部分がある。開渠は、浦安の駅南口から少し行ったところから、唐突に始まる。

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ちなみにこの猫実川、実は地名「猫実」を流れることはなく、ほとんどお隣の「北栄」を流れている。

奇遇なのだが、暗渠好きでもある大地丙太郎さんが監督をされた「浦安鉄筋家族」に、猫実川が出てくる。

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(浦安鉄筋家族よりキャプチャ。子どもをスーパーに忘れてきたお母さんが猫実川を飛び越えるシーン。)

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こんな感じか。猫実川中流部。
浦安鉄筋家族に出てくる街並みは、少し前の浦安の雰囲気なんだろうな、と思う。

さて、猫実川の暗渠部分を見てみよう。

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ここから潜り、駅付近を通過する。上はタイル張りの遊歩道と親水空間になっている。
親水空間で何かをつかまえている少女がいたので、「何が獲れるの?」と聞いてみた。

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答えは、「カニ」だった。
たしかに見渡してみると、人がいないときには油断してカニが出てくるようだ。
カニが大好物なので、すぐさま興奮した。猫実川、カニが獲れる暗渠!これはすばらしい。
 

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東西線のガードをこえると親水空間はなくなり、このような緑道が、道路を渡っても少しだけ続く。
そのうちただのアスファルトの道路になって、住宅街に埋もれてしまう。

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こちらは、猫実川の支流と言ってもいいであろう暗渠。
東西線高架下を流れている。立派な蓋暗渠だ。東西線が通る前からここにあったので、この水路の上に東西線を作ったのではないか、と思わせる。

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高架と分かれてゆくところはとても素敵で、浦安で最も好きな風景のひとつだ。
 
さて、ここまで紹介してきた猫実川。本流は、実は長いこと存在しておらず、高度経済成長期の地図にさえ載っていない。
街は東西線完成後に急速に発展したのであろう。それより以前は、浦安はとにかくたくさんの用水路が張り巡らされた土地であった。都市化に合わせてそれらの水路を廃し、そのさいにまとめられた1本が猫実川のようである。

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東京時層地図ふたたび。今度は、昭和初期の浦安である。
川に寄り添うように、市街地が発達していることが判る。この川は、今でも開渠で残っている「境川」だ。浦安の、母のような川。
 
人々は川の両岸に家を建て、川の水を飲料や洗い物に使った。漁業を営む人は船を係留し、農業を営む人は耕地の用水路とした。
 
浦安の生活は、境川とともにあったのだ。境川で洗い物をする光景は日常で、戦前はここで、米をも洗っていたという。
 
境川から縦横に広がる、一面の田んぼに用水路。用水路で、ザリガニをとる子どもたちの写真もあった。
そういえば知人(高円寺出身)が、東西線が通ってすぐの頃(当時小学生)、よく浦安に釣りをしに行っていた、と話してくれた。浦安駅は降りると一面の田圃と用水路であり、タナゴなどを釣って遊んでいたという。
タナゴを釣るために浦安まで行く必要があるのか、少々疑問でもあるが、そのひとはなんとも楽しそうに、この話をしてくれた。できたての東西線で釣りをしに行く、という行為に、なにやら胸が躍る感じはする。
 
川だけではなく、「水」はこの土地の産業と深く結びついていた。昭和5年頃、稲からハスへの転作が増加する。昭和32年には、堀江だけで319軒ものハス農家があった。じくじくした湿地が、ハスづくりに適していた、という。
しかし昭和33年以降、地盤沈下により塩分の強い水が入ってくるようになる(葛西のフラフープ工場が原因と書くものもあるが、詳細不明)。ハス農家は漸減するが、それでも、昭和40年代くらいまでは、ハス田が残っていたという。
 
古い地図には、大きな養魚場も描かれる。「秋山の金魚池」と呼ばれる一万二千坪もの養魚場で、存在していたのは明治19年から昭和50年まで。こちらは付近の海面埋立により水分が蒸発し、塩分の高い水が池に入ってきたため、廃業せざるをえなかったようだ。
その跡地には、現在公共施設がズドンと建っている。
 
いっぽう昭和24年、浦安駅西側のハス田だらけの土地に、遊郭的空間がつくられている。柳町という。玄関がちょっと立派な、しかし普通の家のような遊郭が9軒あった。当初はハス田の中にある店に、田んぼや堰を越えてお客さんが通ってきたそうだ。現在は名残があるかどうか、きわめて微妙な感じであるが、ともかくその後、東西線とネズミーランドで、浦安市は大いなる発展を遂げてゆくのである。
 
さて、長くなってしまったが、これは「猫地名」の紹介記事である。
 
「猫実」の由来とは、どのようなものなのか。郷土史を何篇か読んでみる。そこにあるのは、常に同じ解説であった。すなわち、
 
鎌倉時代、このあたりは大津波に遭い甚大な被害を受けた。
その後人々は、堅固な堤防を築き、その上に松を植えた。
村人たちは、「今後、どんなに大きな津波が来ても、この松の根を越すようなことはない」という願いを込めた。
松の根を越さない
根越さね
ねこざね
 
・・・という由来なのだそうだ。
 
 
がびーん。猫と関係なかった!
 
でもたぶん、猫実は猫が好きなのだろう、とわたしは開き直っている。
なぜなら、

Suki3

こういった屋根付きの猫スペースが少なくとも2つはあった。

Suki2

 

キャッツ!

Suki

 

「とまれ」のデザインがネコ科!

などなど、枚挙にいとまがない。

猫実はきっとこころのどこかで、猫を意識しているに違いない。

 
さて、ごはん。
猫実川暗渠沿いの食べものやさんたちをご紹介。

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本流暗渠に面して入口を持っている、スペイン料理屋さん。

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千葉で一番の品ぞろえのワイン。千葉でここでしか飲めないビール、など。
 

Nekoz17

しかしながらなぜか、スペイン人の腕利きシェフが辞めたばかり、かつ、新しいシェフが来る直前、というタイミングで訪問してしまった。パエリアは出せないというので、カルボナーラを食べた。
丁寧に作ってあるカルボナーラ。おいしかったですよ、とても。でもパエリアも食べに行きたいところ。
 

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支流暗渠沿いには蕎麦屋もあり。「ちんねん」さん。
飲める蕎麦屋さんでもあり。
せいろ、田舎、変わり(この日は大葉だったかな?)の三種盛り、に、とうもろこしのかき揚げをつけて。おいし!

Nekoz18

さきの蓋暗渠の延長上、東西線の高架下も川跡ということになる。
良い感じの店が並んでいるのだが、なかでもこの立ち飲み「づめかん」が実によかった。

Nekoz19

「パンの串焼き」というはじめての食べものをいただいた。
おもしろかった。そしてアリだった。他にもいろいろとおもしろい店。

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そして「ミー太郎」。
これもまた用水路跡沿いにある。しかも、「ミー太郎」ですよ。

このトーク時はわたしは「気になっている」と言っただけで、フロアにこの店をご存知の方がいて、「昔は看板に猫の絵がついていた」という新情報を得たのでした。

 

さてさて、暗渠沿い飲み屋「ミー太郎」と猫の関係やいかに?!

この「ミー太郎」潜入情報についても4日に、簡単にレポートしたいと思います。

ではでは、事前学習その1でございました。その2は、間に合えばまた書きたいと思います。

<文献>
・秋山武雄写真集「浦安 青べかの消えた街の時 17歳からの視点」
・「浦安町誌」
・「浦安の歩み」
・「浦安の民俗」
・三谷紀美「浦安・海に抱かれた町」

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九段の花、いまむかし

地獄谷のことを書いたときに少し触れたが、
九段南~三番町あたりに定期的に行っていた時期があった。
妙にしんとした街並みが、印象に残る。
かつてここに花柳界があったと聞き、嗚呼なるほど、と思っていた。
 
しかし、あまり大きな料亭は見かけない・・・
あるとき平安堂という筆屋さんに置いてあった冊子に、
三番町の「あや九段ビル」がかつて「あや」という料亭で、
福田赳夫なども利用していたということが載っていた。
 
現在は立派なビルである。あそこ、料亭だったのか・・・
しかし周囲をぐるぐると歩いてみても、料亭っぽさを残す建物はあれど、どうもサイズが小さい気がして、かつての街並みをあまりうまく想像できなかった。
 
”大手町暗渠ロジー”を書く際、皇居周りのあちこちの火災保険地図を、ついでに得ておいた。
その地図上の街は実に美しい。よく見ると・・・、嗚呼ここは、こういうサイズの待合の街だったのか!
と、すべて合点がいくのだった。
 
 
さて、九段とは、こういう街である。
現在の九段北4丁目、九段南4丁目あたりは、江戸期には夜鷹が現れていたというし、岡場所も作られたことがあるというから、なんだかもともと、艶っぽさを隠し持つ土地であるようだ。
明治の初めになると、富士見町1丁目から三番町にかけ、花柳界がつくられた。当初は、競馬場(現靖国神社参道)の裏辺りだったという。
 
この、富士見町に花柳界ができた背景が独特である。
九段といえば、靖国神社。
明治維新後、「靖国神社に来た軍人が遊ぶところがないから」(そして、変なところで遊びたくないから)ということで、近所の広沢参議(そのバックに地元の有力者2名)が政府に働きかけ、富士見町花街を作る許可を得た。しかしその後、広沢氏は暗殺され、話は停滞してしまう。
明治20年からは、地元の柴田氏が私設の見番(柴田見番)をつくり、そこから少しずつ店が増える。儲かる、ということで、下宿屋からの転身が少なくなかった(小ぶりな店が多いのはそのためか?)。しかし柴田氏が大正に亡くなる。
 
そのとき、富士見町三業組合を作るという動きになったのだそうだ。
新しい見番ができ、大正期は柴田見番=赤、新見番=白、と、赤白に分かれていたのだそう。(※富士見町は当時、現在の九段南まで広がっていた。)
ピークは昭和初期。芸者4~500人、待合130~140軒という規模となった。客層は変わらず軍人多め。しかしこの頃の「全国花街めぐり」では、「かつては軍人専用花街といった感じだったが、今は他の人も来る」とも、書かれている。
永井荷風がここで、二号さんに「いくよ」という待合をやらせていた、と地元の人が語っている。菊池寛をはじめ小説家も多くやってきていた。ただし彼らは、そこで小説を書いていたのだそうだ。優雅な…。
 
昭和8年前後になると、九段三業会館が建設される。このあたりでは初めてのビルディング。それまではビルなどなく、それこそ、富士山が見えたという。
第二次世界大戦中は、営業停止となっていて、見番の中で無線機の部品作りをしていたそうだ。
 
戦後、再開の許可が下りたのは昭和21年。桜井、若泉、よし桜井、一力などが早かった、という回想がある。
その後賑わいが戻るものの、次第に衰退。バブル期には地上げ等々の影響でオフィスビルになるものが増え、廃業が続く。そしてとうとう、1997年に九段三業会は解散する。

Hukugen

 
文献によれば、2008年時点では、「治乃家」「田むら」のみが営業しているという。この写真は”わが町あれこれ”内のものだが、「ふく源」の看板が見える。ふく源も、2017年現在は営業していないようである。「梅川」、「喜京家」などの料亭も廃業し、ビルになっている、という。
 
いま、ビルの名前としてだけ、残っている料亭の痕跡があるということに、少し心が惹かれた。暗渠における、橋の銘板のようなものだろうか。それでわたしは、現代の地図から料亭の痕跡を見てみたい、と思った。
 

Hatsune

 
これは戦前の火災保険地図。「料」が料亭である。
こんなにも料亭がびっしりと並ぶ街だったのだ。想像以上だった。
縮尺が変わってしまうが、現在のマピオンも見てみる。

Kudan1

「富士家」が、「富士の家ビル」になって残っていることが分かる。
(ちなみにこの富士家の隣がふく源なのであるが、どちらの地図でも確認できない。)
 
お隣の区画もみてみよう。
…この、当時の街並みをとても見てみたくなる。耳を澄ませ、匂いを嗅いでみたくもなる。

Uokyu

 
続けて現在の地図を。
 
 
Kudan2
 
「栄㐂」が、「マンション栄嬉」に、
「喜京」が「喜京屋ビル」になって、残っていることもわかる。
マピオンに載らないだけで、残っているものは他にもきっとあるだろう。
他にも3か所に印をつけているが、これは、現在も料亭風の建物が残っている場所である。
 

Fujinoyu

平安堂は、このときの地図にも登場している。その隣が、あや九段ビル。
「あや」とは、女性の名かと思っていたら、「阿家」であったのか・・・
 

Kudan3

 
「ふじの湯」なる銭湯は、現在サン九段ビルになっている。
花柳界であった時分、このエリアに銭湯は二軒あったのだそうだ。入る人は全部花柳界の人。芸者に内風呂は使わせないのだそうだ。理由ははっきりせず、厚化粧のため・・・などと推測する人もいるが、よくわからない。銭湯の内側、さぞかし賑やかであったろう。男風呂はガラガラ…?

Kagai1

 
再び、現在の九段に赴く。
今もわずかに、それらしき建物はある。
最初にこれはと疑った建物は、たしかこの建物だった。火災保険地図では「一松」がほぼ重なる位置ではあるが、現在位置とズレがあるので、もしかすると戦後新たに経営され始めたものかもしれない。

Kagai2

 
しかしこの建物には、つい2か月前ほどだったろうか、取り壊す旨の張り紙がしてあった。
今はもう、なくなってしまったかもしれないな…
そしてすぐ近くに、もう一軒ある。

Kagai3

こちらは、「若泉」とはっきり書いてある。
もう営業はしていないかもしれない。しかし、若泉とは、前述の戦後すぐに営業を再開したと書かれているうちの一軒。小さいながらも、勢いのある店だったかもしれない。火災保険地図にも載っているものだ。
 
「若泉」の文字を見たとき、わたしはなぜかほっとした。
此処にはたしかに、小ぶりな料亭の並ぶ街があった。夜な夜な、芸者が美しく踊り、歌い、笑い声が響いていただろう。局沢の谷では女学生が学び、その隣の崖の上では、芸者が舞い踊る。此処は、女性たちが踏ん張る街だったのだ。
消えゆく痕跡。生き残る痕跡はほんのわずか。しかしこの上品な静けさを持つ街並みの奥に、目を凝らせばそんなものも見えてくる。
 
<文献>
・「大江戸透絵図」2003年
・「東京花街、粋な街」2008年
・「わが町あれこれ」1981年
 
本記事は、「よいまち新聞 大手町暗渠ロジー」に絡めて書いたものです。
暗渠ではありませんが、失われた何かのこと、街のこと、ということで。
大手町暗渠ロジーは、現在WEBから見ることができます(リンク先にPDFあり。これの第3号です)。この花街跡の地面の下を通った水も、大手町まで流れて行っているかもしれません・・・
 
 

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香港暗渠さんぽ

暗渠さんぽ、久しぶりの海外編。
 
タイトルのとおり香港の街中の暗渠を追う記事を書こうと思う。が、その前に、マカオと中国珠海市にも触れておきたい。
 
まずは中国、珠海市。
マカオから徒歩で国境を越えられるので、半日ほど行ってみた。地形的には平坦なところから、水路の出処と思しき丘を目指し歩き始める。すると、

Makau1

予期していない場所で、このようなコンクリート蓋に出逢った。

うわ!日本と似てる!SUGEEEE!
蓋を見ただけで着火。

Makau2

おわ!道路を横断してきて合流してる・・・!!

早くも興奮が最高潮。さまざまな角度から写真を撮り始める。

が、しかし・・・数分後、あることに気付く。

Makau3

あれ。

これ、電気・・・。

ザザー・・・と、水が引くようにテンションが下がるのがわかる。(いや別に電線が嫌いなわけじゃないんです。水路ほど情熱が向けられないってだけで。)

他の蓋やいくつかの条件から、電気の蓋であることがほぼ確定した。なんということだろう。
奇しくもこの日は雨。こんな、隙間から水が入りまくるような構造で大丈夫なんだろうか・・・

Makau4

ともかく、珠海の街中では、このようなコンクリ蓋をかぶせて、電気が走っている。

この写真なんて、川じゃないのに優雅にカーブまでして・・・

Makau5

ちなみに雨水用の側溝の蓋はこういうものだったが、あまり見かけなかった。

Makau6

状況が分かってくると慣れたもので、このような景色を見てもハイハイ電気ね・・・と、心が揺るがなくなる。日本だったら、「キャー水路の立体交差!!!」と、大興奮するはずなのだが。

Makau7

そんなわけで、マカオの街中(競馬場前)でこのような蓋を見つけたときも、

「ハイハイ電気ですね」

と、かなり軽く流してしまった。そしてこれは、たしかに電気であった。

・・・こういった流れのなかで、香港を訪れた。珠海よりもマカオよりも、高低差が身近にあり、暗渠の出現に期待できる都市だ。

地図を眺め、「ありそう」な場所を見つけた(ちなみに日本国内ではマピオンやらさまざまな地図アプリを見比べるのだが、海外ではグーグル先生一択。そしてこのグーグル先生、暗渠探しの上では、非常に扱いづらい)。

遡っていくと、ここに到達する。おそらく水源だ。

Hong1

                     googlemapより

 

小西湖。
九龍塘という駅が最寄。日中に来ることができず、20時頃の到着となった。

大きなショッピングモールを抜け、湖のあたりに来るも、真っ暗で何も見えなかった。ただ、ザァァ・・・という、音だけはする。割と多くの水が、湖を出て谷を下る音だ。

 

Hong2

谷が公園(歌和老街公園)になっているようだが、用心のため通るのは止めた。
九龍塘駅前に戻ると、谷底らしき位置に、このような蓋があった。

しかし、これまでの流れからいって、わたしにはこれは電気だとしか思えない。
もう騙されないぞ。まったく紛らわしい場所に・・・ブツクサ言いながら遠目から写真を一応撮って、去った。

Hong3

谷は感じるが、暫く谷底らしき部分を辿ることはできない。大きなビルの敷地になっているからだ。
達之路という広い道路を渡ると、公園(桃源街遊楽場)になっている。ここは、流路のはずだ。右手には崖が見える。
この公園の感じは、日本の緑道と似ており、少し暗渠らしいといえる。しかしその先、再び川跡は暫く辿れなくなる。中学校の敷地になっているようだ。その、学校の敷地というのも、また、暗渠らしいことである。

・・・で、水源以来、地形だけをたよりに歩き、もんやりと暗渠らしさは感じつつも、決定的にはっきりとした暗渠サインには出会っていなかったところ、

Hong4

それは突然現れる。
渠務省の看板!
 
きょむしょう!!(と、広東語ではもちろん発音しないのだろうが。)
 
河川管理課とか、そういう感じだろうか。「渠」がこんなに公に使われているだなんて、感動的である。
この渠務省の看板の奥には、水防関係の施設があるようだった。地下に潜っていく道路がうっすら見え、どぶの匂いが盛大にした。わたしにとっては、暗渠であることを裏付けてくれる、うれしい匂い。

Hong5

水防施設の上は、グラウンドになっていた。これも日本と似ている。グラウンドには入れなかったので、脇の道を下ると、・・・また、あった。そして、この下からも、強いどぶの匂いがした。

もしかしてこれ・・・電気じゃなくて水路なのか?

ただ、この向きはちょっと事態をややこしくする向きで、本来の川筋に向かって斜めになっている。支流暗渠か、はたまた・・・??

いずれにせよ、この下には水が流れているようであった。香港にも、コンクリート蓋暗渠は存在する。

Hong6

 
暗渠蓋のすぐ近くには、さきほどと同じ渠務省の看板があった。なるほどここにある施設は、地下調整池のようだ。しかも、比較的新しい。
ここで、九龍塘駅前で軽く流したあの蓋も・・・と、後悔が押し寄せてくるが、戻るわけにもいかない。
 

Hong7

その先、また名を変えて、公園(界限街遊楽場)が続く。
 
この公園には屋外卓球台がどっしりと備わっていた。そして、多くの大人が卓球に興じていた。このとき、21時~22時くらいではなかったか。他のスペースでも、大量の大人が、ベンチに座ってしゃべったり、何かのカードゲームをしたり、遊具(健康器具様の遊具なのだ)で熱心に体を鍛えていたり・・・とにかく、人が多い。
 
そして、夏にこれだけ暗渠に人がたむろしていても、彼らは蚊に刺されない。というか、蚊がいないのだ、暗渠なのに!
これは日本の暗渠との物凄く大きな違いである。この時期に暗渠上の公園でくつろぐなんて、(蚊が)恐ろしすぎてわたしにはできない。

Hong8

公園の名がいつのまにかまた変わった。「洗衣街」が横にあるので、こんな名前となっている。洗衣。もちろん、広東語で洗濯、クリーニングの意だ。
 
それにしても児童遊園と名はつくものの、完全に大人の遊び場と化している、というのはおもしろかった。

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その先、太子道西を渡ればそこは、水渠道、という。
 
この川を見つけるとき、最初に手掛かりとなったのが、(google mapではなく)ガイドブック上に見えた僅かな池のようなものと、ひとつだけ変な角度に伸びている空間と、この水渠道という表記のコンボだった。

Hong10

水渠道の様子は、こう。

Hong11

でも暗渠は、たぶんこちら。道のすぐ脇にこのような空間があった。

Hong12

その立ち入り禁止空間の先に、公共の建物があった。
リサイクルごみの収集所、といったもののようだった。公共の施設ということ、それとごみ置き場ということ、それらもまた、日本の暗渠サインに似ている。

Hong13

その先は、川跡上がきれいな緑道になっていた。
繁華街のなかにある緑道。その整備されたての感じや、広さや、ひとびととの関係が、渋谷川っぽいなと思わせる一角。

Hong14

緑道には、謎の金魚オブジェ。

・・・川に因んでいたらいいなあ。

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延長線上にこんなものがあったので、水門か?と思ったら換気塔だった。

Hong16

喚起塔から道路を渡り、ふたたび学校の敷地となって、建物のない一角が斜めに続く。

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旺角道遊楽場上の斜めの区画に出てきて、公園の脇にはまたもごみ収集所だ。

なかなか日本の暗渠サインと重なりが多いので、うれしくなってくる。ただ、足はだいぶお疲れ。おなかもすいてきた。

Hong18

道端にあった簡単な食堂に入る。
言葉は通じない。ビールを頼み、あと、適当に餃子っぽいものを指さして頼む。

・・・すると、餃子だと思ったものは海老ワンタンで、期せずして香港名物の海老ワンタン麺が来た。

15年前、わたしはその食い意地ゆえ、「海老ワンタン麺を食べに」この地に来たことがある。むかしは1杯100円で、それをTVで見、とても魅力を感じたのだった。うれしくて、何杯も食べた。
いまの香港では、どのような店でも100円の海老ワンタン麺など出していない。500~700円くらいだろうか。

Hong19

さて、暗渠の続き。

今度はわかりにくく、長旺道という幅広の道となる。

Hong20

と、その道の最後で、あの蓋が現れた。やはり、どぶの匂いとともに。

そのさき、太い道路を渡るが、夜市にも行きたいので、ここまでで追うのをやめた。

 

Hong22

                        google mapより

暗渠のルート(一部)を、水色線で示す。
このように、地図上でもここだけが浮いていて、川っぽいことがわかるだろう。

このさき痕跡は減るが、海へ向かって流れているようだった。

さて、この暗渠の名前はなんというのだろうか?
広東語も出来ないし、香港で文献に当たることはできなかったので、あまりやりたくないけれど、今回はwikiに頼ることとする。

wikiに名前が載っていた。「花墟道明渠」という水路であったらしい。もしくは、旺角花墟道明渠。延長210mという短さと、この名称からして、この水路のほんの一部だけを指す名称のように思う。

あの屋外卓球台が設けられていた公園の隣の道が「花墟道」なので、おそらくあの連続する公園のあたりにかつてあった開渠のことをいうようだ。下水が流れ込むようになり、臭気が問題化したため、2008年までに蓋がけされたようである。

わりと最近のこと・・・!

wikiの写真を拝借する。(出処はこちら。)

Hong21

まさに蓋がけの最中の写真。

川全体を通しての名前は、見つけられなかった。小西湖からはじまり、その後姿を見せないこの川は、少しずつ暗渠にされてゆき、残る部分は地名を冠された明渠となっていた、ということだろうか。いくつかのポイントはまだ新しかったことから、2000年以降に着手されたものも少なくなかったのかもしれない・・・

wikiのリンク先「二十年代九龍地図」には、この川がはっきりと載っている。また、支流のようなものも見える。

暗渠蓋の隙間から流れ出る臭気になんとなく日本の1960年代を思った、香港の繁華街にある暗渠。・・・また行く機会があれば、今度は支流も辿ってみたい。

 

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地獄谷、あの日の記憶

「あの日」のことを、明瞭に語れる人は多いだろう。

それから、その場所を通ることで、関連付けて「あの日」を思い出すことも。わたしにとって、そのような場所はいくつかある。

あの日。
わたしは職場にいた。当時の職場は、文京区にあった。

あの時間のことをここで詳細に触れるつもりはないので、大きく省略して書いていく。

職場の敷地で最も広いところに、大勢が集まっていた。緊急放送が流れる。わたしは郷里のことばかり考えていた。放送の声は落ち着いていたが、論理的には矛盾していた。横で後輩が、「この放送が言っていること、論文だったら不採択ですね。」と言ったので、思わず、笑った。彼はきっと、大物になるんじゃないかな・・・なんとなくそんな気がする。

しばらく時間が経ち、歩いて帰ることになった。ざっくり言って同じ方向のひとたち、4人で職場を出る。わたしは暗渠を書き込んだ、紙の地図を持っていた。あまりにも繋がらない電波に、とっくに携帯の電池は切れている。あんなに紙の地図に感謝したことは、後にも先にもない。

九段下で、南へ行く二人と別れた。残る同僚は神奈川の人で、あまり地理がわからないようだったから、兎に角渋谷まで案内することにした。
通りは花火大会のようなありさま。わたしはなんとなく一本裏道を歩きたくなった。そして、以前から気になっていた「あの道」に同僚を誘った。

そこは谷なので、避けたほうがよかったのかもしれないと後にして思う。でもわたしは、崖線の話などに反応してくれるその同僚に、地形や暗渠の話をしながら歩きたかった。不安に直面したくなかったのかもしれない。結果、わたしたちはノンビリと裏道を歩き、気になっていた谷をのぼり、鮫河谷を横切り、そして明治通りで別れた。

あのとき、谷が思っていたよりずっと早く谷の形状でなくなってしまったことは、ずっと心のどこかに引っかかっていた。

わたしが「あの日」を思い出す「あの道」のひとつは、ここである。

Tidori3

靖国神社付近。2005年からこの近くに仕事で来るようになり、そして、誰に問うでもなく、気になっていた谷だ。

千鳥ヶ淵に向かって、その谷は落ちている。

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千鳥ヶ淵側はこのようになっている。ここにだけぽっかりと団地がある。
(現存するか確認していないが、この写真は2014年のもの。)

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この給水塔も、周辺からすると異色の存在だ。

二松学舎大学の横の道から、目指す谷に入る。

Tidori6

しかし、あっというまに谷は消えるのである。
たしかこのあたりにはもっと大きな谷があり、そこの下流部であるとばかり思っていたから、どうも辻褄が合わなかった。

その後、3D地形図を自分で見られるようになり、わたしの脳内地形図が間違っていたことが分かる。ここには3つの谷があるようで、二松学舎脇は、その北端のものだった。

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赤丸部分がさきほどの谷(「スーパー地形」より)。川もあったかもしれないが、とくに名付けられた文献をみたことはない。

この、十手みたいな形をした3つの谷は、内堀の形成と深く関係している。
これらの谷にあった川を堰き止めて、千鳥ヶ淵ができたという。江戸城以前は、城の内部を抜ける形で流れていたのではと推測する人もいる。地名として江戸以前から局沢というものがあり、川は局沢川と呼ばれる。この谷は、局沢川の支谷といっていいだろう。

ある日、ふと思いついたことがあった。それを確かめるために、千鳥ヶ淵でボートに乗った。

Jigokukakou_2


ボートで探検したところ、さきほどの局沢支谷の先と思われる位置に、合流口があった。・・・本当にあるとは。
これには、かなりの感動を覚えた。地形は今もなお生きていて、時折、流下した雨水等が、ここから千鳥ヶ淵に注ぐのだろう。その流れは、大昔と同じルートかもしれない。

さて、「大きな谷があったはず」と、わたしに思わせていた別の谷も、確認してみたい。

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もっと深い谷は、すぐ南にあった。

 

Jigokumapchuou

赤丸部分。さきほどの谷とは、比べものにならないほど深い。
そして、千鳥ヶ淵に食われてしまっているので、最下流部がさきほどの谷と異なる位置にある。

まずは、この谷の河口を見にゆこう。

Tidori10

 

千鳥ヶ淵に向かう谷筋が見える。冒頭の谷よりも、凹凸としてはだいぶ緩やかだ。

ここの合流口は、ボートに乗らずとも見ることができる。

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フラップゲートがちらり、と見える。この季節は春だが、雑草ですでに隠れ気味なので、冬にゆけばもっとよく見えるかもしれない。

残念ながら、千鳥ヶ淵のボートでは行けない場所だった。

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高速道路に阻まれてしまい、おそらく何者も入れまい。

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その高速道路を含んだお濠と江戸城敷地、後方のオフィスビル群はハイブリッドで、いかにも東京な景色をつくりだしている。

中世以前にはあった流れの名残も、僅かに足元にある。
明治の頃、このへんで近所の子どもたちは釣りをしていたという。主にフナが釣れ、巡査に追い払われながら、遊んだそうだ。

さまざまな時代が交叉する。

・・・さて、局沢川を遡上しよう。

Tidori11

大妻女子大エリアにやってくる。大妻の体育館は、まるまる谷底にある。すっぽり。
大妻の交差点から南北に延びる坂は、徳川家の厩舎があったため「御厩谷坂(おんまやだにざか)」と呼ばれるのだそうだ。馬が足を洗った池もあったという。
これらと関連して、この谷自体も御厩谷、とも言われることがある。

Tidori12

主に住宅街だが、ぽつ、ぽつと大妻関連の敷地が続く。
いつのまにか両側の崖が立派になっており、ときどき目に入ってくる。

Tidori13

その立派な崖には、すてきな階段が。

Jigokukaidan

ここはなんだか好きな階段なのだ。細い家もかっこいい。

Tidori14

九段小学校のプールの前。やはり谷底に近い位置にプールは設けられている。

ちなみにここの公園にある高架水槽、

Jigokusuisou

色といい錆といい、激しく格好良い。

ここで谷はクランク状になっており、そのまま遡ることはできなくなる。いったん、坂道を上る。

Tidori15

谷の敷地に学校が相次ぐ。千代田女学園。

この谷は、三番町の谷、とも言われる。大妻に千代田女学園、女子学院も隣にある・・・なんとも女子教育に彩られた谷である。

Tidori17

テレビ局跡地が広い駐車場になっていて、その少し手前から谷は曖昧になっていた。
途中の崖の険しさにしては、どうもアンバランスな結末、という気がする。

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もう一本、南のものも辿らねばなるまい。
ここは局沢川の本流と言っていい大きさだ。
一番町の谷。それから、地獄谷、樹木谷、黄金谷、小粒谷、などとさまざまな名がある。「麹三渓の記」で三丁目谷、柳川と書かれているものもこれであろう。普段は4~5尺幅の小流であるが、大雨時には洪水となり、床上浸水となることもあったようだ。

河口は1つ前とおなじ。

Dansa

ちなみに、河口近辺に、珍しい段差スロープの集合体がある。

歩き出してみると、この谷はほぼまっすぐ、ずっと道路になっている。

Tuboneitibankan

谷底喫茶店。店内にはウーパールーパーがいて、急激に昭和に引き戻される感覚。ナポリタンを食べたが、まだ先に行きたいのでここでは割愛する。

他の局沢支流が住宅とオフィス(含む教育施設)だらけなのに対し、この道は最も飲食店が多く、暗渠めしに困ることはない。

Kaiken

唐突に甲斐犬が現れた。

Kaiken2

山梨愛にあふれる、Kaijiというレストランだった。

ほか、欧風カレー、フレンチ、創作イタリアン、中華、立ち食い蕎麦など、なんでもござれだ。

「紫の一本」で地獄谷として紹介されるこの地は、「昔この近所にて倒れ死ぬもの、成敗したるものをここに捨つ故、骸骨みちみちたりし故名付く」という、怖く、寂しい場所である。想像することが難しいくらいに、異なる風景である。

Tubonejouryu

あっというまに上流端にきた。
このあたりはおそらく、神楽坂へ移動した善国寺があったため善国寺谷と呼ばれたり、柳川の名のもとになった柳橋が架かっていたあたりではあるまいか。

Tubonekokutou

奥のあたりで、やんわりと谷は尽きる。
その区割りや雰囲気に、なんとなく川跡の感じはあった。

Jisou

明治期の地図でも、3つの谷のうち、ここにだけは流れが描かれていた(「東京時層地図」より)。「三丁目の下水」と言われている。

 

Jigokumap_2

ただ、この地形はかなり弄られているはずだ。付近では富士見地区(九段南3丁目)に貝塚があり、この谷が古代に水田として利用されたらしいとうことから、谷自体は古くからあっただろう。しかし外濠を作る際に出た土でこの局沢谷を埋め、宅地にしたという記録もある。江戸以前の地形が分かる史料にたどり着けず、もどかしいのだが、ここにはもっと深い谷があったのだろう。しかし、埋めて浅い谷にしても、そこに水の流れは、残らざるを得なかった。

さまざまな時代に、思いも交叉する。都心の暗渠、って感じだよなあ・・・

さて、ゴハン。

局沢谷ではよりどりみどりである。みたび河口に戻り、

Nishou1

見晴らしの良いレストランにしよう。二松学舎大学の、最上階へ。

Nishou2

ランチは日替わりのハンバーグや、カレーなどがある。きれいで、なかなかおいしい。時間が遅かったため人がほとんどおらず、所謂大学の学食とはなにもかも異なる雰囲気を堪能した。

Nishou3

食後にかわいらしいケーキまでついてくる。

Nishou4

二松学舎ビュー。
最上階のハンバーグは気に入って何度か食べている。地下に学食があり、そちらはまさに食堂で、「これこれ、こういうのでいいんだよ」と、学生に混じりながら味噌ラーメン、ハヤシライスなどを食べた。

もうひとつ局沢谷にある大学といえばここ、大妻女子大学の学食にも潜入する機会があった。

Otuma

こちらも地下であったが、名物らしいホットサンドの具のバリエーションがすばらしい。スープセットにして手作りプリンも付けたこと、具の片方がグラタンらしいこと、以外、忘れてしまった・・・食い意地が張っているはずなのだが、数年たつと記憶が薄れるらしいデス・・・

この記事は、前記事同様、「よいまち新聞」配布に絡めて描いたものです。そろそろ次号の配布に切り替わっているかもしれません。そのときは、「よいまち新聞」で検索をかけてみてください。きっと「大手町暗渠ロジー」も、出てくると思います。

<文献>
・「わが町あれこれ」
・「明治百年古老のつどい」
・「千代田区史」

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清水谷、谷底で飲む水

本当のところ、江戸の内側は苦手だ。
それなりに谷があり、暗渠だって存在するというのに、江戸をつくるさいに随分と土地が改変されているから、地形に対する鼻の利きが悪くなる。調べることは大好きだが、私の興味の中心は明治期までであり、読みにくい古い文字を、漁って読む気もあまりしない。特に千代田区なんて、皇居の関係か下水道台帳の秘匿エリアが多いため、気になる吐口を見つけても、台帳を開いて「ああっ(わかんないんだった)!」となるときのムナシサを思うと、いったい自分はどうやって戦えばいいんだ、という気持ちになってくる。
しかし、正体不明ではあっても、そこにあるうつくしい崖や、湧いちゃった水や、気になる地形は辿らざるを得ない。まして都心の谷は、さまざまな所用のついでに寄りやすく、つまり、やっぱり良いものなのだ。
 
上智大学の裏側で出会うこの崖は、なかなか凄い。
Smzkabe

これもよいのであるが、あるとき、そのさらに下の、壁が剝き出しになった駐車場に目が吸い寄せられた。

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こういった「現代の遺跡」には、なぜか心躍る。

遺跡も含め、ここは清水谷、という谷である。
 
Smzmap4

                                                       カシミール3Dより

上智大の裏から赤坂見附に至る、ごく短い谷だ。今回は、清水谷を練り歩くとしよう。
 
上智大の奥にまわり、坂道を下る。
 
Smzkabe2
 
この擁壁は圧巻。
昔はさぞ暗く、怖い道だったのではないかしらん。
 
じっさい、清水谷の一角にはこんもりとした森があり、戦前までは子どもが寄り付けない雰囲気を放っていたという。
もう少し下の清水谷公園は、小泉八雲「むじな」の舞台でもある。商人が女性に、「こんなところにいては危ない」と言いたくなるような、人気のない、さぞ恐ろしい場所だったのだろう。
 
それから、場所が曖昧ではあるのだが、カレー屋のみえるあたり、このあたりに江戸初期、遊郭があった、とも言われている。こんな傾斜地に?まあ、川沿いではある。ここ麹町遊郭をはじめ、3か所の遊郭が吉原にまとめられたのだそうだ。
麹町遊郭は、もとは京都から移転したものといい、吉原に移っても「京町」なる一角を形成し、京都出身ということに誇りを持っていた。大見世があったのも京町。吉原の区画では、もっとも奥に位置するものである。
 
下ってゆけば、視界が開けて冒頭の駐車場のところにくる。いつの間にか、駐車場には入れなくなり、工事らしきものが始まっていた。
なぜか「だし」の自販機がある。
 
Smzdashi

清水谷公園にさしかかる。

「清水谷」の由来は、この谷に柳の井という井戸があり、清冽な水が絶えず湧いていたことからきている。その井戸のイメージが、公園の中に設置されている。
 
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「八丁目続き、今の麹町谷町と称する地なり。古は67丁目の地はすべて清水谷と称せしか、四ツ谷御堀の揚土をもて78丁目の地を埋めしといへる也」

河内全節「番街誌略」によれば、これでもこの谷は江戸期に埋められている。もう少し、上に続きがあったかのようだ。
 
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東京時層地図((財)地図センター)、「文明開化期(明治9-19年)」を見てみる。冒頭の駐車場の位置に、池がある。そして、谷底に細い細い流れがあって、弁慶堀に注ぐことがわかるだろう。

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同じく東京時層地図にて、大正5~昭和2年を見ると、このころには水路はなくなったかのように見える。

 

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ところが、それよりも後のはずの火災保険特殊地図(1953~55年)を見ると、流れは残っている。上流部など、道を逸れて敷地に食い込んでいる。

 

川、というには、細すぎるだろうか。
この清水谷には、明治期にも、昭和に入ってからも、流れが見られた。地形としては江戸時代に弄られているはずだが、それでも残る高低差に、水は絶えず湧かざるを得なかったのだろう。
 

しかしこの谷、じつに短い。
もうそろそろ、河口だ。
 
現在は「東京ガーデンテラス紀尾井町」が建っているが、これもごく最近のこと。
建設中は、赤プリ時代の写真なんかが、工事現場の壁に貼られていた。
 
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そこから拝借。おお・・・赤プリのプール、お濠の上じゃないか。景観を意識してのことかもしれないが、水の流れ的にも正しい位置だ。などと、思う。

 

そのお濠、弁慶堀は水面の残る貴重な場所。
 
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弁慶橋が架かる。

 

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ただしこの弁慶橋、もとは神田藍染川に架かっていた、とどこかの文献で読んだ。

 

弁慶堀には釣り堀があって、ボートに乗ることができて、ここだけ昭和の空気が漂っている。清水谷を流れてきた川の、河口の痕跡が見えないだろうか。雨水の合流口がぽっかりと在ることが、まあまあある。暗渠を歩くときには、できるだけ河口まで見ておきたいものである。
そう思って、ボートに乗りに来た。
 
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うーん・・・アレ・・・かな?

 

判然とせぬまま。
まあ、ボートでくまなく探索したので、これで良し、といたしましょう。
 
さて、ごはん。
清水谷の、井戸から湧き出す清水は、道行く人たちののどを潤していたという。
しかしその、のどを潤すものは、水だけではなかった。
 
ビール。
 
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前掲の地図の、行政裁判所と清水谷公園との間に、ビール工場があった、という。
明治期の地図に、工場のようなマークが入っている。大きな池のような描写も、恵比寿にあったビール工場のそれと似ている。
 
そのビール会社は、「櫻田麦酒会社」といった。
横浜で創業された、わが国最初のビール工場の代理店であった会社が、ここ紀尾井町に醸造用水等の理由から工場を移転。明治の、ほんの一時期、こんなところにビール工場があったのだ。
のちのアサヒ・サッポロの前身、大日本麦酒になってゆく会社である。
 
明治10~20年代の国産ビールといえば、この櫻田と、浅田であった、という。
浅田。
それは中野にあり、本ブログでもだいぶ前に桃園川支流の記事で話題にしている。
そして、前掲の地図に、伏見宮邸、という文字も見える。加藤清正の下屋敷が井伊家中屋敷となり、伏見宮邸となって、現在はニューオータニである。そういえば、中野にも伏見宮別邸があった。そして伏見宮別邸の近くには、浅田ビール工場があった。なんだか、ビールに縁のあるおかたで・・・
 
今は工場はないけど、ビールはある。
清水谷の暗渠がちょうど見える位置に、オーバカナルがある。
すばらしいことに、「牛肉のビール煮」もあった。
 
Beer

 

ビール煮、うまうま。
目の前に湧水と水路があり、左上の崖の上にビール工場があった。
とっくのむかしに、それは無い。
でも清水谷の谷底には、いまでも良い水があり、道行く人の喉を潤している。

 
さて、この記事は「よいまち新聞vol.3」に寄稿した、「大手町暗渠ロジー」という記事に合わせて書いたものです。
大手町ホトリア地下にあるよいまち、という飲食店街のラックにて、よいまち新聞配布中ですので、ぜひそちらも読んでみてくださいまし。
 
Yoimati

 

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